『国史大辞典』全15巻(全17冊)の編纂がスタートしたのは、昭和40(1965)年のこと。吉川弘文館の前田求恭社長に訊く3回目は、多忙を極めた立ち上げ時期のお話。
「会社に来なくていい」
といわれた新入社員時代

──前田社長ご自身が吉川弘文館に入社し、『国史大辞典』にかかわるようになったきっかけを教えてください。
じつは学生時代、私は映像関係の仕事に進みたかったんです。4年生のとき、テレビ局でバイトもしていましたし、ある局からは内定ももらいました。ところが、その親会社の経営が悪化して内定が取り消しになってしまった。仕方なく局でバイトを続けていたんですが、周囲からはブラブラ遊んでいるように見えたんでしょう(笑)。有識故実の大家でテレビの時代考証もされていた恩師の鈴木敬三先生(注1)が心配して、当時の吉川弘文館社長・吉川圭三に私を紹介したんです。社長は『国史大辞典』の専属の事務局スタッフを探していたようです。私が作成した近世有識故実の卒論に目を通してから、社長直々、自宅にまで来られ、「『国史大辞典』を作るから来てくれ」と。昭和40年8月のことでした。旧版は大学時代にさんざん読んでいましたし、恩師の紹介でもあります。断るわけにはいきません。それから私の『国史大辞典』との付き合いが始まりました。
――手始めにどんなことをされたのですか?
最初に吉川圭三社長に言われたのは、「会社に来なくていい」でした(笑)。「前田君、君は会社に来なくていいよ。君のいる場所はない。1年後には部屋を作ってあげるから」と言われ、本当に1年間、自宅で仕事していたのです。仕事の中心は項目カード作り。既成の辞典、他分野にわたる研究書や論文の中の項目・事項等をカード化していくという作業です。週に一度、事務局の先生方に集まっていただき、そこで報告と指示を受け、作業をする。名立たる専門の先生方の指示に応えねばなりませんから、在宅とはいえ、緊張しながらカード作りをしていました。
――当初、『国史』はいつ出版する予定だったのですか。
1巻につき1000ページ、全10巻で、4年後の昭和44年には刊行がスタートする予定でした。ところが、カード作りだけで4年かかってしまったんです。なにせ全部で35万項目をカード化しましたし、当時はパソコンもコピー機もありませんでしたから、すべてが手作業だったのです。最終的にはこの35万項目を、古代と中世が1・5、近世と近代が2・5、共通が2で比例配分し、5万4000項目にまで絞り込んだのですが、それは想像以上にたいへんな作業でした。
催涙ガスの中で
編集作業に没頭した日々
――最初のころ、前田さんは「会社に住んでいた」ともお聞きしました。
1年後の昭和41年にようやく『国史大辞典』の編纂専用の部屋ができました。会社としては、忙しい編集委員の先生方のために「お好きな時間に来て、お好きな仕事をしてください」とお願いしました。ところが先生によっては、午前中来る方もいれば、深夜にわたる方もいる。事務局としては16名の先生方それぞれに対応せねばならない。ようやく普通の会社員として通勤を始めたのに、結果、通勤自体が不可能になり、私は会社に住み込むことになりました(笑)。7年間、会社で自炊生活。プライベートでの人間関係もほぼ断ち切って、毎日、『国史大辞典』と向き合っていました。といっても会社は電気代、ガス代などのメーターを別にして、私はきっちり光熱費を取られていましたが(笑)。
――昭和40年代といえば、安保闘争(注2)真っ只中です。
吉川弘文館は東京大学の隣にありますから、私どもの社屋もガラス窓を割られるなどかなりの被害に遭いました。昭和44年には東大安田講堂の事件(注3)が起きますが、講堂に突入した警官隊の投げた催涙弾の煙が、こちらにも流れてくる。窓を閉めても催涙ガスは入ってきて、目をこすりながらの作業でした。当時の吉川圭三社長が「採取した35万のカード、1枚1枚に保険をかけよう」と言い出したくらいです。さすがにそこまではしませんでしたが、それぐらい、社長が情熱を傾けていた大事業でした。ところがそんな気持ちとは裏腹に、作業は遅々として進まない。本も出ない。出費ばかりがかさむ日々……。私たちは刊行の危機に直面してしまうのです。