JapanKnowledgePresents ニッポン書物遺産

ジャパンナレッジに収録された、数々の名事典、辞書、叢書……。それぞれにいまに息づく歴史があり、さまざまな物語がある。世界に誇るあの本を、もっと近くに感じてほしいから、作り手たちのことばをおくります。

日本近代文学大事典 episode.3

若手研究者たちが事典づくりを担った

――1977年にいよいよ『日本近代文学大事典』全6巻(講談社)がお目見えします。どんな経緯だったのでしょうか。

中島 日本近代文学館は、1968年に、近代文学の名著の初版本を紙質から忠実に再現した『名著複刻全集 近代文学館』の刊行を開始します。これが非常に成功を収めたようで、館の運営に大きく役立ちました。そんななかで、1971年3月に事典の企画が立ち上がり、同年の秋から本格的な編集が始まります。

紅野 近代文学研究者だった父(紅野敏郎)も、この事典の編集委員のひとりでした。編集委員長の稲垣達郎こそ70代でしたが、編集長の紅野敏郎は49歳。若い研究者が中心になって編集した事典でした。中島先生も執筆者のおひとりですよね?

中島 当時、20代後半で助手をやっていた頃でしたが、先日数えたら、40本書いていました。版元は講談社だったので、同社のある音羽(護国寺駅)の別館ビルに、専任のスタッフが5、6人常駐していたでしょうか。早稲田大学や立教大学の大学院生たちも数多く手伝っていて、私もしばしば音羽に足を運びました。

紅野 若手研究者たちが躍動するような、ひとつの舞台だったのでしょうね。今回、「デジタル版」を担当して改めて思いましたが、書誌情報ひとつとっても、事実関係の裏取りが大変です。どの項目を入れるのか、そういった選定も難しい。しかも、例えばひとりの作家を書くとしたら、膨大な資料にあたらないといけないわけです。評伝を書くのならいいですが、事典の記述は限られた数百字程度で、これは大変な作業です。

中島 ただ今振り返ると、この事典に関わること自体が、学びの場でした。「市川禅海」という明治生まれの作家を担当したのですが、この方の没年がわからない。今ならまずインターネットにあたるでしょうが、当時は足で調べました。禅海が東京・大久保にある全龍寺という禅宗のお寺で得度したことはわかっていたので、そこを訪ねたのですが、やはりわからない。日露海戦(日露戦争)に参加していたので、海軍の親睦団体・水交会を訪ね、軍歴記録を統括する厚生省を訪れ……と彼の足取りを追って、ようやく没年が判明しました。しかし「山中古洞」という明治・大正期に活躍した挿絵画家に関しては、とうとう没年がわからずじまい……ということもありました。実は今でもわからないのです。でも私もつねにアンテナを張っていますので、古書店で見つけた貴重な書籍から偶然探していた足取りをつかむ、ということもたびたびありました。

紅野 市川禅海や山中古洞など、知らない作家の名前が立て続けに出て驚かれたかもしれませんが、この事典は、決して著名な作家だけが載っている事典ではないのです。文学活動というのは、作家として世間に浮上する人もいれば、後に消えていく作家もあるといった浮沈の繰り返しです。そういう無念の記録の側面もある。こうした活動をどこまで拾えるのか、ということにもこの事典は注力しているのです。

――元版の事典は、執筆陣に現役の作家が入っていると伺いました。

中島 「第三の新人」のひとりと目される小島信夫が、「森田草平」を書いています。一方で、自身で評伝を手掛けたという理由で、作家の舟橋聖一が「岩野泡鳴を書かせてくれ」と編集委員会の席上で意欲を見せたと聞いています。どう断ったのかわかりませんが、執筆は資料に詳しい研究者の和田謹吾に落ち着きました。

事典で要約術を学ぶ

――デジタル版も含め、『日本近代文学大事典』の愉しみ方を教えてください。

中島 特徴のひとつは、重要な作家の場合、項目の下に代表作の「説明文」が載っていることです。例えば長谷川泉執筆の「森鷗外」ですと、『舞姫』や『阿部一族』など、11作品が掲載されています。
『高瀬舟』の説明文を見てみましょう。

《短編歴史小説。「中央公論」大正五・一。大正七・二、春陽堂刊の『高瀬舟』に収載。「縁起」に記すように神沢貞幹の『翁草』中の『流人の話』に拠り、安楽死と知足、経済観念の問題を主題とした。弟殺しの罪に問われて遠島になる喜助を高瀬舟に乗せて護送してゆく同心羽田庄兵衛は、自殺をはかって死にきれず苦しんでいる弟の咽喉の剃刀を抜いて死なせてやった喜助が処断されたことに懐疑する。また喜助が島流しに際し貰った二〇〇文の鳥目をありがたがることに驚きの念を持つ。この二つの主題は統一的テーマには高められていないが、安楽死問題については、お上の処断すなわち権威にやすやすと従ってしまってよいかという反語を秘めている。》

  わずか300字で、簡潔に小説を説明しています。「作文」や「論文」という側面でみれば、これほどいいお手本はないでしょう。「要約」の練習にもなります。あるいは、「自分ならば『高瀬舟』をこう説明する」と授業などで批判的に用いてもいい。事典として調べるだけでなく、文章の書き方や要約のテキストとしても使ってほしいですね。

紅野 文学研究は、まず作品を読むことが基本ですが、その書き手がどういう人なのか、どういう環境にあったのか、どんな時代だったのか、ということを知るのはたいへん重要です。『日本近代文学大事典』には、そうした情報が詰まっています。作家の小伝としての要素もありますので、作品と人、両方を見ることができるのです。もうひとつの特徴は、雑誌の情報が多いこと。どんな雑誌かを知るだけでも面白いのですが、その作家がどんな同人誌に携わっていて、そこでどんな仲間と関わっていたか、あるいは仲違いしたのか知ると、より人物も作品も立体的に見えてきます。

――それがデジタル版で気軽に読める。

紅野 今回のデジタル化は、海外の研究者にとっても朗報でしょうね。パソコンやスマホから、『日本近代文学大事典』を読めてしまうのですから。

中島 ぜひ自分なりの愉しみ方、学び方を見つけてください。






『文学事典』

『日本近代文学大事典』が出版される前に刊行された、早稲田文学社編『文藝百科全書』(1909年)などの文学事典類。

『名著復刻全集 近代文学館』

『名著複刻全集 近代文学館』。漱石の『道草』、芥川の『侏儒の言葉』、鏡花の『日本橋』など初版本の装丁や文字組みが再現され、人気を博した。

1977(昭和52)年10月の『日本近代文学大事典』編集会議の様子

1977(昭和52)年10月の『日本近代文学大事典』編集会議の様子。左上が編集委員長を務めた稲垣達郎。右の地図を開いているのが紅野敏郎編集長。

『日本近代文学大事典』の編集部

講談社の別館にあった『日本近代文学大事典』の編集部。本棚には大量の原稿が見える。

「『日本近代文学大事典』の一斑」

稲垣達郎編集委員長が書いた「『日本近代文学大事典』の一斑」。1973(昭和48)年の日本近代文学館の館報に掲載。「全六巻を、類別式に構成したのは、文学事典としては最初のものだが、もっぱら検索の便を考えてである」と記されている。

筆者数は800名を超えた

研究者だけでなく、作家にも執筆を依頼。遠藤周作が「堀辰雄」、瀬戸内晴美(寂聴)が「岡本かの子」、大岡昇平が「日本近代文學とスタンダール」の項目を執筆。筆者数は800名を超えた。

校正の際の「原稿点検上の注意」

校正の際の「原稿点検上の注意」。筆者から届いた原稿をもとに、編集部では初出情報などを裏付けるため、国立国会図書館に出向いた。

1977(昭和52)年に刊行された全6巻の『日本近代文学大事典』と、1984(昭和59)年に刊行された全1巻の机上版

1977(昭和52)年に刊行された全6巻の『日本近代文学大事典』と、1984(昭和59)年に刊行された全1巻の机上版。

中島国彦(なかじま・くにひこ) 中島国彦(なかじま・くにひこ)

1946年東京都生まれ。日本近代文学館理事長、早稲田大学名誉教授。早稲田大学大学院修了、文学博士。1995年『近代文学にみる感受性』(筑摩書房)でやまなし文学賞受賞。著書には『漱石の地図帳 歩く・見る・読む』(大修館書店)、『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)など。


紅野謙介(こうの・けんすけ) 紅野謙介(こうの・けんすけ)

1956年東京都生まれ。日本近代文学館理事、日本大学文理学部特任教授。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。父は早稲田大学名誉教授・紅野敏郎氏。著書に『書物の近代』(ちくま学芸文庫)、『国語教育の危機』(ちくま新書)、『職業としての大学人』(文学通信)など。





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