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「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
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楠木正成(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三六 南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく
北条時宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一二五一 - 八四 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して
北条時頼(国史大辞典・世界大百科事典)
一二二七 - 六三 鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着
北条泰時(国史大辞典・世界大百科事典)
一一八三 - 一二四二 鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)
北条政子(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五七 - 一二二五 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから
源義経(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五九 - 八九 鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)ら
源義朝(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一二三 - 六〇 平安時代後期の武将。源為義の長子として保安四年(一一二三)に誕生、母は淡路守藤原忠清の女。生年は没年から逆算したものであり、出生地も不明である。『保元物語』には父為義の言として、「嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて
平清盛(国史大辞典・世界大百科事典)
一一一八 - 八一 平安時代末期の武将。平忠盛の嫡子。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の妹といわれる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜され、生まれたのが清盛という(『仏舎利相承系図』)。この生母は清盛生誕の翌々年病没したらしい
雪舟(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ) 室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京、相国寺に入り、春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい、画事を周文に習った
源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三九 - 一一〇六平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで
藤原頼通(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
藤原道長(国史大辞典・世界大百科事典)
九六六 - 一〇二七平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫
紫式部(世界大百科事典)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清
蘇我馬子(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
?-626(推古34)飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた
入唐求法巡礼行記(東洋文庫)
東洋文庫157 円仁 足立喜六訳注 塩入良道補注 "平安初期に入唐した天台宗の僧円仁の求法旅行記。10年にわたる苦難の記録は,9世紀なかば,武宗の仏教排撃(会昌の法難)の体験記としても名高い。足立喜六の遺稿に塩入良道が補注を加えた。
アラビアン・ナイト(東洋文庫)
東洋文庫71 前嶋信次訳 中世ペルシア語からアラビア語に訳された説話をもとに,各地の説話を糾合して16世紀のカイロで編まれたアラビア語文学の傑作。アラビア語原典からの完訳は,重訳によって生じた従来の歪んだイスラム観を正す
和漢三才図会(東洋文庫)
東洋文庫447 寺島良安 島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注
江戸中期,大坂の医師寺島良安が中国・明の王圻(おうき)の『三才図会』にならって編んだ,わが国初の図入り百科事典の口語訳。天文,地理から動植物,人事まで,類書を博引傍証して解説する
江戸中期,大坂の医師寺島良安が中国・明の王圻(おうき)の『三才図会』にならって編んだ,わが国初の図入り百科事典の口語訳。天文,地理から動植物,人事まで,類書を博引傍証して解説する
捜神記(東洋文庫・日本大百科全書・集英社世界文学大事典)
東洋文庫10 干宝 竹田晃訳 作者は4世紀半ば,東晋の歴史家で,本書は民間伝説,名士の逸話などを古い書物から抄録したもの。志怪小説とよばれる怪異の記録中もっとも叙述にすぐれ,中国小説の祖とされる。本邦初の全訳。目次 表紙(扉)捜神記原序 巻一
唐代伝奇集(東洋文庫)
東洋文庫2 前野直彬編訳 3~6世紀の六朝時代に伝えられたインド的空想が中国で見事に花開き,妖しい美しさに読者をひき入れるのが唐代の小説「伝奇」である。広い資料のなかから選びぬかれた珠玉の作品111編のうち,第1巻は,比較的長い物語34話
甲子夜話(東洋文庫・世界大百科事典)
東洋文庫306 上は将軍大名の逸話から,下は狐狸妖怪の奇聞まで,ありとあらゆる話柄を記した江戸時代随筆集の白眉。表題は,文政4年(1821),静山62歳の11月甲子の夜に起筆されたことにちなむ。第1巻は,巻一から巻十九まで
空海(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする
最澄(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
行基(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
668‐749(天智7‐天平勝宝1)奈良時代の僧。父は高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。高志氏は百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた
藤原鎌足(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
614‐669(推古22‐天智8)大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ)、御食足(みけたり)とも)といい、推古・舒明朝に仕えた神官で、地位は大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)
聖徳太子(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
?‐622(推古30)六世紀末~七世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は『上宮聖徳法王帝説』に甲午年(五七四)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳
日本武尊(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ、幼名に小碓(おうす)命、倭男具那(やまとおぐな)王がある。
卑弥呼(新版 日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
二世紀末から三世紀前半にかけて、倭国すなわち当時の日本を統治したとされる邪馬台国の女王。しかし、彼女は日本にまだ文字がなかった時代の人物であり、日本の史料にはいっさい登場しない。忽然とその姿を登場させるのは、三世紀に中国で成立した
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
大正天皇(国史大辞典・日本人名大辞典)
一八七九 - 一九二六 一九一二―二六在位。明治十二年(一八七九)八月三十一日午前八時十二分、東京青山御所内御産所にて生誕。明治天皇第三皇子、生母権典侍柳原愛子。九月六日、嘉仁(よしひと)と命名、明宮(はるのみや)と称した
明治天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五二 - 一九一二 一八六七―一九一二在位。嘉永五年(一八五二)九月二十二日、孝明天皇の第二皇子として京都石薬師門内の権大納言中山忠能の邸に生まれる。生母は忠能の娘典侍中山慶子。幼称は祐宮(さちのみや)。幼少時は中山邸で起居したが
孝明天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三一 - 六六 一八四六―六六在位。天保二年(一八三一)六月十四日仁孝天皇の第四皇子として誕生。母は贈左大臣正親町実光の女雅子(新待賢門院)。諱は統仁(おさひと)、幼称は煕(ひろ)宮という。天保六年六月儲君治定、同年九月親王宣下
桃園天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一七四一 - 六二 一七四七―六二在位。諱は遐仁(とおひと)、幼称ははじめ八穂宮(やほのみや)といい、のちに茶地宮(さちのみや)と改称。桜町天皇の第一皇子として寛保元年(一七四一)二月二十九日誕生。母は開明門院(権大納言姉小路実武の女定子)
東山天皇(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典)
一六七五 - 一七〇九 一六八七―一七〇九在位。諱は朝仁(あさひと)。幼称五宮。延宝三年(一六七五)九月三日霊元天皇の第四皇子として誕生。母は内大臣松木宗条の女宗子(敬法門院)。天和二年(一六八二)三月儲君に治定、同年十二月親王宣下
霊元天皇(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典)
一六五四 - 一七三二 一六六三―八七在位。諱は識仁(さとひと)、幼称は高貴宮(あてのみや)。後水尾天皇の第十九皇子として承応三年(一六五四)五月二十五日誕生。母は新広義門院(贈左大臣園基音の女国子)。誕生の年、後光明天皇の養子と定められ
後水尾天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一五九六 - 一六八〇 一六一一―二九在位。慶長元年(一五九六)六月四日後陽成天皇の第三皇子として誕生。母は関白近衛前久の女前子(中和門院)。諱は政仁(ことひと、初訓「ただひと」)。同五年十二月二十一日親王宣下、同十六年三月二十七日
後陽成天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一五七一 - 一六一七 一五八六―一六一一在位。元亀二年(一五七一)十二月十五日正親町天皇の皇子誠仁親王(陽光太上天皇)の第一王子として誕生。母は贈左大臣勧修寺晴右の女晴子(新上東門院)。初名和仁(かずひと)、慶長三年(一五九八)十二月
正親町天皇(国史大辞典・日本人名大辞典)
一五一七 - 九三 一五五七―八六在位。諱は方仁(みちひと)。永正十四年(一五一七)五月二十九日生まる。後奈良天皇の第二皇子、母は参議万里小路賢房の女贈皇太后栄子(吉徳門院)である。天文二年(一五三三)十二月親王宣下および元服の儀を挙げ
後奈良天皇(国史大辞典・日本人名大辞典)
一四九六 - 一五五七 一五二六―五七在位。明応五年(一四九六)十二月二十三日後柏原天皇の第二皇子として権中納言勧修寺政顕第において誕生。母は豊楽門院藤原藤子(贈左大臣勧修寺教秀の女)。諱は知仁(ともひと)。永正九年(一五一二)四月八日親王宣下
後花園天皇(国史大辞典・日本人名大辞典)
一四一九 - 七〇 一四二八―六四在位。名、彦仁(ひこひと)。応永二十六年(一四一九)六月十八日生まれる。父は、早世した兄治仁(はるひと)王のあとを継いで伏見宮第三代となった貞成(さだふさ)親王(後崇光院)。母は、右近衛少将庭田経有の娘幸子
後小松天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一三七七 - 一四三三 一三八二―一四一二在位。名、幹仁(もとひと)。永和三年(一三七七)六月二十七日、前内大臣三条公忠の押小路(おしこうじ)殿で生まれた。父は北朝五代後円融天皇、母は公忠の娘厳子(通陽門院)。永徳二年(一三八二)四月七日
後光厳天皇(国史大辞典・日本人名大辞典)
一三三八 - 七四 一三五二―七一北朝在位。暦応元年(一三三八)三月二日光厳天皇の第二皇子として誕生。母は三条公秀の女陽禄門院藤原秀子。諱は弥仁(いやひと)。仏門に入る予定で日野資名に養育されたが、政局の急変によりにわかに皇位についた
崇光天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一三三四 - 九八 一三四八―五一北朝在位。諱は興仁(初め益仁)。建武元年(一三三四)四月二十二日、光厳上皇の第一皇子として誕生。母は三条公秀の女、典侍秀子(陽禄門院)。のち徽安門院寿子内親王を准母となす。暦応元年(一三三八)光明天皇の皇太子に立ち
光明天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一三二一 - 八〇 一三三六―四八北朝在位。元亨元年(一三二一)十二月二十三日後伏見天皇の皇子として誕生。母は西園寺公衡の女広義門院藤原寧子である。翌二年二月親王宣下あり、豊仁(とよひと)と命名。建武三年(延元元、一三三六)六月
光厳天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三一三 - 六四 一三三一―三三在位。正和二年(一三一三)七月九日、持明院統の後伏見天皇の第一皇子として一条内経の一条邸で生誕。母は前左大臣西園寺公衡の女寧子(のちの広義門院)。名は量仁。大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子には、同統の邦良親王
長慶天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
一三四三 - 九四 一三六八―八三在位。南朝第三代の天皇。名寛成。後村上天皇の皇子。興国四年(北朝康永二、一三四三)生まれる。母は嘉喜門院と考定される。晩年出家して覚理と号したらしく、同天皇の称号長慶院は禅宗寺院の一坊たる長慶院に