NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
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杉田玄白(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七三三 - 一八一七江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。諱は翼、字を子鳳、号を斎といい、晩年に九幸翁の別号を用いた。その居を天真楼と称し、家塾名ともした。晩年建てた書斎を小詩仙堂と呼ぶ。玄白は通称。享保十八年(一七三三)九月十三日
大岡忠相(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
[1677―1751]江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり
徳川吉宗(改訂新版 世界大百科事典)
1684-1751(貞享1-宝暦1)江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行
新井白石(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一六五七 - 一七二五江戸時代中期の儒学者、政治家。名は君美(きんみ)。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる
徳川綱吉(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六四六 - 一七〇九 江戸幕府第五代将軍。一六八〇―一七〇九在職。三代将軍家光の第四子。母は本庄氏(於玉、桂昌院)。正保三年(一六四六)正月八日、江戸城本丸に生まれる。幼名徳松。慶安元年(一六四八)三ノ丸に移る。同四年四月三日
益田時貞(天草四郎)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一六三八 島原の乱における一揆軍の首領。通常、天草四郎時貞といわれるが、一揆当時の史料には「四郎」「益田四郎」とあり、乱後の覚書などには「大矢野四郎」「江辺(部)四郎」の呼称がみえる。没年の年齢が十六歳というから
徳川家光(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六〇四 - 五一 江戸幕府第三代将軍。一六二三―五一在職。二代将軍秀忠の次男。慶長九年(一六〇四)七月十七日生まれる。母は秀忠正室浅井氏(お江、崇源院)。兄長丸早世により、実質長男として祖父家康の幼名竹千代を与えられた
伊達政宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
斎藤道三(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一五五六 美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば
北条早雲(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四三二 - 一五一九戦国時代の武将。小田原北条氏の初代。早雲は庵号で、また北条を称したことはなく、一般に言い古されているこの呼称は、俗称というほかない。正しくは、伊勢を氏とし、新九郎を通称としている。入道してからは、「早雲庵宗瑞」あるいは「宗瑞」と
一休宗純(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
一三九四 - 一四八一 室町時代前期の臨済宗大応派大徳寺派下の禅僧。はじめ法名を周建といい、のち宗純と改め、一時宗順とも称し、道号を一休といい、別に狂雲子と号した。後小松天皇の皇子、母は南朝の遺臣花山院某の女。応永元年(一三九四)京都の民家において出生
足利義政(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四三五 - 九〇 室町幕府第八代将軍。一四四九―七三在職。六代将軍義教の子で七代将軍義勝の同母弟。永享七年(一四三五)正月二日誕生。幼名三春。嘉吉三年(一四四三)七月義勝の死後、八歳で家督を嗣ぎ文安三年(一四四六)十二月十三日後花園天皇から
世阿弥(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳 室町時代前期の能役者・能(謡曲)作者・能楽伝書の著者。大和猿楽観世座(結崎座)の二代目大夫。幼名は鬼夜叉・藤若。通称三郎、実名は元清といい、秦氏を称した。法名は至翁・善芳。阿弥号は正式には世阿弥陀仏で、世阿・世阿弥はその略称
足利義満(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三五八 - 一四〇八 室町幕府第三代将軍。一三六八―九四在職。二代義詮の子。母は石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。良子の母通玄寺開山智泉聖通は順徳皇子四辻宮善統親王の孫にあたる。良子は義詮に侍し義満とその弟満詮を生む。義満は延文三年
足利尊氏(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三〇五 - 五八 室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を
新田義貞(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三八 鎌倉・南北朝時代の武将。新田朝氏の嫡子。小太郎。左中将、右衛門佐、治部大輔を歴任。義貞は元弘三年(一三三三)河内に蜂起した楠木正成討伐の楠木合戦に御家人として参加したが途中で上野に帰国した。ところが幕府の軍費調達の有徳
楠木正成(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三六 南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく
北条時宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二五一 - 八四 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して
北条時頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二二七 - 六三 鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着
北条泰時(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一八三 - 一二四二 鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)
北条政子(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五七 - 一二二五 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから
源義経(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五九 - 八九 鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)ら
源義朝(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一二三 - 六〇 平安時代後期の武将。源為義の長子として保安四年(一一二三)に誕生、母は淡路守藤原忠清の女。生年は没年から逆算したものであり、出生地も不明である。『保元物語』には父為義の言として、「嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて
平清盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一一八 - 八一 平安時代末期の武将。平忠盛の嫡子。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の妹といわれる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜され、生まれたのが清盛という(『仏舎利相承系図』)。この生母は清盛生誕の翌々年病没したらしい
雪舟(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ) 室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京、相国寺に入り、春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい、画事を周文に習った
源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三九 - 一一〇六平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで
藤原頼通(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
藤原道長(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
九六六 - 一〇二七平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫
紫式部(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清
蘇我馬子(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
?-626(推古34)飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた
入唐求法巡礼行記(東洋文庫)
東洋文庫157 円仁 足立喜六訳注 塩入良道補注 "平安初期に入唐した天台宗の僧円仁の求法旅行記。10年にわたる苦難の記録は,9世紀なかば,武宗の仏教排撃(会昌の法難)の体験記としても名高い。足立喜六の遺稿に塩入良道が補注を加えた。
アラビアン・ナイト(東洋文庫)
東洋文庫71 前嶋信次訳 中世ペルシア語からアラビア語に訳された説話をもとに,各地の説話を糾合して16世紀のカイロで編まれたアラビア語文学の傑作。アラビア語原典からの完訳は,重訳によって生じた従来の歪んだイスラム観を正す
和漢三才図会(東洋文庫・日本大百科全書)
東洋文庫447 寺島良安 島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注
江戸中期,大坂の医師寺島良安が中国・明の王圻(おうき)の『三才図会』にならって編んだ,わが国初の図入り百科事典の口語訳。天文,地理から動植物,人事まで,類書を博引傍証して解説する
捜神記(東洋文庫・日本大百科全書・集英社世界文学大事典)
東洋文庫10 干宝 竹田晃訳 作者は4世紀半ば,東晋の歴史家で,本書は民間伝説,名士の逸話などを古い書物から抄録したもの。志怪小説とよばれる怪異の記録中もっとも叙述にすぐれ,中国小説の祖とされる。本邦初の全訳。目次 表紙(扉)捜神記原序 巻一
唐代伝奇集(東洋文庫)
東洋文庫2 前野直彬編訳 3~6世紀の六朝時代に伝えられたインド的空想が中国で見事に花開き,妖しい美しさに読者をひき入れるのが唐代の小説「伝奇」である。広い資料のなかから選びぬかれた珠玉の作品111編のうち,第1巻は,比較的長い物語34話
甲子夜話(東洋文庫・日本大百科全書・世界大百科事典)
東洋文庫306 上は将軍大名の逸話から,下は狐狸妖怪の奇聞まで,ありとあらゆる話柄を記した江戸時代随筆集の白眉。表題は,文政4年(1821),静山62歳の11月甲子の夜に起筆されたことにちなむ。第1巻は,巻一から巻十九まで
空海(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする
最澄(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
行基(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
668‐749(天智7‐天平勝宝1)奈良時代の僧。父は高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。高志氏は百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた
藤原鎌足(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
614‐669(推古22‐天智8)大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ)、御食足(みけたり)とも)といい、推古・舒明朝に仕えた神官で、地位は大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)
聖徳太子(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐622(推古30)六世紀末~七世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は『上宮聖徳法王帝説』に甲午年(五七四)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳
日本武尊(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ、幼名に小碓(おうす)命、倭男具那(やまとおぐな)王がある。
卑弥呼(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
二世紀末から三世紀前半にかけて、倭国すなわち当時の日本を統治したとされる邪馬台国の女王。しかし、彼女は日本にまだ文字がなかった時代の人物であり、日本の史料にはいっさい登場しない。忽然とその姿を登場させるのは、三世紀に中国で成立した
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