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阿弥陀(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・Encyclopedia of Japan)
極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという

来迎図(世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
浄土教美術の中では最も重要な主題の一つで,その大部分は阿弥陀如来の来迎を説く阿弥陀来迎図であるが,ほかに弥勒菩薩や十一面観音などの来迎図もある。また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。来迎図の教理的根拠は《無量寿経》

僧尼令(国史大辞典・世界大百科事典)
『養老令』の篇目。同令の第七篇で、二十七条よりなる。『大宝令』の僧尼令もほぼ同内容。仏教教団の僧尼を統制する法典。日本令の母法である唐令には僧尼令はなく、道教の道士・道士女および仏教の僧尼を統制するための道僧格があった。日本僧尼令は唐道僧格から

鎌倉仏教(国史大辞典)
鎌倉仏教は新仏教の成立と南都仏教の復興に分けて論ぜられる。新仏教は法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗であるが、その成立の原因については仏教思想の変遷を主軸とする研究と、社会・経済の変遷に即して見る研究と

大乗仏教(国史大辞典・世界大百科事典)
インドで西暦紀元後に興起した新しい形態の仏教。サンスクリットでマハーヤーナMahāyānaという。Mahāとは「大きい」の意、yānaとは「乗物」を意味する。それ以前からあった保守的な仏教(いわゆる小乗仏教)では修行僧が独善的になる傾きがあったのに

邪馬台国(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸

倭奴国王印(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代の天明四年(一七八四)、筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)南岸の叶の崎(かなのさき、福岡市東区)から出土した「漢委奴国王」の印文をもった純金の印。その形は方形で、方平均二・三四七センチ、高〇・八八七センチの小さい印台の上に、蛇形ともみえる鈕が

弥生土器(世界大百科事典)
弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに

ゆかし(全文全訳古語辞典)
〔形容詞シク活用〕 [類義語]なつかし・こころにくし ⇒ゆかしがる動詞「行く」の形容詞化した語。そちらの方へ行ってみたくなるほど興味がひかれる、がもとの意。そこから、知りたい、見たい、なつかしい、恋しい、などの意が生まれる。❶興味・関心をひかれる

さうざうし(全文全訳古語辞典)
〔形容詞シク活用〕 《漢語「索々(さくさく)」または「寂々(さくさく)」を形容詞化した「さくさくし」のウ音便といわれる》現代語のそうぞうしいとは別の語。あるべきものがなくて、物足りない、の意。(当然あるべきものがなくて)物足りない。心寂しい

さがなし(全文全訳古語辞典)
〔形容詞ク活用〕 《名詞「さが(性)」+「無し」》性質の意のさがに無しが付いてできた形容詞。よい性質がない、たちが悪い、の意。現代語の「くちさがない」に残る。❶(よい性質がない意から)性質がよくない。意地が悪い。例「春宮(とうぐう)の女御

をかし(全文全訳古語辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
〔形容詞シク活用〕 [類義語]をこがまし⇒をかしげ理知的に好奇心や興味を感じる情趣や、視覚・聴覚などで興味深くとらえた美、を表す。平安時代、「あはれ」と対比される語。❶笑いたいほどである。こっけいである。おかしい。例「中将をかしきを念じて」

いみじ(全文全訳古語辞典)
〔形容詞シク活用〕 《動詞「い(忌)む」の連用形の名詞「いみ」を形容詞化した語》 [類義語]ゆゆしその様子や状態が、並の程度ではない、が基本の意。好ましい場合にも、好ましくない場合にも用いる。何についての程度かは文脈による。❶はなはだしい

道外方(歌舞伎事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
役柄の一つ。歌舞伎の道化(どうけ)の役柄およびその役柄を専門に演じる俳優をいう。〈三枚目〉は後世の通称。日本の芸能の伝統的な展開の一方法である〈もどき〉によって、初期の歌舞伎では道外方が重要な役目を果たしていた。西欧のフールと同じ道化、阿呆、泣男

近松門左衛門(歌舞伎事典・日本大百科全書)
浄瑠璃作者。歌舞伎作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉、長じて通称平馬。他に平安堂・巣林子(そうりんし)、不移山人などの号がある。近松は父の杉森信義が越前吉江藩の幼主に仕えて福井に在住していたとき次男として生まれたらしいが、父が浪人したため一五‐一九歳の頃

市川団十郎(歌舞伎事典・世界大百科事典)
歌舞伎俳優。一二世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した三世・六世を除いて代々名優で、江戸歌舞伎界屈指の名跡である。【初世】1660‐1704 祖先は甲州の武士で、永正年中に北条氏康の家臣となり、のち下総国埴生

役者評判記(歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典)
歌舞伎役者に対する芸評の書。広義には歌舞伎若衆の容色を品評する〈野郎評判記〉をも含めることもあるが、普通はこれと区別して、立役・敵役・若女方などすべての役柄の役者の技芸を批評する書物をいう。〈野郎評判記〉は明暦二(1656)年に始まると伝えられるが

仮名手本忠臣蔵(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典)
第一 鶴岡の饗応(兜改め) 〔一〕御馳走があっても食べてみないとそのうまさが味わえないということは、国が平和に治っている時は立派な武士の忠義も武勇も隠れているのに例えられ、それは星が昼には見えないで夜はきらめいて現れるようなものである。その例をここに

フグ(世界大百科事典)
フグ目フグ科Tetraodontidaeに属する海産魚の総称。広義にはフグ目のイトマキフグ科Aracanidae,ハコフグ科Ostraciontidae,ハリセンボン科Diodontidaeなどの魚を含めていう場合もあるが,以下,狭義のフグ科魚類に

ブリ(世界大百科事典)
スズキ目アジ科ブリ属の海産魚。温帯性の回遊魚で日本各地の沿岸に見られる。季節によってはカムチャツカ半島の南部,サハリン,沿海州,朝鮮半島および台湾沿海にも出現する。典型的な紡錘形で,わずかに側扁する。背は青色,腹部は銀白色で,吻端(ふんたん)から尾に

ユズ(日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
解説・用例〔名〕(1)ミカン科の常緑小高木。中国の揚子江上流原産とされ、各地で栽培される。高さ約四メートル。枝に長いとげがある。葉は翼のある柄をもち長卵形で縁に鋸歯(きょし)がある。初夏、葉腋に純白色の小さな五弁花を一個ずつ開く。果実は扁球形で

大根(日本国語大辞典・世界大百科事典)
解説・用例【一】〔名〕〔一〕(「おおね」に当てた漢字を音読したもの)(1)アブラナ科の一年草または二年草。中央アジア原産とみられ、重要な蔬菜として古くから広く栽培されている。高さ約一メートル。地下に多汁・多肉質で長大な白い根がある。葉は群がって生え

自愛(日本国語大辞典)
解説・用例〔名〕(1)自分を大切にすること。自分の体に気をつけること。現代では、「御自愛」の形で、手紙の末文などで相手に向けて用いることが多い。*家伝〔760頃〕上(寧楽遺文)「入吾堂者、无如宗我大郎、但公神識奇相、実勝此人、願深自愛」*明衡往来

中央銀行(世界大百科事典)
今日の世界各国には,それぞれの金融組織の中核として金融調節を行い,金融政策の運営を担当する単一の銀行,すなわち中央銀行が存在している。具体的には,アメリカの連邦準備制度,イギリスのイングランド銀行,フランスのフランス銀行,ドイツのドイツ連邦銀行

薬価基準(世界大百科事典)
医療保険制度に基づく診療行為において使用できる医薬品の範囲と使用した医薬品の医療保険での支払い価格を定めたもの。薬価基準は,厚生大臣が定め,医薬品の品目表にそれぞれの品目ごとに規格・単位と薬価を示した価格表である。薬価基準に医薬品名を収載するには

王羲之(日本大百科全書・世界文学大事典・世界人名大辞典)
中国、東晋 (とうしん)時代の能書家。中国、日本において書聖として尊重される。東晋の建国に功労のあった王導 (おうどう)の従弟 (いとこ)王曠 (おうこう)の子。字 (あざな)は逸少 (いっしょう)。琅邪 (ろうや)臨沂 (りんぎ)

エリザベス1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
イングランドおよびアイルランド女王 [1558/1603].ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘としてロンドンに生まれ,議会の承認を得た父の遺言により,異母弟エドワード6世および異母姉メアリ1世につぐイングランド(およびアイルランド)王位継承者となる

カトリーヌ・ド・メディシス(世界人名大辞典・世界大百科事典)
フランス王アンリ2世の王妃.フィレンツェのメディチ家のロレンツォ・ディ・メディチ(Lorenzo de' M. 1492~1519)の娘.フランソワ2世,シャルル9世,アンリ3世の母.不幸な結婚生活 [1533-59]を送り,夫王の死後は政治的野心

カルバン(世界文学大事典・世界人名大辞典)
フランスの宗教改革者。北フランスのピカルディー地方ノワイヨンに生まれ,パリ,オルレアン,ブールジュの各大学で神学,法学を修め,さらにフランソワ1世の創設した王立教授団において,人文学を学んだ。22歳にして『セネカ〈寛仁論〉注解』

パッラディオ(世界人名大辞典・日本大百科全書)
イタリアの建築家.パドヴァに生まれる.ヴィチェンツァで人文主義者トリッシノに出会い,ウィトルウィウスをはじめ古代ローマ建築の研究を始める.田園の別荘住宅に古代建築の要素を持ち込んだ.円柱,アーチ,ペディメントを自在に重ね構成されるスタイルは

スレイマン1世(世界大百科事典・世界人名大辞典・日本大百科全書)
オスマン帝国第10代のスルタン。立法者(カーヌーニー)とも呼ばれる。在位1520-66年。彼の時代に帝国は最盛期を謳歌し,その領土はアジア,アフリカ,ヨーロッパ3大陸にまたがり,東地中海一帯を覆う大帝国となった。在位中,13回の親征を行ったが

小早川秀秋(国史大辞典)
一五八二 - 一六〇二 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の第五子。母は杉原七郎左衛門家次の女。天正十年(一五八二)近江長浜に生まれる。幼名辰之助。幼少から秀吉の養子となり高台院の膝下に養育され羽柴秀俊と名のり、同十九年参議に任じ

竹中半兵衛(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五四四 - 七九 戦国時代の武将。もとの名は重虎、通称は半兵衛。重元の子。天文十三年(一五四四)生まれる。竹中氏は美濃国(岐阜県)の豪族であり、当初は美濃国守護斎藤竜興の武将として仕えていたが、永禄十年(一五六七)八月、織田信長が斎藤竜興を攻め

柴田勝家(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
? - 一五八三 安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡に生まれる。織田信行(信長の弟)に属して信長と敵対したが、のち許されて信長の家臣となる。元亀元年(一五七〇)六角承禎・義治父子と戦って近江長光寺に籠城した際、飲料水を貯えた水甕を叩き割って決死の覚悟を

佐々木小次郎(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
?‐1612(慶長17) 安土桃山時代から江戸初期の剣豪。幼名は九三郎といわれ、巌流とも称した。出身は越前国とも、周防国ともいわれる。幼い頃から富田流剣法の中興の祖である富田勢源に剣法を学び、長じて諸国を武者修行の末、「物干し竿」といわれる長太刀で

前田利家(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三八 - 九九 安土桃山時代の武将。犬千代、孫四郎、又左衛門尉。天文七年(一五三八)尾張国愛知郡荒子村(名古屋市中川区荒子町)に前田利春(利昌)の四男として生まれる。幼少のころより織田信長に仕えたが、永禄二年(一五五九)同輩との争いから信長の勘気を

長宗我部元親(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三八 - 九九 戦国時代の武将。土佐国の大名。幼名弥三郎、のち宮内少輔、羽柴土佐侍従。長宗我部国親の長男として天文七年(一五三八)長岡郡岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。幼少時は姫若子といわれた柔和な性格で国親は心痛していたという。永禄三年

滝川一益(国史大辞典・世界大百科事典)
一五二五 - 八六 安土桃山時代の武将。左近将監。大永五年(一五二五)滝川一勝の子として生まれる。織田信長に仕え、伊勢国司北畠氏との戦いに参加。永禄十二年(一五六九)大河内城攻撃の功によって北伊勢五郡を与えられ、付近一帯の指出検地を行なっている

西鶴諸国ばなし(日本古典文学全集・世界大百科事典・日本大百科全書)
西鶴諸国ばなし(扉)絵入 西鶴諸国はなし 一(扉)巻一 あらまし大下馬 巻一 目録公事は破らずに勝つ見せぬ所は女大工大晦日はあはぬ算用傘の御託宣不思議のあし音雲中の腕押し狐四天王絵入 西鶴諸国はなし 二(扉)巻二 あらまし大下馬 巻二 目録姿の飛び乗

好色一代女(日本古典文学全集・世界大百科事典)
老女の隠れ家 「美女は男の命を断つ斧」と昔の人もいっている。咲いた花がいつか散り、枝は夕の薪となるように、人間もいつか年老いて死んでいくのは誰も逃れられぬ運命である。しかし、それを時ならぬ朝の嵐に散らすように、色道に溺れて若死にする人ほど愚かな者

好色五人女(日本古典文学全集・世界大百科事典)
恋は闇夜を昼の国 春の海は静かに、宝船が碇をおろす、室津という所は、繁盛の大港である。ここに酒造りを家業とする和泉清左衛門という商人があった。家は栄え、万事に不足なく、その上、息子に清十郎といって、その生れつきはおのずから業平の姿絵よりも美しく

酉の市(世界大百科事典・国史大辞典)
11月酉の日の鷲(おおとり)(大鳥)神社の祭礼に立つ市。この祭りを〈酉のまち〉〈おとりさま〉などともいう。露店で縁起物の熊手などが売り出されることで有名。鷲神社は武運長久の神として武士にも信じられたが,庶民の間では商売繁昌・開運の神として信仰されて

鶴見川(日本歴史地名大系)
東京都町田(まちだ)市上小山田(かみおやまだ)町と東京都八王子市南大沢(みなみおおさわ)との境をなす大沢峠の南の中腹の山林中に源を発し、上小山田山中の諸水源を集めて町田市図師(ずし)町へ向かって川を形成する。上小山田町の忠生(ただお)第二小学校前

本郷菊坂町(日本歴史地名大系)
[現]文京区本郷五丁目持組大縄地などを隔てて本郷五―六丁目の西方に位置する拝領町屋。町屋は真光(しんこう)寺の裏手から備中福山藩阿部家の下屋敷まで南東―北西に走る通り(現在の菊坂の通り)の北東側に開け、通りの南西側は崖地となっていた

箱崎(日本歴史地名大系)
宇美(うみ)川下流の左岸に位置し、博多湾に面している。筥崎宮が鎮座し、本来宮は筥崎、地名などは箱崎と記すのが原則らしいが、史料上は混用されている。「後拾遺往生伝」巻上(上人安尊)によると、応徳―寛治(一〇八四―九四)頃に「筑前国内山寺」

国内総生産(世界大百科事典・日本大百科全書)
国内総生産および国民総生産の概念は,国民経済計算の体系における連結生産勘定の借方項目として記録され,この勘定を作成する国と海外との要素所得の受取りおよび支払と密接な関連をもっている。国内総生産勘定を作成する国の〈居住者〉である生産者によって生産された

コルテス(世界大百科事典・世界人名大辞典)
スペインのコンキスタドール。イダルゴ(下級貴族)の子としてスペインのエストレマドゥラ地方に生まれ,一時サラマンカ大学に学ぶ。1504年イスパニオラ島へ渡り,11年ディエゴ・ベラスケスとともにキューバ島征服に参加。18年,キューバ総督ベラスケスより

ラファエロ(世界大百科事典)
イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエルRaphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けた

ルター(世界大百科事典・日本大百科全書・世界文学大事典)
ドイツの宗教改革者。農民の出で鉱夫であったハンス・ルターHans Lutherの子として中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。のちマンスフェルトに移住し,事業に成功を収めた父の期待を受けて,同地,さらにマクデブルク,アイゼナハの学校を経て

マゼラン(世界大百科事典・日本大百科全書)
最初の世界周航者。マゼランMagellanは英語名で,ポルトガル語ではマガリャンイス。ポルトガルのオポルト付近に生まれたが,その出自などについては不明な点が多い。1505年F.アルメイダの艦隊に参加してインドに向かい,09年にはD.L.セケイラの艦隊

ミケランジェロ(世界大百科事典・日本大百科全書・世界人名大辞典)
イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として

蒲生氏郷(国史大辞典・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
一五五六 - 九五 安土桃山時代の武将。会津若松城主。利休七哲の一人。幼名鶴千代、忠三郎、賦秀(やすひで)、洗礼名レオン。弘治二年(一五五六)近江国蒲生郡日野(中野)城主で六角氏の重臣賢秀の第一子として生まれる。永禄十一年(一五六八)織田信長に降った

朝倉孝景(国史大辞典・日本大百科全書)
(一)一四二八 - 八一 室町時代の武将。越前国守護代。正長元年(一四二八)四月十九日、家景の嫡子として生まれる。幼名小太郎。孫右衛門尉、のち弾正左衛門尉と称し、教景のち繁景、そののち孝景を名乗る。敏景とするものは『朝倉始末記』系統のものである