相姦露見というとらわれ
『古事記』をよむなかで、あまり疑いをはさまずによんできたところを、何かしらのきっかけで考え直してみることがある。そして、別なよみ方の可能性を考えはじめることが、新しい問題の広がりをもたらすことがある。
そうした一つが、
軽太子・
軽大郎女の物語であった。同母の兄妹でありながら愛し合ってしまい、共に自死するという、この悲劇の話は、下巻
允恭天皇の条に載る(本書三一九~三二七ページ)。天皇の崩後、太子がいまだ即位しない間に、太子は同母の妹軽大郎女に通じた。そして、人々が太子に背き、太子は、
大前小前宿禰の家に逃げ入って戦おうとしたが、とらえられ、
伊予に流された。その太子を追って、大郎女は伊予に行き、二人は共に自死した。多くの歌(十二首)を含んで語られる物語であり、『古事記』のなかでももっとも印象深い話の一つである。
物語は、相姦から人心離反・太子の逮捕へと展開する。それを、許されない二人の関係が露見し、ために人心離反して太子は伊予に流されることになったとよむのが普通である。
しかし、相姦が露見して人心離反した、ということは語られていないのではないだろうか。そう考え直してみたいと思ったのは、歌の問題からである。物語の叙述をたどれば、太子が大郎女に通じたことを語り、逢うことのかなった喜びの歌と、なお高まる思いの歌とを二首載せるのに続いて、
是を以て、百官と天の下の人等と、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。(本書三二一ページ)
といい、
大前小前宿禰の家に逃げ入ったがとらえられたという展開となる。そして、とらえられ流される太子と、大郎女との歌のやりとりの歌物語となるのだが、とらえられた太子はこう歌う。
天廻む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く(本書三二三ページ)
この歌について、「軽の嬢子」が呼びかけで、太子が「下泣きに泣く」ととる説もあるが、太子が呼びかけておいて「わたしは声を忍んで泣くのだ」というのでは、いかにもちぐはぐである。「軽の嬢子」が主語で「下泣きに泣く」が述語、「甚泣かば 人知りぬべし」は挿入文と解する説によるべきであろう。ひどく泣いたら人が知るだろう、それで大郎女は声を忍んで泣くのだ、と解される。
「人知りぬべし」――人が知るだろう――というのだから、歌は、二人の関係がいまだ人には知られていないものとして歌っているのだ(呼びかけ説をとるとしてもこの点はおなじだ)。露見説は、歌と話とが矛盾していておかしいとするが、おかしいのは、露見を前提とするよみ方ではないのか。
歌に従って、相姦露見ということから離れてよむべきなのである。そのとらわれから離れてみるとき、露見がどこにも語られていないということが素直に受け入れられよう。「是を以て」をはさんで、相姦のことと人々の背くこととが続くが、背くこととのかかわりで相姦の露見が述べられるのではない。ただ二つの事柄を並べてよむことがもとめられているというべきである。関係が露見していないから、大郎女は咎められておらず、伊予に行くことができるのだとも納得できる。
兄妹の恋とは別に太子の排除(つまり皇位争い)があった。太子が破れて伊予に流されるとともに、恋も悲劇的な結末を迎える。それが『古事記』の語るところなのである。
臣下の推戴においてある天皇
そのようにしてよむとき、人心の離反が何の根拠もなく述べられることになってしまうという批判を受けるかもしれない。しかし、露見→離反というわかりやすさに委ねてよむことから離れることによって、かえって、問題は明確になる。
允恭天皇の即位のいきさつを含めて、臣下の推戴においてある天皇という点からよむべきことを、露見→離反というわかりやすさのなかで見忘れてきたのではないだろうか。
天皇、初め天津日継を知らさむと為し時に、天皇の辞びて詔ひしく、「我は、一つの長き病有り。日継を知らすこと得じ」とのりたまひき。然れども、大后を始めて諸の卿等、 堅く奏すに因りて、乃ち天の下を治めき。(本書三一八~九ページ)
これが、允恭天皇の即位を語る
件だが、臣下の勧めを受けて即位するのである。そうした関与(推戴)が、皇統の継受(日継)の、いわば本質にかかわることは、
日継を受け継ぐものがいないという、次のような場面であらわになる。
清寧天皇の条に、
天皇の崩りましし後に、天の下を治むべき王無し。是に、日継知らさむ王を問ひて、市辺忍歯別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王を、葛城の忍海の高木角刺宮に坐せき。(本書三五五ページ)
といい、
武烈天皇の条に、
天皇既に崩りますに、日続を知らすべき王無し。故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合せて、天の下を授け奉りき。(本書三七一ページ)
とある。後者は、
継体天皇の即位のいきさつだが、「上り坐さしめて」「授け奉りき」と、即位が臣下によってはかられることは明らかだ。前者は、清寧天皇崩後、
顕宗天皇の即位前のこととして述べられるが、「日継知らさむ王を問ひて」という主体は臣下である。従って、飯豊王を「
角刺宮に
坐せき」と、「坐」は他動詞でよむこととなる(「坐しき」とよむ説が有力だが、それでは「問ひて」からの文脈が落ち着きを得ない)。ここでも臣下がはかる即位ということをみる。
天皇の正統性の根源は、無論、血統にある。しかし、その継受を正しくあらしめてゆくものとして、臣下の関与がある。いま、「
軽太子を
背きて、
穴穂御子に
帰りき」に即していえば、太子が臣下の推戴を得られなくなったということなのである。人々は穴穂皇子を推戴しようという動きとなった。その具体的ないきさつは述べられないが、「背きて」に事態を了解すれば十分であろう。太子が頼った
大前小前宿禰も
穴穂皇子の推戴の側に立つこととなって、太子の敗北は決定したということなのである。
そうしたよみ方を明確にしたとき、この話の書き出しの問題も明らかになることに気づかされる。書き出しの原文はこうある。
天皇崩之後、定木梨之軽太子所知日継、未即位之間、(本書三一八ページ)
下線部は「木梨の軽太子、日継知らしめすに定まれるを」のごとく、「定」を自動詞によむのがふつうだが、構文的には「定」は他動詞として用いられているとみるべきである。「
木梨之軽太子の
日継を知らすことを
定めたるに」とよむのが妥当であろう。臣下が「定め」るのであり、「軽太子を
背きて、
穴穂御に
帰りき」ということと照応する。
そうしたことを、相姦が露見して人心離反し、太子は流されたというよみ方のなかで、見過してきてしまったのではないか。
歌の役割
あらためていえば、兄妹の恋と皇位争いとは、並行して二重に進行するものであり、一つの事柄として整合して組み立てるべきではないということである。太子と大郎女の相姦―太子の排除・配流―二人の自死、と一続きに述べられるのは、叙述としては線条にならざるをえないからであるが、事柄の構造としては並行的なのである。その点を明確にするとき、必ずしも正当にみられてきたとはいいがたい、ここでの歌の役割に目が向けられる。
『古事記』は、序文で「訓」(漢字の意味)を中心に書くという。本文も実際そうなっているわけだが、「訓」によって述べられるのは、事柄であり、その結果としてあるのは、つぎつぎと起るできごとの連なりとしての物語である。一字一音で書かれる歌は、そうした叙述とは異なるものとして働く。意味の論理とは違うものをになうといってもよい。
兄妹の恋の側が、歌を中心とすることは一見して明らかだ。歌の数でいえば、ここに含まれる歌十二首中十首がこちらの側に属する。簡単な状況説明的な地の文以外はすべて二人の歌いかわしという体なのである。たとえば発端はこう語られる。
未だ位に即かぬ間に、其のいろ妹、軽大郎女を姦して、歌ひて曰はく、
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ
此は、志良宜歌ぞ。
又、歌ひて曰はく、
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
此は、夷振の上歌ぞ。(本書三一九~二一ページ)
前の歌は、恋の成就の喜びを歌うもの、後のは、逢ってなお
飽かぬ思いをいうものである。後の歌は二段構成だが、前半の「人は
離ゆとも」は、あなたが離れようとも、の意。人心が離れようとも、と解する説もあるが、それは皇位争いと結び付けようとした無理な理解である。後半の「乱れば乱れ」が、離れ離れになってもよい、というのとともに、すでに離別への予感を含ませたものとみるべきである。そのなかで切迫したものを抱えていることを、「笹葉に 打つや霰の たしだしに」という表現はよくあらわしている。霰が笹葉にたてる音を「たしだし」といいながら、同音異義で、確かにの意の「たし」に転換させるのだが、音が切迫感をかもしつつ「人は離ゆとも」という昂揚と絶妙に照応する。
この二首をはじめとして、太子と大郎女が歌いかわす歌は、切実な思い合いを伝えるものとなっている。「共に自ら死にき」という帰結に至るまで語られる二人の恋は、許されない関係として断罪されておわるのではないことを、それらの歌は受け取らせる。むしろ、共感と同情をもって語るといってよいであろう。そして、それは、歌だからこそ可能だというべきではないか。
二人の関係は、地の文の表現の通り、事柄としていえばあくまで「姦」なのである。それは動かない。「訓」(意味)によるとすれば、そこに回収されてしまうところでしか語りえない。歌だから事柄とは別な磁場を作ることができる。あるいは、歌だから道理を超えた情愛として表現することが許容される。事柄は許容されようのないものであるが、道理とは別に見出してしまうものを歌があらわしえているといえばよい。
歌の問題は『古事記』の表現全体にかかわる大きな問題となるが、軽太子の物語をよみ直すことはその表現の問題をもあらわにする。