古典への招待
作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。
『古事記』をよむ軽太子・軽大郎女の物語
第1巻 古事記より
相姦露見というとらわれ
『古事記』をよむなかで、あまり疑いをはさまずによんできたところを、何かしらのきっかけで考え直してみることがある。そして、別なよみ方の可能性を考えはじめることが、新しい問題の広がりをもたらすことがある。そうした一つが、
物語は、相姦から人心離反・太子の逮捕へと展開する。それを、許されない二人の関係が露見し、ために人心離反して太子は伊予に流されることになったとよむのが普通である。
しかし、相姦が露見して人心離反した、ということは語られていないのではないだろうか。そう考え直してみたいと思ったのは、歌の問題からである。物語の叙述をたどれば、太子が大郎女に通じたことを語り、逢うことのかなった喜びの歌と、なお高まる思いの歌とを二首載せるのに続いて、
「人知りぬべし」――人が知るだろう――というのだから、歌は、二人の関係がいまだ人には知られていないものとして歌っているのだ(呼びかけ説をとるとしてもこの点はおなじだ)。露見説は、歌と話とが矛盾していておかしいとするが、おかしいのは、露見を前提とするよみ方ではないのか。
歌に従って、相姦露見ということから離れてよむべきなのである。そのとらわれから離れてみるとき、露見がどこにも語られていないということが素直に受け入れられよう。「是を以て」をはさんで、相姦のことと人々の背くこととが続くが、背くこととのかかわりで相姦の露見が述べられるのではない。ただ二つの事柄を並べてよむことがもとめられているというべきである。関係が露見していないから、大郎女は咎められておらず、伊予に行くことができるのだとも納得できる。
兄妹の恋とは別に太子の排除(つまり皇位争い)があった。太子が破れて伊予に流されるとともに、恋も悲劇的な結末を迎える。それが『古事記』の語るところなのである。
臣下の推戴においてある天皇
そのようにしてよむとき、人心の離反が何の根拠もなく述べられることになってしまうという批判を受けるかもしれない。しかし、露見→離反というわかりやすさに委ねてよむことから離れることによって、かえって、問題は明確になる。天皇の崩 りましし後 に、天 の下 を治 むべき王無 し。是 に、日継知 らさむ王 を問ひて、市辺忍歯別王 の妹 、忍海郎女 、亦 の名は飯豊王 を、葛城 の忍海 の高木角刺宮 に坐 せき。(本書三五五ページ)
といい、天皇の正統性の根源は、無論、血統にある。しかし、その継受を正しくあらしめてゆくものとして、臣下の関与がある。いま、「
そうしたよみ方を明確にしたとき、この話の書き出しの問題も明らかになることに気づかされる。書き出しの原文はこうある。
天皇崩之後、定木梨之軽太子所知日継、未即位之間、(本書三一八ページ)
下線部は「木梨の軽太子、日継知らしめすに定まれるを」のごとく、「定」を自動詞によむのがふつうだが、構文的には「定」は他動詞として用いられているとみるべきである。「そうしたことを、相姦が露見して人心離反し、太子は流されたというよみ方のなかで、見過してきてしまったのではないか。
歌の役割
あらためていえば、兄妹の恋と皇位争いとは、並行して二重に進行するものであり、一つの事柄として整合して組み立てるべきではないということである。太子と大郎女の相姦―太子の排除・配流―二人の自死、と一続きに述べられるのは、叙述としては線条にならざるをえないからであるが、事柄の構造としては並行的なのである。その点を明確にするとき、必ずしも正当にみられてきたとはいいがたい、ここでの歌の役割に目が向けられる。『古事記』は、序文で「訓」(漢字の意味)を中心に書くという。本文も実際そうなっているわけだが、「訓」によって述べられるのは、事柄であり、その結果としてあるのは、つぎつぎと起るできごとの連なりとしての物語である。一字一音で書かれる歌は、そうした叙述とは異なるものとして働く。意味の論理とは違うものをになうといってもよい。
兄妹の恋の側が、歌を中心とすることは一見して明らかだ。歌の数でいえば、ここに含まれる歌十二首中十首がこちらの側に属する。簡単な状況説明的な地の文以外はすべて二人の歌いかわしという体なのである。たとえば発端はこう語られる。
あしひきの 山田 を作り 山高 み 下樋 を走 せ 下訪 ひに 我 が訪 ふ妹 を 下泣 きに 我 が泣く妻 を 今夜 こそは 安く肌触 れ
又、歌ひて
此は、夷振 の上歌 ぞ。(本書三一九~二一ページ)
前の歌は、恋の成就の喜びを歌うもの、後のは、逢ってなおこの二首をはじめとして、太子と大郎女が歌いかわす歌は、切実な思い合いを伝えるものとなっている。「共に自ら死にき」という帰結に至るまで語られる二人の恋は、許されない関係として断罪されておわるのではないことを、それらの歌は受け取らせる。むしろ、共感と同情をもって語るといってよいであろう。そして、それは、歌だからこそ可能だというべきではないか。
二人の関係は、地の文の表現の通り、事柄としていえばあくまで「姦」なのである。それは動かない。「訓」(意味)によるとすれば、そこに回収されてしまうところでしか語りえない。歌だから事柄とは別な磁場を作ることができる。あるいは、歌だから道理を超えた情愛として表現することが許容される。事柄は許容されようのないものであるが、道理とは別に見出してしまうものを歌があらわしえているといえばよい。
歌の問題は『古事記』の表現全体にかかわる大きな問題となるが、軽太子の物語をよみ直すことはその表現の問題をもあらわにする。
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記を用いた箇所があります。ご了承ください。

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