古典への招待

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『日本書紀』を読む

第2巻 日本書紀(1)より
 八世紀の初頭に、『日本書紀』が撰進奏上された。それまでは舶載されていた漢籍の一部や漢訳仏典類の典籍はあったが、国書としては、わずかに「帝紀」「旧辞」などの未成書を参照した『古事記』『上宮記』、また『風土記』の一部などがあるに過ぎなかった。そこへ系図一巻を添えて、三十一巻もの『日本書紀』が加わったのである。内容は神代から第四十一代持統じとう天皇までの歴史である。初代神武じんむ天皇からは編年体をとっているが、神代は編年体ではない。しかし編年体ではなくても、天地開闢かいびやくから始って、神世七代を経て、主たる神、天照大神あまてらすおおみかみの直系が五代も続くという構造は、歴史的な思考に基づくものであり、また「巻第一」の下の「神代」という標示がすでに紀編者の歴史観を物語るものである。
 ところが、中国正史類では一般に、神話の時代は設けず、それはむしろ雑史類に記述されている。紀編者が範とした『漢書』や『後漢書』などにない「神代」を、『日本書紀』は巻第一・二の二巻を費やして冠している。これは、天皇の起源が神代にありとする大和やまと朝廷の考えがあって、紀編者にとって、事物の起源を語ることも歴史であったから、当然「神代」を設ける必要があったのである。この点は『古事記』も同じ思想であるが、『古事記』は文学的な内容の神話を「本文」一種にまとめているのに対し、『日本書紀』は本筋に直接関係がない神話は「一書」類に小字で割注として入れ、紀編者が「神代史」として構想した神話は大きな字で記している。それで、この部分は「正文」と評価してよいと考える。
 次に、『日本書紀』巻第三以下についてみると、編年体で述べてあるから、いわゆる歴史書であると言える。史実を記したか否かは一応いて、紀編者が歴代の天皇紀として述べたものとして読めばよい。ところが、たとえば巻第三の神武じんむ天皇紀にあっては、即位前紀から即位後まで、まさしく神武天皇を主人公にした事蹟について述べてあり、また巻第五の崇神すじん天皇紀にあっては、諸種の事件の当事者として崇神天皇が常にあるというわけではないが、それらの事件は天皇の王化の功績につながるということで、その巻がまとめられているといえる。しかし、巻第六の垂仁すいにん天皇紀のように、あちらこちらの事件が年代を追って記されて、要するにこの天皇の時代にはこんなことがあったということの羅列の体裁をとっている。また巻第十の応神おうじん天皇紀もそのような体裁である。いずれの体裁によっても、その天皇の一代記であることに変りはないが、紀編者が筆を振るうことができる場合といえば、やはり一巻を費やして神武天皇の事蹟や崇神天皇の功績を述べるような場合であったであろう。「一巻」という分量において、主人公の生涯の軌跡を、ある構想をもって述べることができるからである。このことはすでに文学的営みである。一般に、歴史書の内容が文学的表現をとるものが多いのはこのためである。
 さて、『日本書紀』についての読者の印象を尋ねると、『日本書紀』は何やらいかめしく取付きにくいという答えが返ってくることがある。そして、それに対して『古事記』は、やさしさとか親しみを感じるというのである。どうもその印象の原因は、『日本書紀』はむずかしい漢字や言葉を使っているからであり、『古事記』は一般に、「古事記の神話」などと言い習わされているように、たぶん口語訳などを通して馴れ親しんできたからかもしれない。たしかに、『日本書紀』は漢文的に書いてあるから、厳しく取付きにくいと思うのは当っている。しかし漢文なら訓読して、また現代語訳にでも頼って読んでもらえば、印象は変るであろう。次にこの問題について考えようと思う。
 上代の文献はすべて漢字で書いてある。この点は、『日本書紀』でも『古事記』でも変りはない。ただ言えることは、『日本書紀』の方が『古事記』よりむずかしい漢字や漢語が使ってあるということである。それは、『日本書紀』がいわゆる「漢文体」で書かれているからである。それにくらべて、『古事記』はやさしい漢字を使って書いている。これは太安万侶おおのやすまろが、日本の古代のことを記すには日本語でなくては表しきれないと考え(古事記・序)、漢字を単純な用字法に限定し、読んだ結果が日本語文になるように工夫したからである。そして文体は「和化漢文体」といって、もと「漢文体」を改変して、日本語文として読めるように工夫した文体を用いた。ただし、この文体は「音注」(音仮名であることの注)や「訓注」(文脈上、意味が紛らわしい場合に、訓みを指示する)のような注記がかなり必要であった。
 それに対して『日本書紀』は、「漢文体」を用いた。この文体は、元来中国語文であったが、日本上代では漢字の意味がわかり、「鬼と会えば返る」式の漢文訓読といわれる方法を知っていれば読める文体となった。したがって、固有名詞や翻訳不能な日本語また和歌の表記(これらは、仮名かなが用いられる。借音のみならず借訓もある)を除けば、訓字(意味を表す文字)を用いて「漢文体」で日本語文を書くことができた。このように、「漢文体」は日本語文が書ける文体であり、日本語として読める文体となったから、日本での公用文体として用いられたのである。しかし、ここで考えるべき大切なことがある。それは、「漢文体」を用いて作文するということにある。すなわち、その作文とは、漢籍の出典を用いて潤色をし、彫琢ちようたくされた珠玉の言語が用いられる必要があったのである。このことが、そもそも「むずかしい漢字漢語」の印象を与えることにつながっていると考えられるのである。今、一列を挙げる。
天皇斧鍼ふゑつりて、日本武尊やまとたけるのみことさづけてのたまはく、「けらく、其の東夷あづまのひなは、識性しきせい暴強こはく、凌犯りよらはんむねなとす。……ねがはくは、ふかはかとほおもひ、かだましきをさぐそむくをうかかひ、しめすにちてし、なつくるにとくを以ちてして、兵甲つはものわづらはさずして、おのづからに臣順まゐしたがはしめよ。すなはことたくみて暴神あらぶるかみ調ととのへ、たけきふるひて姦鬼かだましきものはらへ」とのたまふ。
 右は、巻第七、景行けいこう天皇四十年七月条(三七一~三七三ページ)にある。日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそを平定したその直後、父景行天皇が日本武尊に対し、東夷征討を命じた時の詔勅である。もとの原文の漢字の字数で二五九字(本書訓下よみくだし文で二十一行)の長文なので、「中略」したが、なぜこのように長文なのか。それは、東夷征討という国家的大事業の遂行を命ずるために、東夷の風俗気性を説明し、それに向う日本武尊の威と徳を讃え、天皇になり代って征討に赴くべきことを、委曲を尽して述べる必要があったからである。その上、『礼記』『史記』『漢書』『後漢書』などの漢籍によって潤色をしている。その結果、むずかしい漢字漢語の印象につながることになったわけである。しかし、それは「漢文体」で作文する者の文章道であったとするなら、読者はそれを追体験するのでなければ、『日本書紀』の文章のおもしろさはわからないことになる。本書はそういう橋渡しの用をも果す目的をもつ。
 また、たとえば右の詔勅一つを読んで、何やら中国の天子の言葉つきを感じ、そしてまたここには引用しなかったが、たとえばその詔勅に対し、出陣の決意を奏上する日本武尊の言葉がある(三七三ページ)。これも漢語を用いているので、中国の大将軍のような言葉つきを感じるであろう。それというのも「漢文体」で書かれているから当然のことなのである。その上、紀編者の頭には、天皇や官人に中国の天子像や官人を重ねることによって、ある典型を描こうとしているとさえみることができよう。『日本書紀』は『古事記』にはない「漢文体」型の人物造型をしているわけであるから、その文章は別の意味で魅力に富んだものとして読者を離さないであろう。
巻々の紹介
 本書所収の、『日本書紀』巻第一~巻第十は、『古事記』上・中二巻の範囲に相当する。神代上から第十五代応神おうじん天皇までである。
 巻第一(神代上)は、天地開闢時の三神出現(第一段)から、神世七代、伊奘諾尊いざなぎ伊奘冉尊いざなみ二神の国生み、天下の主者としての四神(天照大神あまてらすおおみかみ月夜見尊つくよみ蛭児ひるこ素箋嗚尊すさのお)生みがあり、素箋嗚尊は天照大神と誓約をして子を生むが、素箋嗚尊の乱暴が過ぎて天照大神を天石窟あまのいわやこもらせたので根国ねのくにへ追放され、途中出雲いずも八岐大蛇やまたのおろちを退治し、奇稲田姫くしいなだひめと結婚して、大己貴神おおあなむちのかみを生み、根国へ行く(第八段)。異伝の「一書」類を多くもち、歌一首がある。
 巻二(神代下)は、天照大神の孫瓊瓊杵ににぎ尊を葦原中国あしはらのなかつくにの主とするために、大己貴神と国譲りの交渉をし、天孫は日向ひむか高千穂峰たかちほのたけに降臨し、笠狭かささみさ鹿葦津姫きかしつひめと結婚し、彦火火出見ひこほほでみ尊ら三子を生む(第九段)。次は弟山幸やまさち(彦火火出見尊)が海神わたつみの助力を得て、兄海幸うみさち火闌降ほのすそり)を服従させる。豊玉姫とよたまひめ草葺不合うかやふきあえず尊を生む(第十段)。鸕草葺不合尊は、おば玉依姫たまよりひめを妃に迎えて、神日本磐余彦かむやまといわれびこ尊(神武じんむ天皇)ら四男子を生む(第十一段)。「一書」も多く、歌五首がある。
 巻第三は、神武天皇一代記。即位前紀が大部分である。日向を出て、瀬戸内海を経て、河内からの大和やまと入りができず紀伊半島を迂回うかいして、熊野から北上する。道中兄たちを失い、悪神の加害を脱し、大和入りをしてからは幾多の強敵と戦い、天佑神助により大和を平定、ついに橿原宮かしはらのみやで即位、媛蹟衛五十鈴媛ひめたたらいすずひめを皇后とし初代天皇となる。「来日歌くめうた」八首がある。
 巻第四は、綴靖すいぜい安寧あんねい鼓徳いとく孝昭こうしよう孝安こうあん孝霊こうれい孝元こうげん開化かいかの各天皇紀。皇統譜記事のみで説話がないので「欠史八代」と言われる。ただし、綏靖紀すいぜいきのみに説話、関連記事がある。
 巻第五は、崇神すじん天皇一代記。疫病流行を憂えて、敬神祭祀をし、四道将軍を派遣し、また箸中伝説はしなかで著名な倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそびめのみこと巫女ふじょ性により武埴安彦たけはにやすひこの謀反をあらわにしたので征し、一方課役を科するなど、王化の功績が大きく御肇国はつくにしらすすめらみこと天皇と称される。出雲いずも神宝献上・任那みまな朝貢記事も王化の一例。歌六首がある。
 巻第六は、垂仁すいにん天皇一代記。任那と新羅しらぎの抗争事件、新羅王子天日槍あめのひほこの渡来伝説、皇后(狭穂姫さほびめ)の同母兄狭穂彦王さほびこのみこの謀反と鎮圧、皇后が兄に殉じたこと、野見宿禰のみのすくね当麻蹶速たぎまのくえはやとの捔力ちからくらべのこと、誉津別王ほむつわけのみこくぐいの話、伊勢の祭祀の始り、各地の神宝の件、殉死の禁止と埴輪はにわの起源、田道間守たじまもり伝説などを記す。
 巻第七は、景行けいこう成務せいむの天皇紀。大半は景行紀で、それも景行天皇と日本武尊やまとたけるのみことが巻を分け合う。天皇は熊襲くまそ征討のため西征、平定後、九州巡幸。武内宿禰たけうちのすくねの北陸・東国視察。熊襲が再び背き、日本武尊に征討せしめ、次いで東夷が背き、また尊に東征させる。尊は任務遂行して帰還の途次病没。天皇は哀惜して尊の足跡を巡幸。歌七首がある。成務紀は造長みやつこおさ稲置いなき設置を記す。
 巻第八は、仲哀ちゆうあい天皇一代記。天皇は熊襲征討のため西征し、新羅を服従させよとの神託を受けるが、その神託を疑い、突然崩御。
 巻第九は、神功じんぐう皇后一代記。皇后紀を立てることは、中国史書『漢書』や『後漢書』に例がある。神託のままに新羅に遠征し、高麗こま百済くだらをも服従させる。また国内的には異母兄の忍熊王おしくまのみこの反逆を制圧する。『貌志』倭人伝の卑弥呼ひみこの記事や朝鮮関係の記事の引用が多い。歌六首がある。
 巻第十は、応神おうじん天皇一代記。朝鮮からの技術者の渡来、日向ひむか髪長媛かみながひめ大鷦鷯尊おおさざきの結婚、太子菟道稚郎子うじのわきいらつこ王仁わにに学ぶこと、また吉野の国樔人くにすひとの来朝、天皇が兄媛えひめの帰省を追い、吉備に行幸すること、枯野からのという船の余燼もえくいから琴を作ること、三皇子の分掌など。歌人首がある。(西宮一民)
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