歌人でもあり民俗学者でもあった
折口信夫は、昭和の初めに、『曾我物語』が、箱根権現・伊豆山権現を本拠として熊野信仰を広めた
瞽女や
巫女たちから語り広げられ、語りつがれたものであろうとの仮説を提示しているが、折口の師の柳田国男以来、この物語の成立と流布に、女性の宗教者・芸能者がかかわっているであろうことが、民俗学的方法を採る研究者の間で、指摘され続けている。
今残る『曾我物語』の、たとえば、伊豆の奥野の相撲の場面や、源頼朝の狩の場面、十番斬りと称される兄弟と武士たちの太刀打ち場面などを語ることが、特に女性にふさわしいとは思えない。どこに、「女語り」を思わせるところがあるのだろうか。
一読して気付くことは、この物語で流される大量の涙は、その多くが女のものだということである。工藤
祐経の父
祐継の死から曾我兄弟の死に至るまで、敵味方の隔てなく、繰り返される男たちの死のたびに、その母親や妻や
乳母が多くの涙を流す姿が、執拗といっていいほどに描かれる。もちろん、北条政子のように最後には喜びの涙を流す女もいるが、その彼女も、一旦は頼朝との別れに涙を流さざるをえなかった。男たちの争いに、あらがう
術もなく巻き込まれ、夫や恋人や子供を失った悲しみと苦痛に堪えることを強要される女たちの悲哀が、この物語には満ち満ちている。その涙を語るのは、やはり女がふさわしいだろう。
最も多くの涙を流すのは、兄弟の母である。そして、彼女は、武士の家の女性の典型としてある。夫の河津三郎
祐通を殺された彼女は、悲しみのあまり、幼い
一万と
箱王を膝の上に据えて、大人になったら必ず
敵の工藤祐経を討てとかき口説く。出家をしたいと願い、あるいは川に身を投げて死のうとも思うが、ちょうど
身籠っていてどちらもできない。後に
御房殿と呼ばれる男の子を出産後、出家しようとするが、舅の伊東
祐親に、いったいそれでは幼い子供を誰が養育するのかと留められ、その上、曾我太郎
祐信との再婚を強要される。彼女は、悲しみのあまり自害をしようとするが押し留められ、祐通の墓に取り付いて泣く泣く別れを告げ、兄弟を伴って曾我へ行く。
この当時、というよりは当時の物語の文法として、愛する夫を亡くした女性の身の処し方としては、二つの道が用意されている。出家して夫の供養をするか、悲しみのあまり自害するかのいずれかである。再婚という道があるが、物語においてそれは、貞節を重んじる女にとって避けるべき道としてある。
『平家物語』巻九「
小宰相身投」は、一ノ谷合戦で夫の平
通盛を亡くした小宰相が瀬戸内海に身を投げる話である。小宰相は通盛の子を宿していたが、生れた子を見たら夫を思い出すだけで悲しみには耐えられないし、再婚させられるのも嫌だから自害したいと言う。乳母は、子供を生んで育て上げ、その後出家して夫の供養に専念し、自身も往生して浄土での再会を期すべきだと説得する。形見の子供・出家・自害・再婚・制止する人、小宰相の物語は、曾我兄弟の母の物語とよく似ている。違うのは、小宰相は乳母の常識的な説得を拒絶して子を身籠ったままの自害を選択し、兄弟の母は祐親に抗し切れず、出家も自害もできないで、再婚という不本意な第三の道を選択せざるをえなかったことである。そして、それが彼女に更なる不幸をもたらすことになる。新しい曾我の家に入った彼女は、新しい夫曾我祐信とその家を守る主婦としての役割を演じなければならなくなる。兄弟を失いたくないとの思いがあったにせよ、掌を返すように兄弟の
敵討を止めざるをえなくなり、五郎を勘当せざるをえなくなる。そして、子供二人の命を代償として、ようやく出家を遂げ、往生することができる。
ここには、武士の家の女が遭遇するであろう不幸がすべてある。それが、〈夫を失った妻の物語〉の文法に則った、実はすでに誰でもが知っている凡庸な物語であり、男中心の社会から、こうあるべきだと女に押しつけられたものであることは間違いない。けれども、いつ我が身に降りかかってきてもおかしくないはずである兄弟の母親の不幸に接した多くの女性たちが、本当にそうに違いない、なんと悲しいことだろうと、母親と悲しみを共有し、涙を流すことによって、抑圧された日常生活で蓄積されたストレスを解消し、
疲弊した心が
癒されることも、また間違いない。
十郎の恋人であった大磯の遊女
虎も、多くの涙を流す。十郎の死後は、尼となり、兄弟の最期の地である富士野の井出の屋形跡を訪れ、西国の霊地をめぐる回国修行をし、信濃の善光寺へ詣でて兄弟の骨を納め、曾我の
大御堂で
念仏三昧の生活を送って、兄弟の鎮魂供養に専心し、さらには人々を仏道に導きつつ、自らも大往生を遂げる。
手越の遊女
千手前は、一ノ谷合戦で生け捕られ、伊豆に置かれた平
重衡の世話をするが、奈良で重衡が処刑された後、彼女も、尼となって善光寺で修行をし、重衡の供養をして往生を遂げている(『平家物語』巻十「千手前」)。
虎には、この物語を語り歩いた女性の語り手たちの姿が投影されているのだろうと言われるが、一人の男だけに愛情を注ぎ、その死後は尼となり、崇高な信仰生活を送って男の供養を果して往生を遂げるという生涯が、「家」から疎外された、遊女や女性芸能者たちの理想の姿として語られたのだろう。それは、「家」の「妻」の役割と同じである。真名本『曾我物語』では、尼となった虎は、一貫して自らを曾我十郎の「婦妻」であると名乗るが(本書では「妻」あるいは「妾」)、そこに、語り手の憧れを見ようとするのは、思い入れが強過ぎるだろうか。もちろん、遊女が一人の男だけを愛しその供養のために生涯を終えるというのも、男から与えられた役割に過ぎない。男の願望を自らの願望にしてしまうことの愚かさや悲しさを指摘することはたやすい。虎や兄弟の母の物語を男が作り出したということさえも十分に考えられる。物語の文法さえ知っていれば、誰でもが作れるのだ。けれども女たちは、癒されるためにこの物語を語り、そして聞いたのである。それを、愚かだというのは
傲慢に過ぎるだろう。
※
『
醍醐寺雑記』は、京都市伏見区の醍醐寺の記録で、その第四十三冊は貞和三年(一三四七)七月から翌年八月頃まで記されたものである。その中に、「一、蘇我十郎五郎事」と題するメモ書きがある。そこには、田舎から来た盲人の芸を聞いて記録するとして、『曾我物語』の巻一・二に出てくる人々が、兄弟の生れた伊東家を中心にして、系図風に記されている。これが、『曾我物語』が語られたことを伝える最も古い記録である。
一休宗純の『
自戒集』は、現存するものは寛正二年(一四六一)~応仁元年(一四六七)の成立とされるが、全編、相弟子の
養叟への悪口を並べ立てるという変った書である。その中で師の
華叟の
御影を見せて、
印可(師から法を授かり悟りを得たとの証明認可)を受けたことを吹聴する養叟を、「エトキガ琵琶ヲヒキサシテ、鳥帚ニテ、アレハ畠山ノ六郎コレハ曾我ノ十郎五郎ナンド云ニ似タリ」と罵っている。畠山六郎
重保が兄弟とともに出てくるところとすると富士野の
巻狩の場面であろうか、
絵解と呼ばれた芸能者が、絵を掛けて鳥の羽で作ったほうきで指し示しながら説き聞かせているようだというのである。絵解は、もちろん目の見える者であろう。盲人だけではなく、さまざまな語り部が、この物語を語っていたと思われる。
『醍醐寺雑記』は、その盲人が男であるのか女であるのかを明記していない。明記していないから男であると推測することもできるが、判然としない。『自戒集』の絵解は、養叟という禅僧をさげすむためのたとえであるから、男が想定されているのだろう。けれども、次の二例は、明らかに女性である。
応永年間(一三九四~一四二七)の末頃の成立とされる「
望月」という能がある。信濃国の武士、安田荘司
友春は、
従兄弟の望月
秋長と口論して討たれてしまう。その女房は、子供の
花若を連れて信濃をさ迷い出る。
近江の
守山に至って宿を借りると、宿の主はかつて友春に仕えていた小沢刑部
友房であった。一方、望月は友春を討ったことによって所領を召し上げられたが、都に上って弁明し、所領を
安堵されて信濃に帰る途中、やはりこの宿に泊った。小沢の策によって、女房は、その頃、宿場ではやっていた「めくら御前」のふりをして、花若に手を引かれて、望月の座敷に出る。望月に一曲所望されて、「一万・箱王が親の敵を討つたる所」を、花若とともに歌い、その後、花若は
八撥(
羯鼓)を打ち、小沢は獅子舞を舞う。最後に、酒に酔った望月を、花若と小沢が見事に討ち果す。
母子の敵討を曾我兄弟の敵討と重ねつつ語るという趣向であるが、興味深いのは、母親が、盲目の女性芸能者の真似をして、その芸として、曾我兄弟の物語を語るという設定である。
『
七十一番職人歌合』は、月・恋の歌題のもとに、一四二種の職人が左右に分れて七十一番の取組を作り、それぞれの歌を競い合うという趣向の絵巻物である。明応九年(一五〇〇)の制作とされる。その二十五番の右は「琵琶法師」、左は「女めくら」である。琵琶法師は、琵琶を抱いて、「あまのたくもの夕煙、をのへの鹿の暁のこゑ」と、『平家物語』巻七「
福原落」の一節を語っている。そして、盲目の女性は、
大鼓を打ちながら、「
宇多天皇に十一代の
後胤、伊東が嫡子に河津の三郎とて」と、曾我兄弟の
敵討の物語を語っているのである。
盲目の女性芸能者は、一般には瞽女と呼ばれる。鎌倉時代に描かれた『
西行物語絵巻』には、
市女笠をかぶり
足駄を履いて杖をつく二人連れの瞽女が描かれている。永正十二年(一五一五)成立の『
釈迦堂縁起絵巻』にも、清涼寺の拝殿で大鼓を膝に据えて物語る二人連れの瞽女が描かれている。『
看聞御記』応永二十五年(一四一八)八月十七日条には、愛寿とその弟子の珍寿という「盲女」が来て五、六句語ったことが記され、『
蔭涼軒日録』文明十九年(一四八七)五月二十六日条によって、当時、清水寺西門に「女瞽」がいたことがわかる。瞽女は二人連れで鼓を持ち、曾我兄弟の敵討の物語や寺社の縁起や霊験譚を語っていたと思われる。「望月」で、花若は八撥(羯鼓)を打つが、母親と花若には、二人連れの瞽女の姿が投影されているのであろう。
「望月」で語られるのは、幼い箱王が持仏堂の本尊の「不動」を
敵の「工藤」と同じ名だと勘違いして、その首を打ち落そうとするのを、兄の一万が
諭し、すると箱王が、それではこれは仏であるのだ、それなら敵を討たせてくれと祈るというエピソードである。しかし、これは現存の『曾我物語』諸本には存在しない。『七十一番職人歌合』で語られている一節も同様である。伊東を宇多天皇の子孫とするが、『曾我物語』はそのようなことを記していない。史実としても伊東氏は藤原南家の末流であって、宇多天皇とは無関係である。この時代、さまざまな曾我兄弟にまつわる伝承があったことを窺わせる。また、それを女だけではなく男も語ったであろうことも推測される。しかし、『七十一番職人歌合』は、当然その職人(芸人)の典型を描くのであるから、そこに『平家物語』を語る琵琶法師の
対として曾我兄弟の物語を語る盲目の女性が描かれていることは重視しなければならない。当時の人の「常識」では、曾我兄弟の物語は、瞽女の語るべきものであったということである。
※
年老いた虎は、往生の床につく。そのきっかけは、夕暮れの光の中、垂れ下がる桜の枝に若々しいままの十郎の幻影を見て、走り寄り取り付こうとして倒れたことであった。その走り寄る虎の姿は、美しい。そして、女たちは、そこにただよう幸福感を自らのものとして、癒されたのである。