無住の周囲には愚かな俗人も愚かな僧も、無数にいた。というよりも、周囲の人々の愚かさがことさら無住の目には映ったのかもしれない。しかし、その結果、仏教の道理を説く方便として無住が持ち出す例話は、愚かしい人間で溢れることになったとも言えるのである。
『沙石集』は硬質の仏教教学と滑稽な人間模様の不思議な交錯にいろどられた特異な仏教説話集の空間を作り出していると言うことが出来る。硬質の仏教教学とは言っても、それは非常に高度な論理を操作したり、難しい抽象的思考を重ねるという体のものではなく、厄介な仏教語を用いるという点を除けば、そこに展開される理くつは、比較的単純なものであり、慣れればそれほど難かしさに困惑するようなものではない。無住が本書を「愚かなる人」のために書いたと言っているとおりであろう。
他方、本書の中に繰り広げられる愚かな人々の滑稽な振舞い、言動は、生き生きとして目に見えるような鮮やかな語り口で記されている。無住という人が、聞き手の心を魅きつけてやまない語りの達人であることを十分にうかがわせるものである。仏教の理くつを開陳する箇所にはしばらく目をつぶり、話術の冴えにひたってみるのがよさそうである。
滑稽談
巻一開巻まもない第四話に、
恵心僧都源信が吉野に参詣した折りの話がある。僧都の参詣に際して神の
御託宣があったという。
巫に
吉野明神が
憑依したのであるが、その神が天台宗の法門を語るので、僧都は宗義の重要な点についての質問へと次第に立ち入って行くと、神の憑依した巫は、「柱に立ちそひて、
足をよりてほけほけと物思ふ
質にて、『あまりに
和光同塵が久しくなりて、忘れたるぞ』と仰せられ」たという。本地の仏が、神に身をやつして、あまりに長い時間が経過したので、仏教の教義を忘れてしまった、という言い分は、和光同塵の
本地垂迹の理くつを根底からぶち壊してしまいかねないものであるが、それ以上に、本話の語り口は、「柱に立ちそひて、足をよりてほけほけと物思ふ」様子の具体的な身体描写に圧倒的な存在感がある。この滑稽で、いかにもといった身振りのゆえに、彼(巫)の述べる怪しげな理くつの本質的な問題は棚上げされてしまうのである。
ただし無住は、これにもう一つの類話を付け加えることを忘れていない。東大寺の
石上人経住なる人物が、自分は観音の化身だと名乗ったけれども誰も信用しない。そこで
誓紙をたくさん書いたが、ある人に、そんなものより
神通力を見せなさい、と言われて、「あまりに久しく
現ぜで、
神通も忘れて
候ふ物を」と言ったという。無住は、「げには知り
難かるべし」と、本当のところはわからない、本当の化身だったのかも知れないと、感想を付け加えているが、もちろん、真底信じているという様子ではない。そらとぼけていると言ってよいだろう。こうした最後の最後で断定を避けて、そらとぼけるところに、無住の語り手としてのしたたかさがあるように思われる。
巻一の第十話にはこういう滑稽な話も出てくる。ある姫君を養育する乳母が、自分の姫君を
讃めて人に語ろうとして、私のお育てしている姫君は、目が細くて愛らしい、と言うと、他の人に、目が細いのはあまりよいことではないのにと言われて、あわてて、「いや、片一方の目は大きくていらっしゃるぞ」と、言ってしまう。仏教(ここでは浄土宗であるが)を信じる人たちが、自分の信じる宗派を讃めようとして、これと同じあやまちを犯しているということを言おうとするための例話である。まことにわかりやすい
喩え話である。こうした笑い話で教化をしようとした人は、無住以前にもいたのであろうが、それを大部な説話集にまとめあげたのは、無住が初めてであろう。『沙石集』の後を見ても、他にこうした滑稽による仏教説話集というものはほとんど見ることが出来ない。無住という人はおそらく前後に類のない書き手なのである。
同時代話
卑近な話、滑稽な話題が多いゆえに、無住は話の出所の確かさにこだわる。「かの
経基に親しき神官が語りしかば、
慥かの事にこそ」(巻一ノ二)、「この
法印の事は、
孫弟の
山僧の物語なり。慥かの事にこそ」(巻一ノ七)などと確かさへの言及は頻繁に繰り返される。しかし、よくよく注意して読めばすぐにわかることであるが、その確かさとは、無住が誰々から聞いたという伝聞なのであって、無住以前の段階の確かさを保証しうるようなものではない場合が大部分である。結局、無住は自分の語る例話の事実性を主張したかったのだということだけが明らかなのである。
しかしながら、そのような無住の執筆意識のおかげで、他方で、同時代の証言としての真実性を担保しうる話も間違いなく存在し、貴重な時代の証言になっている点も見逃せない。たとえば鎌倉時代中期の
御家人、
地頭たちの一面を語る説話などがそれに当るであろう。
武士社会
暮し向きが悪く、所領を次第に売り払って、息子は何の財産もなくさまよわなくてはならなくなった地頭の家、その売り出された土地を次々に購入して大土地所有者へと飛躍していく地頭と、対照的な地頭の家が登場する巻七の第四話は、鎌倉中期に、貧富に二極分化しつつあった御家人たちの動向がかいま見える。
さらにこの話では、貧しい地頭の一族が、迷い者の息子に屋敷だけでも譲ってやってくれと列参して申し入れる。これは借金を帳消しにして元の所有者に所領を返すという無茶苦茶な理くつとも見える、いわゆる徳政というものの背景をよく示していよう。一方でまた、無償で屋敷を返すことと引換えに、一族の者がこぞって「御恩」を受けたと考えよう、という申し出は、「御恩」と「奉公」という御家人社会のルールの上に、領主と従者の組織化が進み、武士の内部に新たな階層化が起こっていることを示唆していると見ることができるであろう。こうした御家人社会の実情は、北条
泰時による名裁判として語られる幾つかの問注説話でも見ることができる。巻三の第三話では、父が貧しさゆえに売却した所領を嫡男が買い戻して父に与えたが、父は遺産をすべて次男に相続させてしまう。嫡男は貧窮に苦しむが、泰時はこの嫡男を哀れに思い、機会を見て本国に父の所領より大きな所領を与えたというのである。
また、巻十本の第四話の五郎殿の話も、兄弟が分割相続すると、所領が小さくなり、十分な奉公が出来なくなることを心配して、一人にすべてを相続させるという話である。無住はこれを、俗事を捨てて仏門に入った賢明な処世の話として取り挙げているのであるが、御家人の相続の問題として眺めると、先の話と同じ構造的な問題があることが浮かんでくるのである。こうした同時代的な問題は、書き記している無住の意図とは全く関わらないところで、彼の執筆態度がおのずから生み出した事柄だと言えよう。
類例として、幼な児の兄弟が、実父を暗殺しようとしている継父(正しくは母の浮気相手)を先手を打って殺害してしまう話がある(巻七ノ六)。武士の子供はかくあるべし、といった武士の倫理感がくっきりと映し出された話で、のちの武士道に結びついてゆくようなところがある。たとえば前代の武士を多く描き出している『今昔物語集』を見ても、このような親の仇を討つ子供というテーマは見出すことができない。所領の相続と表裏の関係にあるであろう武士のモラルがどのように形成されつつあったのかということがうかがわれるのである。
説経師
『沙石集』の中で頻繁に取り挙げられているテーマの一つに
信施の問題がある。即ち、ろくに信仰心もない僧が、いい加減な説経をして信者の
布施を得るのは、
有所得の説法であって
堕地獄の罪に当るという発言がしばしば見られるのである。
たとえば、北国の漁師たちの法会で、漁夫である
檀那におもねり、皆さんはいつも「網々(アミ、アミ)」と言うと、波が「たぶ、たぶ」と応え、自然に「アミタブ(阿弥陀仏)、アミタブ」と念仏を唱えているから、極楽往生は間違いないと、駄洒落の説経をして、しこたま布施をせしめた説経師などという者がさまざまに登場している。このような民間布教者がどの程度の割合で存在したのかは知るよしもないが、決して少なくはなかったのであろう。巻六はことにこうした説経師たちの説話を多数収めている。
巻六は『沙石集』の諸本の中でも、ことに
梵舜本が際立った相違を見せている。他の諸本に見られない独自説話が多く、しかもその大部分が右に見たようなインチキくさい説経師たちの失敗談なのである。もともと『沙石集』に収録するつもりだった話であるが、あまりにも僧の愚かさを曝露する話なので削除したと考えるのも一案であるが、梵舜本が本文的には古本系統の諸本よりも流布本系統に近い本文を持っている点から考えると、古本から流布本が成立してくる途中のある段階で、こうした説経説話が多量に増補されたテクストだったと考えることも可能である。筆者としては後者の立場をとりたいと思うのであるが、もしそうだとすれば、無住の説話収集の網に、こうした説経の話はひっかかって来ることが多かったと考えられるのではないかと思う。
無知な僧
愚かな説経師が生み出される背景には、もちろん多量の無知で愚かな僧たちの存在がある。『沙石集』はそのような無知な僧の説話にも事欠かない。字も読めない僧が経を読むことによって引き起こされる滑稽談も、いくつも収録されている。たとえば、師匠から『
大般若経』を譲られた(多分、遺産として相続したのであろう)僧は、『大般若経』が何たるかも知らない。そこへ隣房の僧が来て、自分は『法華経』を持っていないので十巻を分けてくれと言う。自分の『法華経』にするのだと言うのであるが、彼らは経典に何が書かれているかなどということは関知しないわけである。『大般若経』の一部を『法華経』と称して怪しまない、何ともお粗末な連中であるが、そこへまた別の一人が登場する。彼は、他の連中よりは少々ましな知識を持っているらしく、『法華経』は八巻だから、十巻では多過ぎる。余る二巻を自分にくれと言う。『仁王経』は二巻の経典だから、その二巻をもらって自分の『仁王経』にしようと言うのである。彼の知識も、『法華経』は八巻、『仁王経』は二巻というところまでで、文字が読めず、『大般若経』だろうと、『法華経』だろうと内容なんぞに頓着しない、という無知では同じことなのであった。
このような無知
蒙昧な僧たちが俗人を教化するという奇妙な構図は、庶民の中の仏教のある一面の実態を映し出していると言ってよいと思われる。そのような
愚昧な僧たちと比較すると、無住の教養、知識が際立って素晴しいものに見えてくるのであるが、このような愚昧な人々を教化するのには、結局、現世のことは何事も無常なのだから、欲を持つな、どの宗派がすぐれているかなどと争うのでなく、どれでもよいから有縁の宗を信じて他宗を非難するな、というようなことに尽きるのである。単純な理くつが展開されていると初めに述べたのはそういうことである。
難しそうな仏教用語に恐れを抱く必要はないのである。無住が生き生きとした筆致で描き出した愚かな人間模様を笑って楽しめばよいと割り切っても構わないと思う。興味を感じたら、そこから、中世の思想なり、仏教なりへ歩みを進めればよい。近世に『沙石集』が多く流布し、類似の説教書が作り出されたりしたのも、そういう筋道を通ってのことだったように思われるのである。