『古今和歌集』を読む人のために
第11巻 古今和歌集より
『古今集』は醍醐天皇の命令により、紀貫之以下四人の撰者たちが、約一千首の和歌を二十巻にまとめて奏覧に供したものである。それが歌の内容で、さまざまに分類し配列されているが、一番多いのが巻第一から巻第六までの四季の歌と、巻第十一から巻第十五までの恋の歌とである。さらに、四季の歌では、春の初めから冬の終りまでの季節の推移を追って細かに観察され、恋歌では初めて恋心をいだいたころに始り、最後は、何かの理由で別れてしまった昔を懐かしむ心境に到達する歌で巻を閉じるのである。四季・恋以外についてはここでは省略し、巻末の解説で説くことにする。
この二大歌群は、『古今集』によって初めて完成した日本独自の配列法に相違ないが、私たち(小沢と松田)が子細に見ていくと、一首一首が必ずしも適当な位置に置かれていることもなく、全体の構造が粗雑で便宜主義的だと思われる点もある。とはいえ、このために勅撰和歌集としての『古今集』への評価が変るようなこともないだろう。最近の精密な研究により、本集以後の勅撰集の構造にそれぞれ独自の特色のあることが明らかになってきたが、大局から見れば、『古今集』によって創始された和歌の配列法は、『新古今和歌集』によって完成の域に達したと言っていいだろう。『新古今集』では、撰者の眼が細部まで浸透して、歌集として見事な出来栄えを示しているが、『古今集』では和歌配列の方針(部立)に対する撰者たちの意識は、新古今時代の人々にはるかに及ばなかったというべきだろう。従って、歌集としての本集の構造を、『新古今集』と同様に高度に洗練されたものだと、無意識のうちでも考えていると、一首ごとの歌の解釈に思わぬ誤ちを犯すことにもなるのである。
和歌の世界における四季と恋とは、一方が自然を客観的に眺め、他方が人の心の喜びや悲しみをじっと見つめるところから生れたとすれば、それは対立する二つの主題だともいえるだろう。また作者の心についていえば、「あはれ」「をかし」の精神、すなわち風雅の心が和歌によって表現されたのである。このような文学精神は早くも『万葉集』に芽生えていたかもしれないが、国文学史で「国風暗黒時代」(和歌の衰微時代)と呼ばれる平安初期を過ぎた『古今集』時代から表面化したと考えられる。そして、勅撰集の部立にあって、四季と恋に大きく分けられているが、それは和歌という短詩型叙情詩のアンソロジー編集上の技術にすぎなかっとも評せるだろう。
その後、一世紀の間、平安貴族たちによる物語文学が創られ始めるが、その最頂点に立つのがいうまでもなく『源氏物語』である。当時の物語はテーマからいえば「恋の物語」であるが、主要な登場人物は、いずれも「みやび」の精神の持主である。そして特に『源氏物語』の作者は、人々の心を物語るとともに、その背後にある自然の有様を描くことも忘れていない。これは「景情融合」ということになるだろうが、和歌のような短詩型文学では、一首の中に期待するのは、作者にも読者にも無理だろう。けれども『古今集』所収歌の中にも、自然と心との双方にかかわるものも少なくないが、撰者とすればどちらか一方のテーマを詠んだとして、アンソロジーを構成するほかなかった。ところで、『源氏物語』について私たちが「景情融合」といったのは、和歌の世界での四季・恋の二大テーマが一つに合流したともいえるからである。物語の起源は遠く万葉時代まで遡るが、時とともに種々の要素を取り入れて流れを大きくしたが、『源氏物語』になると古代叙情詩で一体化できなかった二つのテーマを完全に融合し、物語の流れをますます雄大にしたのである。
次に、『古今集』以後に『源氏物語』が出現するまでのおよそ一世紀間に、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』という二つの勅撰和歌集が編まれた。この三歌集を「三代集」と呼び、現代では『古今集』から『新古今集』までを「八代集」、『古今集』から最後の勅撰集である『新続古今和歌集』までを「二十一代集」と呼んでいる。けれども、『拾遺集』が作られる以前に、『万葉集』『古今集』『後撰集』を三代集として取り扱うこともあったのは、その当時、『万葉集』が平安初期――恐らくは平城天皇のころに勅撰せられたという説が信じられていたからだろう。しかし、たとえ現在の『万葉集』に平安初期の人の手が加えられ、また『古今集』の撰者たちの心中に『万葉集』を規範とする気持があったとしても、この二つの歌集が成立した時代の中間には、前述の「国風暗黒時代」という漢文学隆盛の時期があり、和歌の歴史には一つの断絶があった。
国風、すなわち和歌が断絶したといっても、すべての歌がこの世から消えてしまったのではなく、『古今集』の「仮名序」では「当世は人心が華美に流れ、内容空疎でその場限りの歌ばかりが作られるので、公式の場には出せなくなった」(→二二ページ)と書いていて、実はそれらの歌が「万葉に入らぬ古き歌」(→二九ページ)として、『古今集』編集の材料になったのである。それをさらに万葉末期まで遡ると、大伴家持は妻の坂上大嬢その他の女性たちと交換した贈答歌、いわゆる「女の歌」も相当多く残しているが、それらは男性本位の宴会その他の公的生活から生れる歌とは作歌環境がまったく別である。この種の歌は、その時代の政治的変動とは無関係に詠まれ続けられたものであり、『万葉集』の巻第十一・十二に多量に収められている。男性中心の歌は、その背後にある政治情勢の影響を受けることが大きくて、作歌環境が消滅すれば歌壇も衰微し、歌は忘れられてしまう。それと比べて、「女の歌」は生命力が強く、その作者名が忘れられ、歌詞の一部が変更されることはあっても、社会の一隅で雑草のように生き残っていて、『万葉集』から『古今集』の読人知らず歌に連なっていくのである。そして和歌史上にいう、『古今集』第一期の歌の大部分がこれらの読人知らず歌に占められ、同じころから男性中心の社会でも、和歌が少しずつ詠まれ始めるが(作者には男も女もある)、それらを生んだ平安の貴族社会と、万葉歌の背後にあった奈良朝末期の貴族社会とは直接に連続しないのである。
『古今集』から最後の勅撰集である『新続古今集』が作られた室町時代中期までの間には、社会的激動も何回かあり、大きくみて政治の実権は貴族から武家の手に移っていった。しかし、およそ五百年間に勅命によって撰進された詞華集は、すべて最初の勅撰集である『古今集』を模範に仰ぎ、伝統を継承したものであり、それらの間に「国風暗黒」に相当するような断絶はなかったといってもいいと思うのだ。また、『源氏物語』の底流でもある「風雅」の精神も、『古今集』時代に初めて意識的となり、江戸時代の俳諧にまで続いて、日本的な美の伝統として、われわれの精神生活の中に生き続けているものである。
今は「美」とか「精神」とかいわないで、形の上に明らかに現れる歌体の問題を取り上げてみよう。『万葉集』以来、日本の詩歌の根本形式は五音と七音との連続で、最後に七音をもう一つ加えて結びとするのである。この五七音を三回以上繰り返し、後ろに七音をつけて結ぶのが長歌であるが、『古今集』ではわずかに五首を収めるにすぎず、しかも「雑躰」という名前をつけられている。そして、この五首とも最初の五・七・五の三句で意味が切れ、その後は七・五・七・五……で続いていくのだから、『万葉集』のは五七調、『古今集』のは七五調だということになる。五・七(二回)プラス七音の短歌は全体の数が多いから簡単には言えないが、『古今集』の新らしい歌ほど七五調が多いことはいうまでもない。ただし、双方の句切れをみると、五七調では五・七」五・七」七(または五・七」五・七・七)となり、七五調では五・七・五」七・七となり、後者の切り方によって、短歌が上の句と下の句とで成り立つと初めて考えられるのである。
さらに、一首の短歌に詠まれる主たる題材、または題材を表す名詞が歌の初めにあれば上実(の歌)、中ほどにあれば中実、終りにあれば下実という。そして大体の傾向からいえば、『万葉集』には上実の歌が多く、『古今集』には中実、『新古今集』には下実の歌が多い。その理由は、時代が進むと次第に技巧的な歌が多くなったためかもしれないが、この問題に関しては、『万葉集』と『古今集』の間にだけ特別の断絶があるとはいえないだろう。
以上をまとめると、和歌の世界では『古今集』で確立した短歌形式が長い間(およそ八世紀間)独占状態だったといっても、それほどの言いすぎではあるまい。そして江戸時代の町人階級の勃興とともに五・七・五音の俳句が生れたのも、短歌における上の句・下の句の句切れ意識があったからなのである。
このような『古今集』以来の伝統的表現に閉じこもっていた日本人は、明治になって西洋の詩にならい、「新体詩」という名によって新しい表現形式を試み始めた。そして、最初の新体詩として有名な外山正一・矢田部良吉らの『新体詩抄』(明治十五年〈一八八二〉)を見ると、詩の長さに制限はないが、詩型の基本となるのは、五音の句と七言の句とを合わせた「聯」を何回でも連続して一編を構成することであった。聯の構造により、五七調、七五調、さらに五五調、七七調などの詩も作られるわけだが、『新体詩抄』の詩はほとんど例外なく七五調である。やがて、『新体詩抄』から数年後に落合直文の五百行を超える力作の譚詩(バラード)『孝女白菊の歌』が、明治末には尾上柴舟の五十編に及ぶハイネの訳詩などが現れるが、これらもすべて七五調である。『新体詩抄』の人々はいうまでもなく、落合も尾上も近世の国学者・歌人のような復古思想の持主ではないが、『古今集』以来の七五調は、明治の知識人に無意識の伝統的表現として大きな影響を与えたことになるだろう。
けれども、島崎藤村が早くも詩の内容によって七五調と五七調とを使い分け、歌人たちが三行書き短歌を試みたのも明治三十年前後に遡るから、『古今集』以来の伝統表現はそのころから忘れられ始めたとみるべきだろう。
『古今集』をはじめとする三代集と『源氏物語』など物語文学とのかかわりについては先に触れたが、いま改めて『古今集』恋三の六四五番の読人知らず、六四六番の業平との一対の贈答歌を見ていただきたい。
この贈答は『伊勢物語』六十九段にもあって有名だが、『古今集』の詞書によれば、業平が伊勢国に下った時に「斎宮なりける人」に「いとみそか(密カ)に」逢った翌朝に取り交わした歌とある。『伊勢物語』の詞書はいますこし詳しいが、ここで強調したいのは、ここで文学的感動を発信しているのはほかならぬ二首の和歌であるということである。その和歌とは、業平なる男と古代の神に仕えて清浄なるべき高貴な処女との、逢ってはならない男女が、一夜、禁忌を越えて、身も心も燃やして思いを交わした恋が言葉で形づくられている。その日常性を破る昂った青春の思いが歌から伝わってくる。「斎宮なりける人」が誰であったか、そして彼らはどうなったか、というような十世紀後半から始る知識人たちの常識的な詮索、散文的な説明や分析はこの場合不要であろう。
一世紀後の『源氏物語』において、光源氏と藤壺の禁忌を犯した恋はいかに描かれているか。和歌的表現から離れられない形で、和歌とは異なるスタイルで新しい文学の形が創られていくことになるが、その重層的な世界は豊饒である。思うに、和歌ありしゆえに。
最後にこのたび本書の「新編」を執筆するにあたり、歌に用いられる助詞・助動詞、作歌技巧などの説明に特に留意したことに一言したい。それは歌集や句集に対しては当然のことかもしれないが、時によると同じことを何度も繰り返したり、類句・類例などをくどいほど示したかもしれない。けれども、読者がそれらを参考にせられれば、たとえば、『源氏物語』のような長編の物語文学を一読される時にも役立つだろうと、私たちは信じている。 (小沢正夫・松田成穂)