古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

広瀬本万葉集の出現

第7巻 萬葉集(2)より
冷泉本系の全本
最近発見された広瀬本万葉集は、今から二百十余年前の天明元年(一七八一)に写されたもので、近世初期に寛永版本が刊行されてから百四十年近くも経っている。こんなに時代の下った写本にはたして資料価値があるのだろうか、と疑われても仕方がないとも言える。
 しかし、短歌について見るに、大半が、
石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨
タルミノウヘイハソヽクタルミノウヘノサワラヒノモエイツルハルニナリニケルカモ (巻第八・一四一八)
のように、その訓が西本願寺本など多くの本に見られる傍訓(振り仮名)形式でなく、別提でしかも片仮名で書かれている。この事実からまず、非仙覚せんがく本でもいろいろの種類があるが、校本万葉集・首巻の分類に従えば、その中でも第七類に当る冷泉れいぜい本系にこの本が属すると判断され、また、右の歌で言えば、行間上方に「タルミノウヘ」とあるのが、藤原定家ていかが歌作の参考にするために万葉歌で重要な語句を書き抜き集めた本『万葉集佳詞かし』の内容とほとんど一致するいわゆる摘出語の一つであるのも冷泉本系の特色である。
 冷泉本というのは正しくは伝冷泉為頼ためより筆本と呼ばれるもので、その巻第一だけがお茶の水図書館に現蔵されている。その書風が近世初期の冷泉家の当主為頼の筆跡に似ているというのでその名があり、冷泉本系という分類名はそれをもって代表とする古写本群をさす。
 ところが、広瀬本万葉集は巻第一だけでなく、二十巻完備の全本である。前回の第一冊でも述べたが、非仙覚せんがく本は、西本願寺本で代表される仙覚本に比べて校勘資料としての価値が高いが、残念なことに、これまで全本がなかった。それに対して仙覚本は七、八種類も現存し、その大部分が全本であるが、多少の語弊を恐れずに言えば、鎌倉中期の学者仙覚その人の校定した一元に出たものであるため、近くて兄弟関係、遠くてもいとこ同士、と言ってもよい近縁関係にあり、本文・訓共に相互に似た所が多く、特筆するに足る面が少ない。それ故に、ある歌または題詞・左注などの漢文表記で写本間に異同がある場合、支持する本の数の多寡だけで決定できないことが多い。
 その点、現存量の少ない非仙覚本は総じてそれぞれ個性的で、注目すべき内容が相対的に多く見られ、断簡零墨でも発見されると珍重され、異同に関心が寄せられる。そのことからしても、今回、全巻揃った広瀬本の出現の意義の大きさが予測されるであろう。
広瀬本の卓越性
その端的な例を示そう。筑紫つくし大宰府だざいふ、その長官の大宰帥だざいのそちなどの「大宰」が「太宰」と書かれるようになったのはいつ頃からであろうか。万葉集では目録を合わせて六十四回を算するが、第一次仙覚本である寛元本の姿を伝える神宮文庫本で「太宰」が五十二、「大宰」は十二、という実情である。第二次の文永本を代表する西本願寺本では「太宰」五十四と微増する。これらは書写された鎌倉期の習慣が混入・反映したのである。それらに比して広瀬本は、目録のない巻があるため総数六十となるが、そのうち五十九まで「大宰」と書かれ、唯一の例外は巻第八・一六一〇題詞の「丹生女王贈太宰ママ大伴卿歌一首」だけである。
 また、非仙覚本と仙覚本とで本文が異なり、非仙覚本の字面が少数勢力であるために、仙覚本のそれに比べて支持されなかったものが、広瀬本の援護を得て発言力を増す、という例が多い。今回の第二冊に収めた巻第五~第九の範囲を主にして示せば、巻第八の七夕たなばた歌一五二八が、西本願寺本や神宮文庫本などに、
霞立天カスミタツアマノ河原カハラ尓待君登伊ニキミマツトイ往還カヨフ程尓裳襴ホトニモノスソ所沾ヌレヌ
とあり、今日もこの本文・訓に従っている注釈書があるが、「程」の字は類聚るいじゆ古集こしゆう・紀州本になく、ただそれらも、訓は中古に行われていた「ユキカフホトニ」を採っている。「程」の字があるのは仙覚がその訓に合わせて加えたものと想像される。私意で本文を改めたいわゆる意改である。ところが、広瀬本には「程」の字がない。仙覚本の影響を受けていない証拠である。「此徑尓弖師このみちにてし」(九七七)、「誰尓絶多倍たれにたゆたへ」(一三八九)、「布麻越者ぬさおかば」(一七三一)などそれと軌を一にし、いずれも広瀬本にるべき本文である。
 しかし、時には仙覚本が逆に原形をとどめていると考えられることもある。巻第七・一一四八は西本願寺本などの仙覚本に、
馬双而今日吾見鶴ウマナメテケフワカミツルスミノ岸之キシノ黄土ハニフヲ於万世ヨロツヨニミム
とあるが、元暦校本や類聚古集などの非仙覚本には「駒双而……」とあり、訓も「こまなめて」となっている。このような場合、一般に非仙覚本の本文が重視され、「馬双而……」は仙覚の意改と見なされる傾向にあり、私たちの旧全集(日本古典文学全集)本もそれを採った。これは誤りであろう。中古に至って「コマ」の語が「ウマ」に対する雅語と考えられ歌にまれることが多くなり、万葉集でも「内乃大野尓馬数而」(四)、「馬之歩」(一〇〇二)など、本文に「馬」とあっても「こま」と読む非仙覚本が大半を占める。上記の一一四八で元暦校本などが「駒双而……」としたのは訓に合わせた意改と解すべきであろう。現に万葉集に関する限り、「馬並めて」は十二例があるが、「駒並めて」の確例はない。非仙覚本もまた意改することがあるあかしと言えよう。実は広瀬本は「馬 而」とあって、「双」に当る字が空白になっている。広瀬本にも欠陥は少なからずあり、殊に巻第七には誤字・誤脱の類が多い。
 広瀬本だけが正しいという貴重な例に次のようなものがある。西本願寺本で示せば、
春山之開乃乎為黒尓春菜採妹之白紐見九四与四門ハルヤマノサクノヲスクルニワカナツムイモカシラヒモミラクシヨシモ (巻第八・一四二一)
 この「乎為黒」から「すぐろのすすき」という歌語が生れ、春の焼野の焦げて黒い小すすき、などと解されていたが、賀茂真淵まぶちは「乎烏里ヲヲリ」の誤写と見た。ヲヲリは「開乎為流さきををる」(一七四七)などとして見え、草木の花や枝などが茂り咲く意のヲヲルという動詞の連用形で、万葉集に九例見える。広瀬本に「乎為里」とあるのは真淵の推定が正しかったことを証明する。
 同じく巻第八の、例のごとく西本願寺本で示せば、
目頬布君之メツラシキキミカ家有波奈イヘナルハナ須為寸穂スヽキホニイツル秋乃過良久惜母アキノスクラクオシモ (一六〇一)
の第三句も、広瀬本に「皮須為寸」とありハタスヽキと読まれているのが正しい。ハダススキの語義はいまひとつ明らかでないが、万葉集に他に八例ある。類聚古集るいじゆこしゆうを含む他の全写本に「波奈」とするのは、中古の『新撰万葉集』や『古今和歌集』などに多い「花すすき」の語に結び付けた捏造ねつぞう本文だったのである。
消えた古字の生き残り
広瀬本の他の巻々にもこの種の注目すべくるべき本文や訓は多く、紙幅の許す限り今後、該当箇所の頭注で指摘する予定であるが、一つだけ特記すべき本文として挙げたいのは、巻第十八・四一二二の歌の題詞の中の「今」の字の存在である。
 それは大伴家持おおとものやかもちが越中国守となって四年目の夏、約一か月も雨が降らず田畑の作柄が心配されていた時、雨雲の兆しを見て喜び作った長歌(略)の題詞で、西本願寺本などでは、
天平感宝元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有メル色至于六月朔日忽見雨雲之気仍作雲歌一首
とあって、大部分の古写本に異同がない。ただ一つ無視できない校異として京都大学本のしやの書き入れ、いわゆる京赭には、右の中程「六月」の上に「今」の字があった本の存在を示す記事がある。しかるに、広瀬本には正式に、「……至于六月朔日……」と書かれている。巻第十七以下の四巻は家持の歌にまつわる日録と見なされているが、ここに「今六月朔日」とあることは、万葉集の幾つかあったと想像される複数の原本のうち最も古い形を示すものである。この前後には元暦校本も残っているが、それにはもう「今」がない。これは後年、家持が万葉集を編纂へんさんする際に全体的な観点から削除した二次的原本の姿を示すのでなかろうか。
 このように広瀬本は信頼すべき本文や形式を伝える本であるが、いかなる写本もどこかに他本にない利点を持つと同時に、誤写・誤脱などの欠陥も多少指摘されることは避け難い。まして書写年代が下り、転写に転写を重ねていれば新たな誤りが生じる。広瀬本も長所だけを丹念に拾い集めれば、校勘価値は量り知れないばかりである。
定家卿本の伝本
広瀬本・巻第二十の最後に、これの祖本に発すると見るべき識語がある。それは、書本かきほん(書写に用いた原本)と重ねて照合すべきだが、老眼の疲労でこれが限界だ、と訴えたあとに、
参議侍従兼伊豫権守藤 [花押]
と自署している。この「藤某」こそ藤原定家ていかで、参議・侍従・伊予権守の三職を同時に兼任したのは建保三年(一二一五)正月十三日から丸一年のうちに限られ、その時、定家は五十四歳であった。花押も自筆本『拾遺愚草しゆういぐそう』や嘉禄かろく本『古今和歌集』などに残る彼のそれに酷似する。
『明月記』および『吾妻鏡』によれば、建保元年十一月、定家は源実朝さねともに父祖相伝の万葉集の写しを贈っている。後年、仙覚せんがくが校定本を作るのに参考・吸収した三箇の証本の一つに鎌倉右大臣家本の名が見える。それと広瀬本の祖で定家卿ていかきよう本と目されるものと姉妹関係をなすであろうと推定するのが妥当だと判断される。先に挙げた「馬双而」が非仙覚せんがく本の本文と合わず、むしろ仙覚本と一致するのは、右の事情を考えれば氷解する。広瀬本の祖本は、定家が実朝さねともに贈ったその補いとして作った父俊成しゆんぜい秘蔵の本の写しだったのであろう。今にして思えば、これが「冷泉れいぜい本」系と呼ばれる一つであることは偶合だが、この中の摘出語が定家せんの『万葉集佳詞かし』と合うのは当然過ぎることであった。
甲斐の国学との関係
この本は巻第一と第二というふうに二巻ずつ合冊された十冊本であるが、巻第十九と第二十とは前後逆に綴じられている。その巻第十九の尾題のあとに、
天明元年十二月廿四日 調 梨園 春日昌預
と書かれている。この春日昌預かすがしようよがいかなる人かについて調査し教示してくださったのは山梨郷土研究会の吉田英也よしだひでや飯田文彌いいだふみやの両氏である。それによれば、昌預は寛延四年(一七五一)に生れ、長年、甲府町年寄を勤め、八十六歳で没した本姓山本金左衛門という人で、春日はその遠祖高坂弾正こうさかだんじようの別姓を称したものである。昌預は多忙な公務に携るかたわら各種古典の筆写に努め、また数多くの詠草を残した。
 広瀬本にはその周辺の甲斐の国学者たちの書き入れが多いが、その代表格で署名もある人は萩原元克はぎわらもとえである。元克は昌預より二歳年長で、昌預の実父加藤竹亭ちくてい(春日たすく)らと共に郷土の学者加賀美光章かがみこうしように学び、後年本居宣長もとおりのりながに入門し、『道のしをり』『甲斐国名勝志』などを著す。広瀬本はこの萩原元克を主軸に、そして春日昌預は全体を統括する立場で、両人に親しい人々の協力を得て筆写されたものではなかろうか。
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記(白傍点を斜体字に変更)を用いた箇所があります。ご了承ください。
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