『源氏』以後の物語愛好熱
『源氏物語』が世に出て半世紀、貴族社会の少女たちに及ぼしたその影響力の大きさは、『更級日記』の一節からありありと
窺うことができる。その『源氏物語』誕生のパトロンというべき道長の安定政権を、長子
頼通が継ぎ、一世代前の兄弟争いが
嘘のように、一族が輩出した天皇たちの代替りを平穏に見守っている、一見まことに穏やかな時代が、この物語成立の背景になる。頼通自らは子に恵まれなかったが、養女の
〓(女偏+原)子の遺児である二人の内親王(
祐子・
子)の後見を契機に、後期摂関時代を華やかに彩る後宮文化が花開いたのだった。『狭衣物語』の実際の成立年代は院政初期・白河朝の初め
頃かとされるが、作者と目される六条斎院
宣旨の物語ごころを養ったのは、まさしくこの頼通政権下の後宮を
風靡した物語愛好熱に他ならない。姉宮の祐子内親王(高倉の一の宮)を頼通が主として後見し、妹の
子内親王(六条斎院)を頼通の妻の弟である源
師房が後見しているが、彼らの
庇護のもとに、両宮家では早くから盛儀
歌合が催され、「物語歌合」なるものが試みられてもいる。祐子家女房となった『更級日記』の作者・菅原
孝標の娘は同時に、「寝覚め」「浜松」「みづからくゆる」「あさくら」などの物語作者とも伝えられる。
主人公「狭衣大将」は一世源氏「堀川の大臣」の
鍾愛の一人子である。この堀川の大臣という人、(光源氏のような更衣腹でなく)紛れもない天皇と皇后の
嫡子でありながら、訳あって臣籍に下り、兄弟の天皇たちの世俗的後見を一手に引き受けている不思議な器量人として設定されている。本来なら天皇の外祖父が負うべき摂関の役割を、天皇の同母兄弟である源氏が負うというのは、摂関が後見の
埒を超えて皇権を冒すことの多かったこの時代に対する女たちの無言の批判かもしれない。ともあれ、父堀川の大臣も世が世なら皇位に
即けたはずの人であり、その潜在王権はやがて、巻四の狭衣即位によって見事に立証されることになる。皇権に限りなく近く、しかもその血と誇り高さはそのままに、現実には数等低い地位に甘んじて生きなずむ、
判官贔屓の女たちをくすぐる設定ではある。かつて、光源氏の物語を成功させた鍵が、まさしくこの「貸し」の論理であった。しかも、『源氏物語』においては、母の地位が相対的に低く、彼の優越を保障したのが「心ある人の目」であったり父
帝の贔屓であるといった、
曖昧な要素であるのに対して、『狭衣物語』では、はっきりとした血の優位が目の当りに保障されているのである。主人公狭衣は根底にこうしたエネルギーをひそめている。宮廷社会において、型通りの礼儀や秩序に従いながら、この青年のもてはやされ方、天皇からの遇され方、彼自身の
奢り方はただごとではない。天上人を
天降らせる音楽の才、あたりを払う
美貌、その他もろもろの学才といった、主人公を飾っているさまざまな条件も、この皇権の貸しというおおけないエネルギーによって初めて生きるのである。その意味で、狭衣大将の人物設定は光源氏に限りなく近い。
不条理な恋へのこだわり
しかしながら、恋愛人という側面になると、いささか異なった
相貌を呈してくる。彼には妹同然に同じ邸内で育った従妹の源氏の宮という
憧れの人があり、その人への
叶わぬ純愛のため、年頃になって降るようにある縁談にも一向乗り気になれない。その最たるものが、皇女との縁談を嫌って心の内に詠まれた歌のことば「狭衣」なのである。
いろいろに重ねては着じ人知れず思ひ初めたる夜半の狭衣
実にこの性格、『源氏物語』では、
雲居雁に操を立てて晴れて結婚に
漕ぎ着けた少年時代の夕霧や、プラトニックラブを捧げる大君の手前、
据え
膳同様の中の君に手も触れず、まんまと
匂宮にさらわれる薫にそっくりなのである。どうやら作者も読者も、女たちは光源氏の見境のない好色より、夕霧や薫の律儀さ、不器用さにこの上なく母性本能をかきたてられたらしいのだ。
源氏の宮との結婚を主人公は、社会的にもってのほかのタブーと思い込んでいるのだが、同居の従妹というだけで、近親結婚のタブーに触れるような血の近さではない。また、光源氏の
藤壺犯しのような、父の妻あるいは国王の妻を犯す
不遜の罪にも当る訳ではない。
東宮の
思し
召しがあるとはいうものの、この物語が始まった時点では、
入内予定が決っているという段階ではらないらしい。その上、後に皇女を犯して
憚ないこの主人公が、東宮妃候補が理由で源氏の宮に手をこまぬいている、と仮にも考えることは、まったく的を射ていない。ここには、身内同士の安直な結婚に対する社会的評価の相対的な低さだとか、そんな事態を夢にも考えていない(源氏の宮の入内からひいては家の繁栄を路線としている)両親への顧慮などがあろうが、それよりも決定的なのは、無理な話と決めてかかって、それでもなお恋い焦がれてやまない不条理な恋へのこだわりなのに違いない。実際、王朝文学のエッセンスは恋歌で、百人一首に
拠るまでもなく、叶わぬ恋こそがその土壌なのである。その意味で、夕霧の純情は受け継ぐにやぶさかではないが、辛抱すれば叶う恋などでは興趣を失うことこの上ない。『狭衣物語』では、恋の妨げとなる条件に、人妻を選ばなかった。藤壺や
空蝉、女三の宮や宇治の中の君といった、『源氏物語』が繰り返し選んだ苦しい恋の条件は、この物語のとるところではなかったらしい。
無傷のヒロイン・源氏の宮
源氏の宮に限らず、『狭衣物語』の女君たちは(巻四の藤壺
女御を別として)いずれも狭衣との結婚生活の安住を得ず、
失踪したり出家したりしている。しかもそれは、他ならぬ源氏の宮ゆえ、なのである。そこに、藤壺に憧れ続けた光源氏や、女三の宮にこだわり続けた柏木、大君の面影がいつまでもふっきれない薫の投影があることは否定できない。しかし、それにしても、源氏の宮は無傷である。藤壺や女三の宮のように、恋慕されただけでは済まずに、あの世までも恋した男と
業苦を共にしなければならないような理不尽な宿命とは、源氏の宮は無縁である。彼女の身辺の潔さは、『源氏物語』の結婚拒否主題の権化とされる朝顔の姫宮にも似ている。源氏の宮が朝顔の姫宮と同じく、斎院となって主人公のもとを去っていくという設定は、六条斎院という作者が身を置いた宮家のしからしむるところであったかもしれない。
源氏の宮が
賀茂の斎院に
卜定される経緯で、現代の読者がやや戸惑うのは、賀茂明神の託宣が堀川の大臣や源氏の宮その人の夢にまざまざと現れるくだりであろう。たしかに『源氏物語』にあっても、源氏や明石の入道が子どもの将来について夢に見たり、源氏が夢に現れた父帝や不可思議なものの導きで
須磨から明石に移ったり、ということはあったが、『狭衣物語』の場合、『源氏物語』のような個人的で暗々裏の現れ方とは違い、斎院卜定や狭衣帝の即位といった、公的・社会的な決定にその場で直接に強い影響力を持つもの、
天稚御子の降臨や
粉河観音の霊異のように、衆目の中での怪奇現象が少なくない。夢占いに将来を委ねたり、
物の
怪のような怪奇現象を集団で信じたりといったことは、それ以前の日記類に見えないことではないが、たとえば神の託宣が神社の縁起として書き留められ、不可思議な説話がまとまって書き留められて集となる、まさしくそういう時代の産物としてこの物語は首肯されるところがある。
中世世界に通ずる女二の宮
時代の好みという側面からいえば、女二の宮の造型もその一つである。彼女は父帝の気紛れから狭衣への笛の
禄とされる。しかし狭衣は源氏の宮への心中立てから結婚を承知しない。そのくせ、ふとしたはずみで女二の宮の
可憐な姿をかいま見ると、矢も盾もたまらずわが物にしてしまうのである。一夜の契りで身ごもった宮は屈辱的な苦しみのなかで男子を産む。未婚の皇女の妊娠に
狼狽した母后は、苦悩の挙げ句、自分の妊娠と世間を偽って娘の出産まで堪え忍び、赤子の無事な顔を見て息絶える。二の宮の真骨頂が描かれるのは、その先である。彼女は自分ゆえに苦しみ尽して亡くなった母皇后が慕わしく申し訳なく、
産褥で尼となる。真相を知った主人公は、わが子いとしさもあってしきりに二の宮に接近しようとするが、宮はがんとして
逢おうとはしない。かつて不覚にも狭衣の手に落ちたことを悔む二の宮は、風のように忍び込んで来る男の気配も、聞き逃すことはない。女房たちの熟睡をよそに、狭衣の魔の手を逃れた二の宮は、凍り付くような冬の夜の寒さのなかで
帳台の外に逃れ、息をひそめて夜明けを待つのである。
空蝉や大君のもじりなのだが、女が薄衣一枚で冬の夜を耐えるこの設定は
凄絶である。男性不信の象徴のようなこうした造型を、男性を主人公とする物語の
一齣として、どう意味づけるべきなのか。
さて二の宮は、父帝の退位に伴って、
嵯峨野の御堂で精進生活に入る。親戚でもあり後見者でもある狭衣は、皇子を連れてときどき嵯峨野を訪れる。尼となった妻との未練の対面。これはどうやら、女三の宮に未練を感じる源氏や、浮舟の
剃髪に慌てる薫あたりに端を発するが、『浜松中納言物語』で拡大再生産された新しい美意識かもしれない。そして、出家した父と生活を共にする娘の
静謐な心境は、広沢湖畔の寝覚めの上が見せたものでもあった。若く美しい尼は現世に未練を抱くことなく、潔く、むしろ好ましく、宗教的境地に心を安らがせている。中世
懺悔物の世界はもう遠くない。
新しい女性像――飛鳥井
新しい女性像といえば、
飛鳥井の女君にとどめをさすであろう。彼女は
乳母に裏切られて破戒僧に
攫われるところを狭衣に救われ、そのかりそめの愛を受けることになった。ここでも狭衣は、飛鳥井を愛しながら、肝心な時に女の求めに応じてやれない。飛鳥井は乳母のたくらみで
筑紫に攫われる途中、自分を攫った相手が狭衣の家臣と知ると、ますます抵抗の意志を固め、海路、姿を消すのである。読者にもてっきり
入水と思わせるこの筋書きは、後から修正をせまられるが、いまそれは
措くとして、女の
入水潭としては、いささか理由が変っている。女の入水潭は古代から数多いが、貴種の相手に操を立てて、卑位の男から逃れようとする意識が文学化されたのは珍しいのではあるまいか。もっともこの場合、「操を立てて」という近世的言い方はふさわしくなく(つまり倫理道徳的な意識ではなく)、後で事実を知った恋する人から「あんな手合いを相手にする女だったか」と
蔑まれたくない一心のなせるわざなのであった。
こうした女の心意気を作者がどれほど重視しているかは、帰京した家臣の
式部大夫が彼女の貞節を主人公に力説するくだりから読み取ることができる。飛鳥井に拒否されたことは、式部大夫自身にとってはむしろ不名誉なことで、自分の口から語る必要は
毫もないのであり、
失踪した彼女にこそ強調して語りたい理由はあったのだ。狭衣が彼女の心意気を知る物語の唯一の手段として、式部大夫は女から忌避された自分の不名誉を、主人公の前で力説する羽目になったのである。身分高い相手から「
口惜しき
下衆」と思われたくない、というのは、王朝文学にしばしば見える女の意識である。
空蝉もまた、源氏との恋に屈辱を感じて関係を断ちたい一方で、歌の応酬にあまりそっけなくしては、口惜しき者と思われはしないかと、消息はほどほどに絶やさないでいる。和泉式部が宮たちとの交流にもっとも心を砕き、相手からも人柄を買われたのは、まさにこの点であった。しかし飛鳥井の場合、事は生命にかかわる。空蝉や和泉式部のような段階ではないのである。まさしくここには、一見夕顔のようにはかなげに見えながら、なりゆきに任せず、命をかけて貞操を守ろうとする、行動する女の
片鱗が見て取れる。それはひょっとしたら、
乞食に犯されるのを忌避してわが子を犠牲にした女の物語(『今昔物語集』巻二十九の二十九話)と通底するのかもしれない。
『源氏』を意識しながら、至る所で『源氏』離れを起しているこの物語を、後代、『
無名草子』の作者は、
『狭衣』こそ、『源氏』に次ぎては世覚えはべれ。「少年の春は」とうちはじめたるより、言葉遣ひ、何となく艶にいみじく、上衆めかしくなどあれど、さして、そのふしと取り立てて、心に染むばかりのところなどはいと見えず。また、さらでもありなむとおぼゆることもいと多かり。
と評した。あれこれ文句はあるけれど、『源氏』の次には世間で認めている、というのである。その理由の第一が「艶」な言葉遣いだということになるが、定家が『物語百番歌合』を試みて『源氏』に『狭衣』を
番えたことは、言葉の粋であるこの物語の和歌が『源氏』に匹敵すると認められたからであろう。『狭衣物語』の歌数は『源氏物語』の四分の一ほどなので、約半数が撰に入ったことになる。(後藤祥子)