古典への招待

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芭蕉の発句について

第70巻 松尾芭蕉集(1)より
 この書は芭蕉の全発句の評解である。では発句とは何かを説明する必要があろう。すでに平安時代から盛んであった連歌の、二句唱和でなく長く続ける鎖連歌くさりれんがの第一句目が発句である。連歌を継承して江戸時代に広く行われた俳諧の連句でも発端の第一句目を発句と言った。もっとも、連歌時代から発句は平句とは違うものと扱われてはいたが、俳諧になって発句を独立して鑑賞することも始り、独立して鑑賞されることを期待する発句も生れてきた。江戸時代後期になると、連句の発端の句としての発句を立句たてくと呼び、それ以外の発句を地発句じほつくと呼ぶ言い方も出てくる。本書では、芭蕉のいわゆる立句と地発句を網羅して評解の対象としたが、二種類の発句は性格の違うところもあるし、全体として多少の整理をして、本書を読む上での参考に資したい。
 芭蕉が二十九歳で江戸に出府したとして、数年のうちに機知滑稽こつけいを主とした談林俳諧の宗匠となり、新進の宗匠として江戸俳壇に注目されるようになったことは、解説で述べられているからここでは深入りしないが、当時の談林俳諧は「折ふしの興にまかせて、ひやうふつといだす言葉の、みづからも腹をかヽへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共にたのしむを俳諧の骨子こつしとす」(脩竹堂著『俳諧或問わくもん』延宝六年刊)というようなものだった。そういう宗匠だった芭蕉が、延宝八年(一六八〇)の冬、宗匠稼業をやめて深川に退隠し、それ以後の作風に大きな転換があることは、これも解説に譲るが、それは当然、発句にも及ぶところである。
 それまでの発句は、機知滑稽に類するものが多かった。ところが深川隠棲いんせい以後、単純な機知滑稽の遊びの発句はほとんど影を潜めるようになり、作者の感懐を吐露する、作者の主体性のある発句が詠まれるようになる。すなわち「茅舎ばうしやノ感/芭蕉野分のわきしてたらひに雨を夜哉よかな」であり、「深川冬夜ノ感/の声波ヲうつてはらわた氷ル夜やなみだ」である。こういう作者の感懐を端的に吐露するような発句はこれまでになかったところである。もっとも右に挙げた漢詩調のスタイルには中国の唐代の文人にみずからを擬し、俳諧隠者としてえて乏しきに堪えている自負と気取りが交錯していて、やがてこのような漢詩調は穏やかな表現に変ってゆくが、大観するとこれらの漢詩調が詠まれる頃から作者の主体性を持った発句が作られるようになると言えよう。そうしてこれらの作者の主体性の顕著な発句は、一句だけで独立して鑑賞されることを期待するようになる。
 芭蕉は、連句の第一句目としての発句(立句)には軽い句を好んだ。土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に「先師は懐紙の(発)句(連句の発句)はかろきを好まれし也」とある。この「かろき」は芭蕉が俳論として主張する「かるみ」とは異なる。この「かろき」は作者の主体性が強く出ない、さらりとした句のことで、連句の発句に作者の強い思い入れや、作者の胸中の深刻な感懐が述べられては、脇句わきく以下の展開が発句に縛られることを嫌ったのであろう。作者の人生観や重い激情を第一句目から吐露されては、一座の連衆がそれに引きずられて一座の興が自由闊達かつたつに盛り上がらない。連句は一座の連衆の共同制作であり、享受と創作が一体化して初めて一座の興が盛り上がる文芸である。余りに主体的な、重い第一句目では、以下の連句の自由な展開が制約されてしまう。芭蕉が「懐紙の発句(連句の第一句目の句)」には「かろき句を」好んだのは、連句の性質から考えて当然のことであり、事実芭蕉が作った連句の第一句目の発句には重い句はほとんどない。逆にいえば、重い句は連句の発句としては避けられている。
 例えば、『おくのほそ道』に載っている「夏草やつはもの共どもがゆめの跡」は、元禄二年(一六八九)の旅中に平泉での感動によるものであるが、曾良の『旅日記』の「書留」には記載がない。しかし、元禄四年五月頃に成った『猿蓑さるみの』に収録され、その前、元禄三、四年頃、芭蕉に親しんだ洒堂しやどう・正秀共編の『白馬』に載り、芭蕉の真蹟の墨がまだ乾かないような染筆直後のものに拠ったとあるから、多分、元禄三・四年頃の作であろう。しかし、この句を発句にした連句はない。連句の発句とするには主情的だと考えられたのであろう。
荒海あらうみ佐渡さどによこたふ天河あまのがわ
文月ふみづき六日むいかつねにハ
この二句は共に越後路の今町、現在の直江津で土地の俳人たちに披露した句であるが、その俳人たちとの連句の発句に使われたのは「文月や」の句である。「荒海や」は重厚で深みがあるから、連句の発句には適しないと芭蕉は判断したのであろう。その日、七月六日は七夕の前夜であったから、「文月や」の句には土地の人びとに対する挨拶あいさつがあり、作者の主情的感懐が抑えられているので、連句の発句には「荒海や」の句より適していると芭蕉は判断したのであろう。
しづかさいはにしみいるせみこゑ
つかもうごけ我泣わがなくこゑあきかぜ
は連句の発句に採用されず、
すずしさをわが宿やどにしてねまるなり
さみだれをあつめてすヾしもがみ川
が連句の発句に使われている。前者の「涼しさを」は尾花沢の豪商で芭蕉を歓待した清風への挨拶の句であり、後者「さみだれを」は大石田で芭蕉をもてなした高野一栄への挨拶の句である。
 こう見てくると芭蕉の発句に二種類あることが解るであろう。一つは連句の発句を中心に、広い意味での挨拶性を持った「かろき」句である。その場合、挨拶として詠みかける相手はたいてい連句会の主催者の亭主である。連句の第一句目でない挨拶の発句では、詠みかける相手は、例えば自分を温かく世話してくれた若妻に対し、「月さびよ明智あけちが妻のはなしせん」というようになる。たまたま訪ねた寺を称美しては、「守栄院/もんればそてつにらんのにほひかな」と詠む。膳所ぜぜ義仲ぎちゆう寺の芭蕉の草庵そうあんに人びとが訪い寄れば、「あられせば網代あじろ氷魚ひをを煮て出さん」と対応する。路通ろつうが奥羽におもむくと聞けば、「くさまくらまことの華見はなみしてもよ」とはなむけする。「行春ゆくはるやあふみの人と(を)しみける」は「志賀辛崎に舟をうかべて、ひとびとはるを(を)しみけるに」と前書があり、船中の人びとに呼びかけた句であろう。「我宿わがやどのち(ひ)さきを馳走ちそうかな」は幻住庵を訪ねて来た秋之坊あきのぼうに示した句だと言う。いずれも特定の人や特定の物に呼び掛けた挨拶あいさつの句である。
 これに対して右のような立句や挨拶性の強い発句と違って、作者としての主体性のある句が一方で作られるようになることは前にも触れた。その初めは前述した深川退隠後の「芭蕉野分して」や「櫓の声波ヲうつて」の類の一連の句である。これらの句は、作者の胸中の鬱屈うつくつした思いを端的に吐露している。特定の誰かに呼びかけているのではなく、不特定の読者に自分の思いを訴えている。この二句のような字余りの激情的な表現は、前述のとおりやがて抑制されるが、次のような発句は、この種の系列に属するであろう。
さる聞人きくひと捨子すてごに秋の風いかに(貞享元年、四十一歳)
荒海あらうみ佐渡さどによこたふ天河あまのがは(元禄二年、四十六歳)
病鳫やむかりの夜さむにおちて旅ねかな(元禄三年、四十七歳)
秋深き隣は何をする人ぞ(元禄七年、五十一歳)
 これらは自分のまわりの特定の人や物に呼び掛けた句ではなく、未知・既知を含めて不特定な人びとに向って自分の心中のる感慨を訴えている。「荒海や」の句は叙景句で、一見、作者の感懐を露骨に述べてはいないようだが、地上には押し寄せる激浪、空には無窮の彼方かなたに大きく流れる銀河と、天と地の自然の大観をざくっとつかみ、そのことによって自然に対比させられた人間の哀れを読む者に訴えている。「病鳫の」の句にしても、病気らしいかりが、秋の夜寒の折柄、近くに降りて旅寝をする気配だと、雁の様子を詠んだ句だが、それはまた定まった住居もなく、病勝ちで漂泊を続けている自分の旅寝の訴えでもある。近代詩で言えば、例えば「げにわれは/うらぶれて/こヽかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。」(ヴェルレーヌ「落葉らくえふ」上田敏訳)なのである。
 このような発句は芭蕉をまって初めて出現したと言えよう。それまでの連句の第一句目の発句や挨拶としての発句は、作者の主情的なものを強く訴えるところがなく、主体性に欠けていた。連句の第一句目の句であるためには作者の主体性は反って無用だし、特定の人に挨拶をするのに自己の感慨を押しつけることは挨拶にならないから、深川隠棲いんせい前の、すなわち蕉風俳諧前の芭蕉の発句に、作者の主体性を盛りこむことが弱かったのは当然かもしれない。だから蕉風俳諧の樹立に伴って、作者の主体的な、作者の人間の居る発句が出現し、文学としての俳句の道が切り開かれたと言えようか。
 蕪村の俳諧は唯美的で芭蕉の俳諧とは大きく異なっていたが、しかも蕪村が芭蕉を尊敬してやまず、「芭蕉さつてそのヽちいまだ年くれず」と詠むのは、芭蕉が文学としての発句を切り開いた先達だと信じていたからであろう。安永九年(一七八〇)六十五歳の蕪村は、訪れた門人の几董きとうに向って、「我むかし東武にりてひとり蕉翁の幽懐を探り、句を吐事瀟洒はくことせうしや、もはら『みなし栗』『冬の日』の高邁かうまいをしたふ。しかれども世人の佳興をしらず。時に蕪村二十有七歳(下略)」(几董が蕪村との両吟歌仙草稿を春坡しゆんぱに与えた時の譲状)と語ったというが、『虚栗』『冬の日』時代は芭蕉が深川に退隠して以後三、四年間の時期で、前述のような主体的な発句に目覚めた頃である。芭蕉が自己の蕉風の確立に邁進まいしんした頃の作風に若い蕪村は感動したのである。
 もっとも、断っておかなければならないが、主体的な句といっても、胸中の感慨を露骨に述べる句ばかりというのではない。作者が面白いと感じ、風情があると思った自然や事物の形状を訴えるのも作者の主体性のある句である。「辛崎からさきの松は花よりおぼろにて」の句について、門人の其角や去来がそれぞれ意見を述べたところ、芭蕉は「我はたヾ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」と言ったことが『去来抄』などにあるが、作者が風景に感動したこころを形象化した発句を、私は作者の主体性のある句だというのである。「秋風ややぶはたけも不破の関」「古池や蛙飛かはづとびこむ水のおと」「郭公ほととぎすこゑ横たふや水の上」などもそうである。
 なおまた、いわゆる立句たてくの中にも芭蕉をまって初めて詠めるような興趣の深い、文学的な句もある。例えば「梅若菜まりこの宿しゆくのとろヽ汁」「此道このみち行人ゆくひとなしに秋の暮」のごときである。「水鶏くひななくと人のいへばや佐屋さやどまり」はいわゆる立句であり、挨拶の句であるが、風流に身心を委ねている作者の安息感が伝わってくる。
 さらにまた、挨拶的な発句と非挨拶的な発句と明確に一線が引けるというのでもないが、しかし、大観すると芭蕉の発句には右に述べたような二つの性向があると言えるのではあるまいか。そうして、立句や挨拶句以外の発句の中に、芭蕉らしい主体性のある文学的な句が多く、明治以後の近代文学の勃興の中で、詩人や小説家たちが心惹こころひかれたのは概してそういう句である。
 島崎藤村にとって芭蕉の諸作は終生の伴侶はんりよであった。『飯倉だより』(大正十一年〈一九二三〉九月刊)の中の「芭蕉」に「酒のめばいとヾられね夜の雪」を引いているが、いかにも藤村好みの句と言えよう。蒲原有明が「海くれて鴨の声ほのかに白し」を『春鳥集』(明治三十八年〈一九〇五〉七月刊)に引くのは、象徴詩を志した当時の有明らしい選択であろう。三木露風は『白き手の猟人』(大正二年九月刊)に「芭蕉」を収録して、子規の芭蕉批判に反論している。室生犀星や芥川龍之介を省略して、近代俳句作者として最も深く芭蕉に沈潜したのは加藤楸邨しゆうそんであり、中村草田男であろう。楸邨には『芭蕉全句』(上巻・昭和四十四年三月刊、下巻・昭和五十年三月刊)というすぐれた評釈書があり、同書に第二次世界大戦の米空軍の爆撃下「『しづかさや岩にしみ入る蝉の声』が、どのくらい切実に私の心に泌みこんだことか。物音もしない空屋ばかりの中にいて、『秋深き隣は何をする人ぞ』がどれほど私を惹きつけたか」と書いている。中村草田男は「能なしのねむたし我を行々子」を「芭蕉の作品中でも無類に好きなものである」と言い、「行く春や鳥啼き魚の目はなみだ」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「この秋はなんで年よる雲に鳥」などを挙げる(「芭蕉の五句」『現代俳句講座』昭和三十一年六月)
 芭蕉が作者の主体性のある発句の道を切り開き、不特定の読者に思うところを訴えたことが、ここにまで及んでいるのである。そうして明治の子規による俳句革新の根幹は、いわゆる座の文学である連句を切り捨てて、不特定多数の人びとを読者対象にしたことであろう。連句はその一座の中にのみ創作と享受がある。これに対して子規は一座の人びとだけでなく、新聞や雑誌のマス・メディアによって不特定多数の読者を想定して俳句を作る道を考えた。不特定多数の読者に対し、作者からの一方通行、つまり独り合点に陥らないために「写生」のような方法も考案されたのではあるまいか。そこに俳句そのものの性格の変化も始ったに相違ない。子規は写生にこだわって、芭蕉を批判し、蕪村に肩入れしているが、芭蕉が発句において試みた、立句や挨拶でない新しい発句の道が、俳句の近代化につながっていることをもう一度考えてみたい。(井本農一)
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