古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

物語・説話と説話文学

第35巻 今昔物語集(1)より
物語と説話
平安時代末期に成立した『今昔物語集』は三十一巻(うち三巻を欠く)一千数十話の短い話を集めた一大作品であるが、その個々の話を“説話”と称することから、これを“説話集”といっている。ところが、その作品名は『今昔物語集』である。これからみると、この短い話は、もとは“物語”とされていたので、それが多く集められた作品としてこう名づけられたのであろう。このような話を“説話”と呼ぶようになったのは近代以降のことであり、それが多く収載された作品(平安時代から鎌倉時代を通じて次々と成立した、『日本霊異記』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『沙石しやせき集』『三国伝記』『私聚しじゆ百因縁集』等々)を、『竹取物語』(伝奇物語)、『源氏物語』(作り物語・写実物語)、『栄花物語』(歴史物語)、『平家物語』(軍記物語)等の物語類とは異性格のものとして、古典文学ジャンルの上でも“説話集”と呼ぶようになったのである。『伊勢いせ物語』『大和やまと物語』などは歌物語と呼ばれるが、それらは和歌を中心にした短い話を多く集めたものであるから、別称として和歌説話集ともいっている。
 さて、前記のように説話はもと物語と呼ばれていた。なぜなら、それは元来〈ものがたる〉ものだからである。“物語”の語源については、すでにすぐれた考察がなされているが、それはさておいて、〈ものがたる〉〈かたる〉は、ある特定の人物の言動やその生き方とか、事物の由来、特殊な出来事などを人々に伝達しようとする言語行為であり、それは日常会話としての言語行為である〈はなす〉と異なる。この〈ものがたる〉〈かたる〉実体が“物語”であるが、一般には、ある作者によるまったくの創作であっても、何かの言い伝えをとらえたものであっても、原則的に人に語る形で叙述された散文体(漢文・和文・和漢混淆こんこう文)の作品を“物語”とする。その物語のうち、実在・仮構を問わず、一人または複数の人物の生涯、またはその一部を主題として語る長編・中編を“物語”と称し、ある人物の一挿話とか、事物の由来、異常な一事件など、原則として伝承または自ら見聞した、過去の事実としての一つの出来事や一つの事態・状況に興味・関心を持って、それを主題として語る作品――それは必然的に短いものとなるが、それを“説話”と称するものと思われる。その内容は多種多様であるが、次に二つの説話集からアトランダムに二話を取り出して例示しよう。
『今昔物語集』巻二十八は笑話(滑稽こつけい談)を集めた巻である。その中に「池尾禅珍内供鼻語第二十」がある。これと同じ話が『宇治拾遺物語』中に「鼻長僧事」(二五)として収められている。これを要約して記してみる。
 池の尾という所の寺に禅珍ぜんち(智)という僧がいた。戒律を守り、修行に努める立派な僧であったから、寺は大いに栄えていた。ところが、この僧は異様な鼻の持ち主で、その長さは五、六寸、あごの下までとどくほど。色は赤紫で表面はぶつぶつとしてふくれており、まるで蜜柑みかんのよう。これがかゆくてしかたがないので、なべに沸かした熱湯の湯気で鼻をゆでたうえ、横に寝て、用意した板の上に鼻を載せ、それを人に踏ませる。すると鼻の表面から白い小虫のようなものが無数に出てくる。それを毛抜きで取り去ってから、また前のようにゆでると、鼻は普通の人のように小さくなっている。しかし二、三日もするとまたもとのようになるので、またこれを繰り返していた。だがふくれている日のほうが多い。困るのはうまく食事ができないことで、食事時には弟子を前に座らせ、一尺ほどの平らな板を鼻の下にあてがい、鼻を持ち上げさせて食べる。持ち上げ方が悪いと不機嫌になり食事をやめる。そこでこれの上手な弟子を一人決めてやらせていたが、ある日、禅珍が朝粥あさがゆを食べようとしている時、この弟子が折り悪しく出てこなかった。他の弟子たちが困っていると、一人の小坊主が、「わたしだってうまくやれますよ」と言ったので、やらせてみると実に上手にやる。禅珍は喜んで粥をすすっていたが、その小坊主が思わず大きなくしゃみをした。とたんに手もとが狂い、板が鼻からはずれたので、鼻が粥椀の中にぼちゃっと落ちて、粥汁が禅珍の顔や頭に飛び散った。禅珍は怒って、「こいつ、とんでもない奴だ。もしこのわしでなく、貴いお方の御鼻を持ち上げるような時に、こんな失礼をするつもりか。さっさと出て行け」と言って追い出す。出て行った小坊主は物陰に行って、「なにをえらそうに。こんなけったいな鼻を持った人がこの世にほかにおいでになるならば、よそで鼻持ち上げもしように。ばかなことをおっしゃるお坊様だ」と言う。これを聞いた他の弟子たちは、その場から逃げ去って大笑いした。思うに、どんな鼻だったのだろう。何ともあきれた鼻だ。小坊主は実に面白いことを言ったものだと、これを聞いた人は皆ほめた。
 この話は、禅珍の異様な鼻をもとに笑いを生じた一出来事に興味を持ち、それを主題として語った笑話であり、その点で“説話”といえる。これを素材にして芥川龍之介が書いた『鼻』は短編ながら小説であり、笑話ではない。禅珍の言動に近代的な心理解釈を施しながら、一抹の哀感をただよわせる人間を描き出している。だからこれは、“説話”ではなく近代小説である。
『古今著聞集』巻十六「興言利口第二十五」の中の極めて短い一話の要約。
 前大和守時賢やまとのかみときかたの墓所は長谷はつせという所にあったが、そこの墓守をする男が鹿を捕えようと、かずらを用いたわなを仕掛けておいたところ、ある日、大鹿がかかった。わなで捕えたというのもくやしいから、射止めたのだといって自分が弓の達人であることを人に知らせようと思い、わなで捕えたままの鹿を大雁股かりまたの矢で射たところ、矢がそれてわなのかずらに当り、射切ってしまった。鹿はそのまま逃げていった。男は頭を掻いたが、どうにもならなかった。
 この話は、墓守の男がわなで捕えた鹿をめぐって、自分が弓の達人であることを自慢しようとして失敗した一出来事を主題にした“説話”である。これには、つまらぬ自慢行為に対する戒めの意を伴っている。
 古代において自然界・人間界の事象のそれぞれを、各氏族・部族などにとっての神格的存在の作用によるものとして語る「神話」も、ある一族または集団の出自や特定地域の自然物・事件などの由来を語る「伝説」も、〈むかしむかしある所に〉などの言葉で語りはじめ、〈あったとさ〉〈あったげな〉などで結ぶ空想的内容の「昔話」(〈昔〉で始る〈話〉の意の命名)も“物語”であるが、この三者ともまた説話としてとらえられている。『今昔物語集』所収説話のすべては、冒頭に「今昔(今は昔)」の語を置き、末尾を「…となむ語り伝へたるとや」でくくる。これは「昔話」の語り口を承けているものであり、もと“物語”といわれた“説話”叙述の一典型である。漢文体の『日本霊異記』(平安初期)も収載説話の多くが「昔」を冒頭に置く。また『宇治拾遺物語』(鎌倉初期)も大部分の説話の冒頭が「今は昔」「是も今は昔」である。だが、説話冒頭に「昔」などを置かない説話集も多い。
仏教説話と世俗説話
ところで、説話はその内容から通常二種に分けられる。一は仏教説話、一は世俗説話。前者は仏教信仰を主とするもので、それには、三宝さんぼう(仏・法・僧)霊験談、因果応報談、寺塔縁起談、その他がある。三宝霊験談には、仏宝ぶつぽう霊験談(釈迦しやか仏・薬師仏の諸仏の霊験を語る)、法宝ほうぼう霊験談(『般若はんにや経』『法華ほけ経』等の諸経典の霊験や念仏の利益りやく=往生などを語る)、僧宝そうぼう霊験談(観音・地蔵・弥勒みろく等の諸菩薩や歴史上の高僧たちの霊験やすぐれた行跡を語る)の三つがあり、因果応報談は、善因善果・悪因悪果のありようを語るものであり、寺塔縁起談は諸寺・諸塔の建立由来を語るものである。仏教説話にこれらのほかさまざまのものがあるが、その多くは僧徒が布教用に語るためのもので、これらもみなある事件・事象の興味・関心に寄せて語られる。一方、世俗説話は右以外の世事一般にかかわる説話で、上は皇族・貴族の公的な場、私的生活の中での言動や事件、漢詩文・和歌にかかわる話、下は都鄙とひの一般民衆・僧侶・乞食・盗賊に至るまでの者の日常生活の中での種々さまざまの出来事の一つをとらえて語るものである。そして仏教説話・世俗説話の二種のうちの仏教説話を主として収載した作品を仏教説話集といい、世俗説話のみ、あるいはそれが大多数を占める作品を世俗説話集といっている。
 説話はおおむね前記のような特性を持つものであるが、それらを語り、また記述するに当っては、多くの場合、単に人々の興味・関心に訴えるだけでなく、実用的な目的・意図を持っている。仏教説話はそれによって仏教信仰を強め、戒律に添って生活態度を戒めようとする説教性の強いものであり、世俗説話はそれによって日常処世のありよう、心のもちようを教え導こうとする。すなわち説話は仏教説話と世俗説話を問わずこのような目的・意図をそなえて語り、記述する、換言すれば説示するものである。これによって“説話”という名称が与えられたのかもしれない。これらのことから、説話集はどちらかといえば社会体制の変動期、文化の変異期により多く現れるといえよう。
 仏教信仰は奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代に至るにつれ、貴賤の間にしだいに深く浸透してゆき、次々に仏教説話集を生むことになった。平安初期に『日本霊異記』が書かれ、次いで平安中期には『日本往生極楽記』『三宝絵詞』『打聞集』などが成立している。平安末期の『今昔物語集』は、三十一巻のうち前半二十巻(うち巻八・十八欠)が仏教説話であり、後半十一巻(うち巻二十一欠)が世俗説話であるから、全体としては仏教説話集とも世俗説話集ともいえない。これが成立する前の平安中期頃から藤原氏を頂点とする貴族権力の衰退傾向に伴い、下級官僚の進出、地方武人勢力の台頭が目立ちはじめ、また中央・地方間の往来が多くなってくる。こういう状勢をうけて、都人たちの間に人間のもつさまざまな個性や能力・欲望に対する興味・関心が強まり、それらにかかわる世俗説話が仏教説話とともに『今昔物語集』の中に多く収められ、『宇治拾遺物語』にも取り上げられた。世俗説話は後世になるにつれ、武人階層・庶民階層の興味・関心をとらえた説話を生み出し、それを収めた説話集が作られてくる。
説話文学と説話
さて、説話に関連して“説話文学”ということがいわれる。これは説話が“文学”であるということなのか。説話も、その多くが人々の感情や情緒に訴える作品であるからには、広い意味で“文学”といえるであろう。しかし前記のように、個々の説話が主として一つの出来事・事態・状況の興味・関心において語られるものであるとともに、日常的な教導・教訓を目的として語られる短小な実用的作品であり、真正面から人間・人生を描き出そうとするものでないからには、その説話が人物をとらえたものであっても、往々にして人物描写・心理描写はおろそかになり、また情景描写などもおざなりになりがちで、その点からいわゆる文学性は希薄なものになっているといわざるをえない。
 だが“説話文学”というのは、一般に、個々の説話についていわれるのではなく、それらを一括収集した説話集をとらえての呼称、すなわち同義語とされる。そうであれば、個々の説話の文学性の有無にかかわりなく、全体としてそこに喜怒哀楽さまざまの人間模様や社会の種々相が万華鏡をのぞき見るように現れてくる。その面白さをとらえて“説話文学”というのであろう。(国東文麿)
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