古典への招待

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佐々木道誉『太平記』の内と外

第56巻 太平記(3)より
 暦応三年(一三四〇)十月六日、ばさら大名佐々木佐渡判官入道道誉どうよ(彼自身の署名では「導誉」が多い)は、子息秀綱ひでつなと家人たちがき起した妙法院宮亮性りようしよう法親王(北朝の光厳上皇・光明天皇の弟)の坊人とのいさかいに自ら踏み込んで、御所に焼打をかけた。『太平記』巻二十一「道誉妙法院をく事」は、この事件を詳しく記している。当時権中納言であった源通冬みなもとのみちふゆの日記『中院一品記なかのいんいつぽんき』の十月六日条には、「夜に入りて京辺に焼亡あり」(原文漢文)とあり、翌七日条に詳しい記述がある。
伝へ聞く、去んぬる夜、白河妙法院宮(亮性親王、仙洞御兄弟なり)の御所、焼き払ふと云々。佐々木佐渡大夫判官入道々誉、并びに同子息大夫判官秀綱、かの御所に寄せ懸け放火し、散々に追捕・狼藉を致すと云々。かの秀綱は、去んぬる夕、竹園の御坊人と御所辺において喧嘩あり。その故の意趣か。累代門跡相承の重宝等奪ひ取り、或いは灰燼となす。言語道断の悪行、頗る天魔の所為か。これに依つて武家は雑訴を止め、山徒は蜂起すと云々。
「御所辺」での「喧嘩」の意図が何であったのかは記されず、『太平記』にいうように、御所の「紅葉の枝」を折り取って、「諷詠閑吟」していた法親王を驚かせ、伺候していた門徒の延暦寺の法師によって叩き出されたかどうかは明確ではないが、いかにもあり得そうなことではある。通冬は十月二十六日条にその後のことを載せている。それによると、「今朝佐渡判官入道々誉父子、配流に処すと云々」として、この配流は「一向武家の沙汰」であり、山門の衆徒はなお「鬱憤」を抱いているという。その理由は、道誉の先祖定綱さだつなが建久年間(一一九〇~九九)に日吉山王の下級社僧である近江国高島の神人じにんを殺害させた罰で遠島となり、その次男定重さだしげは山門の神人に引き渡されて、野洲やす河原がわらで首をねられているが、「尩弱わうじやくの神人」を殺害したとがですらこのような処置があったのに、今回の事件は「山門の官長」に関わる事件でありながら罰が軽すぎるというものであると、衆徒の怒りを紹介して、通冬は、「もつともそのいはれあるか」という。また、道誉父子の配流の行装について、「軽忽きやうこつ、不可思議なり。ただ遊覧のていをもつて先となす。武家の沙汰、軽式なり」と記し、「道々に酒肴をまうけ、宿々に傾城をもてあそぶ事尋常よのつねの流人に事様ことざま替つて、美々しくぞ見えける」(本文:二五ページ)と描く『太平記』と符合している。
 山門を嘲弄ちようろうするために、「猿皮さるかはうつぼに猿皮の腰当」をした遊山の体への怒りからと思われるが、山門では道誉父子の身柄引き渡しを朝廷に要求する。そこで、改めて十二月十二日に、道誉の名乗りは将軍尊氏と同名の高氏なので、配流に際しての先例にならって源峯方と改名したうえで、出羽国への配流を決定したのであるが、道誉父子を処罰する気のない幕府に逆らえない朝廷の姿を、通冬は書き残している。それによれば、配流決定をした際に、宣下せんげの奉行をする太政官の蔵人は、「所労」(病気)を理由にして欠席し、代りの役人もなかなか現れぬままに、早朝の予定が昼になり、それ以上延ばせないので、何とか形式を整えて宣下したのである。蔵人の欠席も怪しげな理由であり、奉行すべき公卿が前夜落馬したために不参というのも、疑わしいように思われる。道誉が、幕府に対する朝廷側の窓口である勧修寺経顕かじゆうじつねあきと、この時点ですでに親交をもっていたかは不明であるが、何らかの働きかけが公卿たちに対してこの時もなされていたであろうことは想像にかたくない。「江州ハ代々佐々木名字ノ守護ノ国」(巻十七。西源院本による)であり、妙法院の本山である延暦寺と佐々木氏との間には、国人の支配、したがって政治・経済機構の支配をめぐる積年の確執があったことがこの事件の背景をなしている。「ばさら・風流を事とし」た道誉の「その手の物ども」の惹き起した「喧」に便乗した感のある焼打事件は、建武三年(一三三六)の近江合戦から五年ぶりに訪れた大きな舞台であった、という見方も不可能ではない。前回の近江合戦は、道誉にとってまたとない国人支配の好機であったと同時に、積年にわたる山門に対する佐々木氏の鬱陶を晴らすよい機会であった。そして今回の妙法院焼打事件は、幕府内における道誉の重みを確認する好機であったと同時に、山門への揶揄やゆ・嘲笑のまたとない機会であった。将軍と直義ただよしには道誉を処罰する意志がほとんどないこと、むしろ処罰することの不可能であることを、あらかじめ計算に入れての乱暴ではなかったか。天正本では「上総国武射むさのこほりへ流されけり」とするが、武射郡には佐々木氏の所領がある(諸本は武射郡の南の「山辺郡」とする)。配所まで実際に行ったかどうかもはっきりせず、翌暦応四年(一三四一)八月十四日以前に、直義の命によって、伊勢国の南軍追討に発向している(朽木文書・尊勝院文書)ことから考えれば、処罰は形式にすぎなかったことがよく理解できる。まさに「武家の沙汰、軽式なり」(中院一品記)であった。
 妙法院焼打事件からほぼ十年後、貞和五年(一三四九)六月の四条河原の田楽でんがく桟敷が倒壊して死傷者が多数出た事件(巻二十六・洛中の変違并びに田楽桟敷崩るる事)、うるう六月の直義による師直もろなおの執事権罷免に続いて、京中を騒擾そうじように巻き込んだ足利直義派とこうの師直派の正面対決は、同年八月の師直の反撃、直義の政務辞退と義詮よしあきらの上京、直義の出家(巻二十六・御所囲む事・義詮朝臣上洛の事・直義朝臣出家の事)、さらに直義派の上杉重能しげよし・畠山直宗ただむねの配流・刑戮けいりくという師直派の徹底的な行動によって、師直派の勝利に終ったかに見えたが、直義は翌観応元年十月ひそかに京都を脱出して大和へ向い、十二月に南朝と手を結んだ(巻二十七・直義禅閤逐電の事・恵源南朝へ参らるる事)。八幡山に陣を構えた直義のもとには畠山国清くにきよが駆けつけ、北国から桃井直常もものいただつねが攻め上って、比叡坂本に到着し、義詮を京から追い出した。直義軍は播磨の光明寺合戦、摂津の打出うちで合戦で、将軍と行動を共にした師直・師泰らを破り、武庫川むこがわ辺で師直らは上杉重能の子能憲よしのりによって殺害された(巻二十八・師直師泰等誅伐の事)。勝者となった直義は再び政務の座に就いた。入京した尊氏にとって形は和睦とはいえ、事実は惨憺たる敗北であったが、尊氏派の枢要メンバーである道誉、仁木頼章にきよりあき義長よしなが兄弟、土岐頼康ときよりやす・細川清氏きようじら七人は、「罪名を宥され、所領等悉く安堵せしむ」(房玄法印記)という宥免ゆうめん措置を得ることができた。森茂暁氏は、「この寛大な措置の背後に、将軍尊氏の直義に対する強力な宥免要請があったろうことが推測される」(『佐々木導誉』九〇ページ)といわれる。『園太暦』によれば、道誉はこの年一月十六日、近江にある拠城(天正本によれば甲良荘の居城)めざして下向しており、師直との間に距離を保っていたことが、危機を免れ得た原因である。『太平記』巻二十九「諸大名都を逃げ下る事」に適確に捉えられているように、直義派と尊氏派の対立は以前にも増して熾烈しれつとなり、直義は桃井直常の言をれて都を落ち、尊氏はこの年五月に決裂していた南朝との和睦に成功し、直義追伐の宣旨を賜って、近江国へ進発した。この時に道誉が尊氏父子のもとへ真っ先に馳せ参じていることから推測すると、この時の対直義派追伐の作戦は道誉から出たものではないかと考えられる。巻二十九「八重山蒲生野やあいやまがもうの合戦の事」は天正本独自の増補であり、地理の詳細さ、近江国の国人層の活躍する記述などから、佐々木京極氏からの資料提供はもちろんであるが、天正本作者あるいは改訂本製作グループ内の人物に、相当この地域の地理にも明るい人物のいたことが推測される。この章段の冒頭には、「当国守護佐々木大夫判官氏頼、両殿(注、尊氏と直義)の不快に一身の進退定めがたく思ひけるにや、去んぬる六月二十五日に出家遁世の身となつて、高野山に閉ぢ籠る」ページ(本文:四六四ページ)とあり、進退に窮した佐々木の本宗(六角氏)氏頼が、尊氏派優勢の中で、直義派であることに徹しきれず、出家の道を選んだことを語っている。続いて、「その弟五郎左衛門尉定詮さだあき、幼稚の家督千手丸せんじゆまるを扶持して国の探題たりしかば、一千余騎を率して八重山のぢんに馳せ加はる」と記され、氏頼から家督を譲られた少年が叔父に助けられて、直義派として参戦したという。千手丸の母は道誉の娘であり、佐々木六角氏と佐々木京極氏との、ごく近縁の親戚の中では、係累関係のやや薄い氏頼の弟定詮の勇姿には、皮肉っぽい作者の眼があるように思われる。
 戦場を駆けめぐる武将としての道誉でなく、幕府要人としての道誉の、「武家申詞もうしことば」と称された幕府からの申し入れを朝廷側に伝える使者としての役職については、『太平記』ではまったく触れていない。例えば、貞和三年(一三四七)八月八日、光厳上皇に新日吉社造営料および法勝寺大勧進職について伝え、観応元年(一三五〇)十月二十七日に、義詮の使者として光厳上皇に九州発向を奏聞し、十一月十六日には光厳上皇に直義追討の院宣を請願したり、文和元年(一三五二)六月三日・十九日に光厳上皇の第三皇子弥仁いやひと親王の践祚せんそに関して勧修寺経顕を訪問し、さらに十一月二十八日には崇光・後光厳(弥仁)の母である陽禄門院の死去に際して、諒闇りようあんのことで同じく経顕を訪問したりして、「武家申詞」を伝えるなどのことである。『太平記』の中に北朝の有力公卿として頻出する勧修寺経顕の発言は、道誉との間の太いパイプを考え合わせると重みが増してくるのであるが、作者は幕府内の対朝廷の交渉巧者としての道誉を描く代りに、幕府内の有力守護大名追い落しに辣腕らつわんをふるった策略家道誉を描き続けている。
 文和元年、山名時氏ときうじ師氏もろうじ父子が道誉に怒って、父子で南朝にくみした経過は巻三十二「山名左衛門佐敵と成る事」(神宮徴古館本)ほかに詳しい。発端は出雲守護職をめぐる争奪戦にある。道誉は時氏から出雲守護職を奪い返しただけでなく、時氏自身を幕府中枢から追い落すことに成功している。『太平記』の作者は、他の守護大名の追随を許さない道誉の文化的領域である連歌の会や茶会を、師氏を怒らす道具立てに使っている。次に、仁木義長事件であるが、義長は、侍所さむらいどころとして道誉と行動を共にし、高師直亡きあとは幕府の執事を務めた頼章の弟である。義長追い落しの主謀者は畠山国清であり、巻三十五「諸大名仁木を討たんと擬する事」によれば、「佐渡判官入道は、身にとりて仁木にさしたる宿意は無けれども、あまりに傍若無人にふるまふ事を、狼藉なりと目をかけける時分なり」と描かれている。義長に取り込まれていて、畠山国清・土岐頼康・佐々木氏頼らの手の届かない将軍義詮を、道誉が義長と「いくさ評定」を「数刻におよ」んでしている間に「女房の姿」にした義詮を脱出させる、という手の込んだ方法で救ったのである。
 さらに、細川清氏に対する追い落し工作は、かつて詳しく触れたように(「太平記の人物形象・細川清氏」、『太平記の研究』所収)、巻三十六「相模守清氏隠謀露顕の事」に描かれ、今川了俊の『難太平記』中の「清氏の野心、実にあらざる事」に、「細川清氏は、実際には野心を持っていなかったのであろう。将軍の恩が余りにも過分で思い上り、上意にもそむいたために、ある人が彼の失脚をたくらんだのである」と明言し、清氏が石清水いわしみず八幡社の神殿に「天下を執るべし」と書いて納めた自筆とされる願文について、「この願文は清氏の筆跡になるものではないのではなかろうか。亡父(注、範国)は、『願文についている判形はんぎようも、清氏自筆のものかどうか疑問であった』と、お話になった」と書きとめている。『太平記』に描かれた、道誉による清氏願文のすり替えのほのめかしと考え合わせると、非常に興味のあるところである。
 不世出のばさら大名佐々木道誉は、尊氏亡きあとの幕府の大黒柱として、他の有力守護大名の誰もがなし得なかった不倒翁としての一生を送り、応安六年(一三七三)八月二十七日、近江国甲良こうら荘の勝楽寺で、七十八歳の生涯を閉じた。傍らには彼の晩年を温かいものにしたであろう「みま」と呼ばれた女性がいた。
(道誉は「みま」の将来を案じて、甲良荘内尼子郷を譲ることを子息高秀に遺言した。この書状は高秀の証文とともに、『大日本史料』第六編三七に収録されている。森茂暁氏が『佐々木導誉』の中で詳述しておられるので、参照されたい。)
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