古典への招待
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楠木正成の実像と虚構
第54巻 太平記(1)より
楠木正成の『太平記』への登場は、衝撃的であると同時に、神秘的な伝承に包まれている。元弘元年(一三三一)八月下旬、六波羅 勢の追及を逃れて和束 の鷲峰山 へ、さらに木津川と伊賀街道を見下ろす要衝の地笠置山 へと赴いた後醍醐 天皇は、山上に仮の皇居を定めて諸国の軍勢を集めた。笠置から伊賀街道を西へ走ると南山城 の木津、そこから大和 道 を北へ進路をとれば京、南へ下れば奈良・河内へ通じることができる。笠置寺や南都の僧兵たち、それに近国の武士たちが山上に集まったが、名のある御家人 クラスの武将は一人も参上しない。焦りを感じた天皇は、まどろみの中で不思議な夢を見る。宮中の紫宸殿 の庭らしき所に大きな常磐 木 があり、緑の陰がひろがった南向きの枝の下に、大臣以下百官が列座しているが、上座には誰も座っていない。天皇がいぶかしく思っていると、鬘 を結った二人の童子が忽然 と天皇の前に現れて、その座へ案内したかと思うと、童子は天上へ消えてしまう。目覚めた天皇は自ら夢合わせをする。「木の南」、つまり楠の木の下に、南に向って座れというのは、天子としての徳を治め、日本国中の者どもを自分に仕えさせようとの神仏のお告げに相違ない。そう信じた天皇は、笠置寺の僧を呼んで、この近くに「楠」という武士はいないかと尋ね、近くではないが、河内国金剛山 の西に、楠 多聞兵衛正成 という武士がいることを知る。彼は橘諸兄 の後胤 で、軍神毘沙門天 の申し子であるという。勅使万里小路 中納言藤房 を居館に迎えた楠木正成は、すぐに笠置へ忍んで参上し、天皇に「天下草創の功は、武略と智謀の二つにて候ふ」と奏上する。また、武力だけで幕府軍と戦うならば、全国の武士を集めたとしても勝つことはできないが、謀 をもってすれば勝利を得ることはたやすいと言い、続けて、「合戦の習ひにて候へば、いつたんの勝負をば必ずしも御覧ずべからず。正成一人いまだ生きてありと聞 こし食 し候はば、聖運 はつひに開くべしと思 し食 し候へ」と、頼もし気に勅答して、河内へ帰って行くのであった。
兵法の権化、天皇の御治世を実現するに相違ない武将として『太平記』にさっそうと登場する正成は、すでに後醍醐天皇との間に何らかの関係を持っていた。『増鏡』巻十五「むら時雨」には、「笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、つは物ども参りつどふ中に、事のはじめより頼み思されたりし楠の木兵衛正成といふ物あり。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、をのが館のあたりをいかめしくしたゝめて、このをはします所、もし危 からん折は、行幸をもなしきこえんなど、用意しけり」とあり、赤坂城への行幸も予定していたと記されている。さらに、笠置城陥落以前に、尊良親王 ・護良 親王は城を出て、「楠の木が館におはしましけり」ともあるので、正成が大塔宮 護良親王そして後醍醐天皇との密接な連繋 のうえで行動していたことが知られるのである。
幸いにも、この頃の正成に関する確実な史料がある。それは正慶元年(一三三二)六月日の日付のある、「故大宰帥親王家 御遺跡臨川寺領 等目録」(天竜寺文書)中の和泉国若松荘(大阪府堺市)に関する部分である。
世良 親王は、後醍醐天皇が将来を嘱望した御子で、『増鏡』巻十五「むら時雨」にも「一の御子(尊良)よりも御才 などもいとかしこく、よろづきやうざく(警策。すぐれていること)に物し給へれば、今より記録所へも御供にも出でさせ給(ふ)」とあり、天皇が日常政務を見学させるほどであった。親王の乳父 であった北畠親房は、「我世つきぬる心地して」、この時に出家してしまった。その世良親王の遺命によって臨川寺に寄進された十八ヶ所の荘郷の一つが和泉国若松荘である。目録は原文は漢文で書かれ、大意は以下の通りである。
若松荘を内大臣中院通重 の子で醍醐寺の僧正道祐が臨川寺 から奪おうとして後醍醐天皇に望み、天皇は翌三年二月に綸旨を出して道祐の所有を認めたが、臨川寺の抗議により撤回、臨川寺領と認めた。ところが、天皇の倒幕計画が発覚して、同年八月天皇は宮中を脱出、笠置に逃れ、正成は九月に赤坂城で挙兵した。すると、和泉国守護代は、「悪党楠兵衛尉」がこの若松荘を横領していたという風聞に基づき、悪党正成所有の土地という理由で、前年九月頃から荘園の年貢などを奪い、正慶元年六月の今にいたるまで、本荘を知行していて、困ったことである。なおこの若松荘は故親王家がこの荘園全体の一定の年貢収納のみの権利を持つ領家職を持っていて、その年貢は三百石であり、本所職は仁和寺勝功徳院が所有している。
この目録は、正慶元年六月に作成され、当時院政を執っていた持明院統の後伏見上皇に寺領安堵 を願うべく提出されたものであることを考える必要がある。後醍醐天皇は隠岐に流されて四か月、正成はまだ潜伏中である。この臨川寺は、世良親王の別業が、その遺志によって後醍醐天皇の許可を得て寺となったものである。臨川寺としては、後醍醐天皇と固く結びついている文観 の弟子である道祐や正成がこの荘園を管理していたことを隠し、持明院統を支える幕府勢力の侵入を食い止める必要があった。当時の和泉守護は幕府最後の連署 (両執権)である北条茂時 、守護代はその被官信太 左衛門三郎と考えられる(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)。大覚寺統の世良親王が所有していた土地を、反対派の持明院統の上皇に認めてもらおうというのであるから、臨川寺の「作文」はなかなか難しいのである。後醍醐側の正成を、「悪党」と非難し、その行為が正当なものであっても「押妨」(暴力的な所領侵入)だと主張する必要があった。
右の文書が後伏見上皇の許に提出されて半年後、潜伏していた正成は再び活動を始め、十二月には奇想天外な戦法によって、幕府方の湯浅定仏 らの立 て籠 る赤坂城を奪還する。『太平記』では、その八か月前、元弘二年(正慶元年)四月の合戦とし、正成の潜伏期間を一年二か月から六か月に縮めている。この赤坂城奪還作戦から正成の第二次の挙兵・合戦が始まるのであり、翌元弘三年(正慶二年)一月五日には南河内の紀州との境に位置する甲斐荘安満見 (天見)で紀伊国の御家人井上入道を駆け散らして北上し、十四日には羽曳野 市あたりまで進出して河内守護代らを破り、十五日夜には「楠木丸与二官軍一(六波羅軍)於二泉堺一合戦」(『道平公記』正慶二年一月十六日条)している。楠木勢の進撃がいかに迅速であったかは、当時の記録である『楠木合戦注文』の「同(一月)十五日 同国(河内国)御家人 当器 左衛門自ラ放火ス 中田地頭同 橘上地頭代同」という短い記事からも窺うことができる。周辺の地頭たちは、楠木勢の進攻に対応しきれずに、自邸に放火して、おそらくは逃げ散ったのであろう。十九日には、天王寺に城郭を構えた六波羅軍との熾烈 な、十四時間におよぶ合戦の末、楠木軍は勝利を収める。『道平公記』は「二十日 天王寺軍兵(六波羅軍)已降了。仍引退二渡辺一多以被レ誅云々」と記している。渡辺の橋詰まで六波羅軍を追い落した楠木勢は、二十日から二十一日までの二日間、天王寺に滞陣して、二十二日には赤坂・千早の本拠へ帰った。正成の天王寺合戦はこれで終了しており、『太平記』が名勝負として喧伝 する、勇猛な紀清両党を率いる宇都宮公綱と楠木正成との間の、いわば名将同士の駆け引きは、明らかな虚構である。
ここにもう一つ、正成の素顔を知る史料がある。先に引用した、前関白藤原道平の日記『道平日記』の正慶二年閏二月一日、すなわち、天王寺合戦の一か月と十日後の記事である。
貼 られていた可能性もないではないこの落首を、道平に伝えた者は誰か、という点にも興味を覚えるが、道平は感想を述べず、意識的にか、落首の出所について何も記していない。国文学者の長坂成行氏は、「正成は無名であったが、(太平記の)作者は正成を知っていた。正成の出自・経歴、すなわち『ねはかまくらに成る』という過去と、幕府を裏切って後醍醐方として挙兵した事実を知っていて、しかしそのことを全く記さなかった。憶測に過ぎないが、作者は正成に関しては〈裏切り〉という行為を描きたくなかった。(中略)広い洛中には、だが正成の素姓を知る者もいて、それが問題の落首として顕現したのであろう」と推測した(「『道平公記』の和歌一首」軍記と語り物 23 一九八七・三)。この落首も、都の人々がよく知っていて、しかし、作者が『太平記』の中で意識的に披露しなかった落首の一つだと解釈すると、興味は広がっていくのではなかろうか。
楠木正成が幕府の御家人や北条得宗の被官だった可能性については、歴史家によって古くからいわれてきた。とくに網野善彦氏は一貫してそのことを主張し、戦前・戦後の正成の「虚像」から、もう自由になってよいころではないかと述べておられる。『吾妻鏡』建久六年(一一九五)十一月七日条に見える、武蔵国の御家人と推定される頼朝の随兵の一人「楠木四郎」は、確実な史料に登場する楠木氏の初見記事である。また、江戸時代に編輯されたとはいえ、おそらくは確実な資料に基づいていると推測される『高野春秋編年輯録』および林羅山の『鎌倉将軍家譜』の両書に見られる、正成が北条高時の命によって自分の根拠地である河内国金剛山の麓 からさほど隔っていない保田荘の荘司を討伐したという記事等を、さきに見た落首および和泉国若松荘に関する記録と考え合わせるならば、楠木正成は、その軍事力を得宗北条高時から評価されていた河内国の代表的な御家人・得宗被官だったのではあるまいか。
『太平記』作者が、北条政権に対する後醍醐天皇の勝利を確信させる人物として形象したのがこの正成であり、正成形象化の中心を、作者は「不思議」という語によって捉えようとした。たとえば千早城合戦では、「大軍之近ヅク処、山勢是ガ為ニ動キ、時ノ声ノ震フ中、坤軸須臾 ニ摧 ケタリ、此勢ニモヲソレズ、纔 ニ千人ニタラヌ小勢ニテ、誰ヲ憑 ミ、何ヲ待トシモ無 城中ニ、コラヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナレ」(西源院本)のように、わずかな手兵 で千早城を守る正成の「武略と智謀」とを考えるとき、とても人間わざとは思えないのである。このように超現実的なものへの驚きが「不思議」である。これが時を経て天正本になると、「楠が心の程こそいかめしけれ」と、正成の精神のありようへの賛嘆へと移行する。正成の、「不思議」としかいいようのない「武略と智謀」に通底する、近寄りがたい人間存在の持つ威圧感すら感じさせる語が「いかめし」である。そこには表現者の、正成への深い尊敬の念が見られる。この「いかめし」の語が、流布本では、「楠ノ心ノ程コソ不敵ナレ」と、現実的な不羈 の精神を示す「不敵」という語に置き換えられている。いってみれば、古態本の超現実的なレベルでの賞賛から、天正本の倫理的な視点を経由して、流布本の日常的・現実的レベルでの賛嘆へと変化しているのである。
なお、本書は水府明徳会彰考館蔵天正本『太平記』を底本としている。天正本は巻一の巻末に「于時天正廿暦終春第九天/書之畢」の奥書を有し、ほぼ全巻一筆の完本であり、広く知られている神田本から流布本に至る諸本群と対立する天正本系写本四本(他は龍谷大学本・義輝本・野尻本)の中の最善本である。流布本に対する天正本の主な異文は『参考太平記』の中で紹介されて古くから注目されていたが、全文が活字化されるのは今回初めてである。
兵法の権化、天皇の御治世を実現するに相違ない武将として『太平記』にさっそうと登場する正成は、すでに後醍醐天皇との間に何らかの関係を持っていた。『増鏡』巻十五「むら時雨」には、「笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、つは物ども参りつどふ中に、事のはじめより頼み思されたりし楠の木兵衛正成といふ物あり。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、をのが館のあたりをいかめしくしたゝめて、このをはします所、もし
幸いにも、この頃の正成に関する確実な史料がある。それは正慶元年(一三三二)六月日の日付のある、「
一、同国(和泉国)若松庄
内大臣僧正道祐 、競望 し申すに依 つて、去んぬる元徳三年二月十四日、不慮に綸旨 を下さるるの由、承り及ぶの間、已 に仏陀に施入 するの地、非分に御綺 の段、歎 き申すの処 、同廿五日、綸旨を寺家に成され了 んぬ。しかるに悪党楠兵衛尉、当所を押妨 するの由、風聞 の説に依つて、かの跡と称し、当国の守護御代官、去年九月の比 より、年貢以下を収納せしむるの条、不便 の次第なり。守護御代官、今に当知行 、当所領家、故親王家年貢三百石、領家一円の地なり、本家仁和寺勝功徳院
元徳二年(一三三〇)九月十七日に忽然と世を去つた内大臣僧正
若松荘を内大臣
この目録は、正慶元年六月に作成され、当時院政を執っていた持明院統の後伏見上皇に寺領
右の文書が後伏見上皇の許に提出されて半年後、潜伏していた正成は再び活動を始め、十二月には奇想天外な戦法によって、幕府方の湯浅
ここにもう一つ、正成の素顔を知る史料がある。先に引用した、前関白藤原道平の日記『道平日記』の正慶二年閏二月一日、すなわち、天王寺合戦の一か月と十日後の記事である。
一日乙丑 或人語云、近日有二和歌一くすの木のねはかまくらに成ものを枝をきりにと何の出るらん
六波羅探題館の門に楠木正成が幕府の御家人や北条得宗の被官だった可能性については、歴史家によって古くからいわれてきた。とくに網野善彦氏は一貫してそのことを主張し、戦前・戦後の正成の「虚像」から、もう自由になってよいころではないかと述べておられる。『吾妻鏡』建久六年(一一九五)十一月七日条に見える、武蔵国の御家人と推定される頼朝の随兵の一人「楠木四郎」は、確実な史料に登場する楠木氏の初見記事である。また、江戸時代に編輯されたとはいえ、おそらくは確実な資料に基づいていると推測される『高野春秋編年輯録』および林羅山の『鎌倉将軍家譜』の両書に見られる、正成が北条高時の命によって自分の根拠地である河内国金剛山の
『太平記』作者が、北条政権に対する後醍醐天皇の勝利を確信させる人物として形象したのがこの正成であり、正成形象化の中心を、作者は「不思議」という語によって捉えようとした。たとえば千早城合戦では、「大軍之近ヅク処、山勢是ガ為ニ動キ、時ノ声ノ震フ中、
なお、本書は水府明徳会彰考館蔵天正本『太平記』を底本としている。天正本は巻一の巻末に「于時天正廿暦終春第九天/書之畢」の奥書を有し、ほぼ全巻一筆の完本であり、広く知られている神田本から流布本に至る諸本群と対立する天正本系写本四本(他は龍谷大学本・義輝本・野尻本)の中の最善本である。流布本に対する天正本の主な異文は『参考太平記』の中で紹介されて古くから注目されていたが、全文が活字化されるのは今回初めてである。
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