正確な本文
第21巻 源氏物語(2)より
明治以来、『源氏物語』のテキストは、写真版で刊行された六~七種類を除いて、その他の三十種余は、すべて活字本で刊行されている。これらの活字本は、いずれも、写本または板本の『源氏物語』の本文を活字化したものであるが、どういう写本・板本の本文を採るかということは、活字化を担当する編者の責任でする仕事で、文献学的研究が重視されていなかった明治の前半期までは別として、今日では、この文献学による本文選択の作業を抜きにしてテキストを作ることは考えられないことになっている。
『源氏物語』五十四帖が、初めて活字本で刊行されたのは、「日本文学全書」の五冊本(明治二十三~二十四年)であろうと思う。その後、今日までに三十数種のテキストが刊行されている。初めのころは、底本には、『源氏物語湖月抄』(延宝三年〈一六七五〉刊)の本文を用いた。明治の末年になると、『首書源氏物語』(延宝元年刊)の本文を、「版本中の善本」と認めて、これを底本とした国民文庫の二冊本(明治四十二年八月)が刊行された。その後も、このいずれかを活字にすることが多く、その状態は、昭和三十年ごろまで続いたと思う。
この事態が変る機運を作ったのは、池田亀鑑博士が、大正末年以来の文献学的研究の成果である『校異源氏物語』(昭和十七年、後に『源氏物語大成』校異篇)という校本を土台として、この校本の底本として用いた大島本を中心の底本として、「日本古典全書」の中に、『源氏物語』七冊(昭和二十一~三十年)という手ごろのテキストを刊行したことにあったと思う。これが刊行されてからは、『湖月抄』や『首書源氏物語』は、三条西家本系統の本文で、青表紙本としては不純な本文であることも指摘されて、終戦後刊行された『源氏物語』のテキストは、十数種あるが、『首書源氏物語』や『尾州家河内本』の翻刻を除いては、ほとんどすべてが、伝定家筆青表紙本(四帖)、その模写本かと思われる明融本(九帖)、定家本の忠実な写本かといわれる大島本(五十二帖)のどれかを底本として、その他の諸本で校訂してテキストを作るようになった。
この『湖月抄』から『首書源氏物語』、定家本青表紙本系統へと翻刻の底本が推移したことは、テキストの編者の本文についての反省――「本文研究」の結果がもたらしたことであった。
「文学」「文芸」と言ったところで、形もないもので、捉えようもないが、それがわれわれの目の前に現れるときの生の姿は、まずは「文章」である。文章には、文芸的文章だけではなく、非文芸的文章――極端な例だが、金銭の領収証のごとき文章もある。これらの多くは、文字で表記されている。その文章を読み、解釈することが契機となって、その文章が文芸であるとか、証文であるとかが見えてくる。つまり、解釈とは、文章が表現している意味、文章の正体とでもいうものを探り出すことを担当する作業で、文芸研究では、この作業を「文芸学」と称していて、これが文芸研究の中核的作業だと見られているように思う。
この文章を解釈することは、研究ということの常として、「正確」であることが要求されている。その解釈の正確を期するためには、解釈のしかた、すなわち文芸学という方法を精密なものにすることが工夫されるのは当然のことだが、どれほどそこを精緻なものに仕上げてみても、解釈の対象である文章のほうが不正確では、正確な結果は出てこないだろう。そこで、解釈される文章が正しいかどうかを検討して、正確な文章にする作業が、古典研究の一分野として立てられて、これが「文献学」と呼ばれている。とすると、文芸学とは、文献学的操作のすんだ文章について解釈するのが順序で、文献学は文芸学の基礎研究であるといわれている。例えば、『源氏物語』などの古典を活字化するときに、活字化の事に当る編者が、どういう本文をテキストとして採るかを調査・研究することは、この文献学的作業の一つで、いわば、読者が『源氏物語』などの古典の文芸的意味を正確に解釈することができるようにするための基礎作業であるということにもなるだろう。
ところで、文献学は、古典の文章が正確であるか否かを検討し、正確な文章にする作業を担当すると言ったが、考えてみると、われわれの日常の経験としては、既に出来上っている文章、殊に他人が作った文章に手を入れて正しい文章にするという作業は、綴り方の添削ぐらいしかないように思う。これから文章を作ろうとするときには、正確な文章を書こうと心がけるが、逆に既にある他人の文章を云々すべきではないとさえ言われている。強いて、自他の文章に手を加える場合を探してみると、印刷の途中の「校正」がそれかと思う。
「校正」の「校」は「くらべる」という意味であろう。ゲラと称する活字組の文章を、「原稿」とひき比べて、ゲラの文章の誤脱を正すという作業である。この「校正」に際しては、「原稿」の文章が、ほとんど絶対的に正しい基準である。ということは、「原稿」の文章が、「原著者の文章」そのものだからであると思う。だから、校正の場合には、原稿の文章の誤字や語法その他の誤りは、原著者が訂正しない限りは、そのままにしておくことになる。例えば、「…するべからず」のごときは、時折見うける事例である。校正における正否のけじめは、原稿のまま、換言すれば、原著者の文章のままであるか否かで、語法や修辞の正否ではないのである。
文献学的作業の中に、「校合」「校訂」と称せられる作業がある。この「校」は「校正」のそれと同じであろう。「校合」とは、ある本を書写したとき、新写本の文章をもとの本(書本)の文章とつき合せて、新写本の写し誤りを書本のとおりに訂正する作業で、印刷の「校正」とよく似た作業である。「校訂」も「校合」によって、新写本の誤脱を訂正するという意味だろうが、新写本の文章を、他の複数の写本の文章と比べて訂正する場合をいうことがある。この「校正」の場合の「原稿」、「校合」「校訂」の場合の「書本」を、それぞれに絶対的基準にとるということは、作業の実際に即しての言い方で、その意味するところをつきつめてみると、いずれも、「原著者の文章」を基準にとるという考え方である。
われわれが、日常、「正確な文章」というときには、語法的にも正確であり、かつ古来の修辞法や文章法の慣行にも忠実であり、さらにいえば、きちんとした、しまりのある文章というほどの意味になるが、この「正確」と、「校正」「校合」「校訂」の作業にいう「正確」とは、その意味は大分違うというべきであろう。この「校合」「校訂」において、「原著者の文章」を基準として、そこに戻ることを目指している文献学的作業を、「原典の再建」と称していて、これが文献学の窮極の目標だと言われている。
印刷における「校正」の目標も、いわば「原典の再建」であるが、この場合は、再建すべき原典に相当する「原稿」が存在するから、この目標の達成は不可能なことではない。だが、古典の「校合」「校訂」の場合には、「書本」は現存するが、「原典」は現存しないのが普通のことなので、「原典の再建」ということは、目標として掲げることはできるが、実際の作業は、目標の正体を見定めきれないという非常に困難な事態にあり、ほとんど達成することは不可能であるとさえいわれている。
『源氏物語』でいえば、紫式部自筆の『源氏物語』が「正確な文章」の原典になるわけで、『源氏物語』の文献学は、この目標を目指して、鎌倉~室町末の間の約百二十部(五十四帖揃いの一部もあり、何帖かの欠本のある一部もあり、中には一帖で一部というものもある)の写本群の本文を資料として、努力してきたが、研究の実際は、諸伝本の本文の異同を一覧しうる「校本」が作られた段階で、足踏みをしている形である。
今日、百二十部ほどの伝本を、(1)青表紙本、(2)河内本、(3)別本と三分しているが、この中で、(2)河内本は、二十一部の本文の混合本文になるので、これを研究の基本文献に据えるわけにはゆかない。また、(3)別本は、玉石混淆で、原典の形を遺している伝本があるかもしれないが、今、それをこれと見分ける術はないので、これも研究の基本とはしがたい。それで、今日では、藤原定家という人物の古典についての造詣と書写事業の実績とに、何割かの可能性を托して、彼が家の証本として作った青表紙本を研究の基本に採用して、他の諸本を参照しつつ、原典の再建を試みているが、あまりにも道は遠く、目的地に辿りつきうるかどうかも今は判然としない。そこで、今日、『源氏物語』の文献学は、定家本青表紙、明融本、大島本などを拠りどころにして、中間的目標として、青表紙本五十四帖の再建を目標としているが、近年、定家本という系統は、青表紙本の一系統だけではなく、これとは別系統の本文があるようだということが明らかになってきたので、問題は一段と複雑になって、目下、次の方法を探っているところだというべきであるらしい。
戦後まもなく、石田穣二氏が、明融本の帚木・橋姫・浮舟を仔細に調査して、問題のある本文を掲出しては、綿密な論評を加えた。その論考三編は、『源氏物語論集』(桜楓社、昭和四十六年十一月)に収められている。それから二十年ほどして、吉岡曠氏が、明融本がある巻々を中心に本文の異同を数え上げ、明融本と他本との異同数の大小を手懸りとして、伝本間の系統的親疎関係を探り、また問題のある辞句を掲出して、その性質を精細に検討し論じており、定家本青表紙と異なる系統の青表紙本の存在の証明にも力をつくしている。この論考七編は、『源氏物語の本文批評』(笠間書院、平成六年六月)に収められている。
これで足れりとするわけにはゆくまいが、共に、不可能といわれた本文批判へのいわば果敢な挑戦である。今後も、当分この種の果敢にして、慎重な挑戦を続けることが必要なのであろうと思う。
第二巻には、9葵、10賢木、11花散里、12須磨、13明石、14澪標、、15蓬生、16関屋、17絵合、18松風、19薄雲、20朝顔の十二帖を収める。以下そのあらすじである。
朱雀帝が即位。右大臣、弘徽殿女御の一派が勢威を振るい、左大臣、源氏の派は逼塞していた。六条御息所は、新斎院の御禊の行列見物に来て、葵の上の供人にひどい目にあわされ、その怨がつのって物の怪となり、葵の上をとり殺した。源氏は、その喪が明けて二条院に戻った。紫の姫君と結婚した。〈葵〉
御息所は伊勢へ下向した。十月に桐壺院が崩御になった。源氏が藤壺の宮の寝所に近づくことがあった。東宮の後見としては、源氏を頼まねばならないが、油断していると近づいて来る。思い余って藤壺の宮は出家した。源氏は、尚侍と忍んで逢っていたが、ついに右大臣に発見された。〈賢木〉
源氏は、五月雨のころ、麗景殿女御を見舞った後、西の対に花散里を訪れた。〈花散里〉
源氏は、自ら京を離れ須磨に赴いた。堪えがたく寂しい日々を、都の人や御息所との文通で慰めていたが、翌年三月上巳の日、海辺で禊をしていると、にわかに大嵐になった。〈須磨〉
嵐が何日も続く。父桐壺院が源氏の夢枕に立って、この浦を去れと仰せになった。その夜明け、同じく夢告をうけた明石の入道の舟で、明石の浦の入道の館に移った。入道は、子孫に帝・后が生れるという夢を信じていて、この貴人源氏を娘のもとに通わせたいと思った。逢ってみると、この娘は、都の貴女に劣らぬ人柄であった。都には天変地異が続き、帝は源氏を召還する。上京した源氏は、権大納言に任ぜられた。〈明石〉
源氏帰京の翌年東宮が即位、源氏は内大臣、左大臣は太政大臣になった。明石には女児が誕生。源氏は、明石の君親子の上京を促し、紫の上にもこのことを打ち明けた。藤壺の宮は太上天皇に准ずる御封を賜った。藤中納言の娘が入内、弘徽殿女御という。源氏は住吉に御礼詣をした。そこへ明石の君も来あわせて、源氏の勢威に驚き、わが身の拙を嘆いた。御息所は帰京したが、姫宮を源氏に托して亡くなった。〈澪標〉
須磨謫居のころ、末摘花は困窮した。帰京してからも、源氏は思い出さなかったが、末摘花は辛抱強く待っていた。翌年の夏、邸のそばを通りかかって思い出し、末摘花と再会し、手厚く待遇した。〈蓬生〉
空蝉は、夫に伴って常陸国から上京した。逢坂の関まで来た時、石山詣の源氏の一行と出会った。源氏は、小君(右衛門佐)を呼び寄せて、空蝉にも便りをした。その後、空蝉は、夫に先立たれて出家した。〈関屋〉
六条御息所の姫宮は、入内して斎宮の女御という。絵が上手、帝も絵がお好き。これに対抗して、弘徽殿女御の父は、しきりに物語絵を作らせる。それを聞いて、源氏も物語絵などを斎宮の女御に奉る。そこで絵合をすることになり、まず藤壺の宮の御前で、次いで帝の御前で盛大に行われた。勝敗は互角であったが、最後に源氏の須磨の絵日記が出て、斎宮の女御方の勝ちとなった。〈絵合〉
明石の君親子は上京したが、大堰川の辺の邸に入った。源氏はそこを訪ねて、幼い姫君と逢った。〈松風〉
源氏は、姫君を紫の上の手もとで育てたいと言い出した。明石の君も決心して、姫君を譲り渡した。この年、天変地異が続き、太政大臣が薨去、藤壺の宮も重く患って、ついに崩御する。源氏は念誦堂に籠って、一日中泣き暮した。その四十九日が終ったころ、夜居の僧都が、帝に帝の実父は源氏の内大臣だと密奏した。帝は悩んだ末に、源氏に譲位しようとなさったが、源氏は固辞した。〈薄雲〉
朝顔の姫君が斎院を退いた。源氏は多年の思いを訴えるが、姫君はうけつけない。紫の上は、源氏のこの動きに心を痛めていた。源氏が、その紫の上をなだめようとして、昔今の女性の話をした夜、藤壺の宮が、夢の中で、罪障の故の苦しみを訴えた。せめてもの供養にと、諸寺で誦経をさせた。〈朝顔〉(阿部秋生)