謡は能の根幹である。それは能の詞章であり、一曲の筋道はこれによって述べられる。またそれは謡われるものであって、これによって
囃子とともに全体が音曲となり、所作を伴う歌舞劇である能の軸となっている。まず能及び本書における各曲の記し方に関して若干のことを述べ、次に謡について記すことにしよう。
能
能は六百年前から代々の役者によって演じ継がれてきた。現在、専門の役者たちによる舞台芸能として、すぐれた成果を見せていることは周知のとおりである。もとより、六百年の歳月の間に変遷があった。例えば、世阿弥の伝書『
習道書』には、「
鼓の役人」とはあるが、
大鼓と
小鼓との区別を示す記述はない。またワキの役はあったが、専業のワキ役者はまだ分立していなかった。現在、
太鼓は台に載せて床の上に置き、両手の
撥で打つが、その台は江戸初期の太鼓の役者金春又右衛門の考案したもので、当時、又右衛門台と呼ばれたという。それ以前、文献には示されてはいないが、打つ役者の前方に人が太鼓を持っていた時期があったと考えられる。また、今日では一曲を演ずるのに平均約一時間半を要するが、江戸初期には、一日十数番を演ずることも珍しいことではなかった。一曲の上演時間がかなり短かったのである。
江戸時代になって、能は、大和猿楽四座の流れである観世・宝生(
上掛)、金春・金剛(
下掛)の四座に、元和年間に一流となった喜多流(下掛)を加えたものが、徳川幕府の保護のもとで伝襲されるようになる。現在の能の基本はここに確立された。
各座はシテ方の家元(
大夫)を
座頭とし、シテ方(ツレ・地謡)・ワキ方・囃子方(笛・小鼓・大鼓・太鼓)・狂言方を座員とする。明暦三年(一六五七)にはそれぞれ大夫以下、観世座百三十一名、金春座八十三名、宝生座五十四名、金剛座四十八名、喜多十太夫座二十七名の、計三百四十三名
(『岩波講座能・狂言1能楽の歴史』による)、慶応二年(一八六六)には観世座七十名、金春座四十名、宝生座五十一名、金剛座三十六名、喜多流十名、別に新組十五名、
触流四名の、計二百二十六名
(池内信嘉『能楽盛衰記上』による)の人々が幕府直属の者として書き上げられている。慶応二年の場合、観世大夫は配当米二百五十六石・
扶持方二十人・拝領屋敷、金春大夫は
地方三百石・扶持方十八人・拝領屋敷の待遇を受け、小禄の者や、若干の
部屋住で
無足の者も含むが、これらの人々は幕府より俸禄を得ていた。このほかに、有力な諸大名に抱えられている役者も多かったから、かなりの数の人々が俸禄を得て能で生活していたことになる。
ワキ方以下にも複数の流儀が出来、例えばワキ方福王流家元は観世座、高安流家元は金剛座の、小鼓方幸流家元は金春座の、狂言方鷺流家元は観世座、大蔵流家元は金春座の、それぞれ
座付であった。座付が家元でない各座、また諸大名家には、分家・弟子家の者が所属し、彼らはおおむね家業を継承し、俸禄は主君より受け、芸の上では家元の統率下にある、という体制が江戸時代を通じて行なわれたのである。
明治維新となり、役者は俸禄を失った。廃業した者も多く、また流儀の断絶した場合もある。岩倉具視を中心とする新政府の保護や、皇室・旧公家・旧大名の支援、三井家など新興の財界人の援助があり、苦難の中で業を守り続けた人々によって能は存続した。それらのことについては、現在の隆盛までのことを含めて、ここでは省略する。
座の組織は名目の上でのことが多く、江戸時代においても座組み以外の配役がしばしば見られるが、明治維新となって名実ともに座は廃された。しかし、流儀は存続した。それで、例えば、ワキ方下掛宝生流が観世・金春などをシテとする能でもワキを演じ、狂言鷺流がずっと座付であった観世の能に狂言大蔵流がアイとして出演して、シテ方観世流、ワキ方下掛宝生流、狂言方大蔵流、というような組合せがごく普通のことになる。
各流儀は、それぞれ自らのものを伝承してきている。前記の場合、ワキは宝生座付であったが下掛系であり、狂言も下掛系であって、上掛のシテの観世流とは、細部において異なることがある。その際、直接関わりのない部分は自らの流儀の本文で演ずるが、例えば、「羽衣」の掛合いの謡
(三八四ページ)のように、シテ・ワキの謡う分担の異なる場合は、自流ではなく、シテ方観世流に従う。上掛と下掛とで異文の「
忠度」後場冒頭のワキ・ワキツレの〈上歌〉
(一五五ページ)などは、観世流の本文を自らの流儀の謡い方で謡うことが多い。また、「田村」のアイの〈語リ〉
(一二二ページ)は、下掛系のシテ方の本文に基づいている。観世流でシテが「賢心」「
行叡」というのを、「延鎮」「
行叡」と語っているのはそのためである。シテと直接関わりのある部分ではないが、このように目立つ箇所は、近時、観世流が相手の折にはその言い方に合わせるようになっている。
能の各役は、囃子方を含めて、自らの流儀の伝承を守って存続しているが、このように各役の組合せが多様になると、それぞれが本来の自流のままに演じたのでは合わない場合が生ずる。調整が必要であり、しばしば演ぜられる曲については、シテ方の流儀に応じて、ワキ以下各役はそれぞれ相互の調整を含めて、基本の演じ方が出来ている。
本書の底本はシテ方(主として観世流)の
謡本である。謡本については後述するが、これは謡のための本であり、厳密に言えば能のための本ではない。一例をあげれば、謡本にワキの部分があるけれども、能でワキを演ずるのはワキ方の役者であり、その詞章はシテ方の謡本と一致するとは限らない。またアイのせりふは謡ではないので、例外的な場合を除いて底本には記されていない。
底本にワキの詞章を若干補記し、アイの〈語リ〉やその前後のワキとの問答などを加えた本書は、能の台本の形を示している。しかし、前述のような調整をせず、ワキ方の詞章を底本の記すままとしたものであるから、個々の実演の能の台本ではない。上演される能は、各流儀の各役の組合せによって、それぞれその場で形成されるもので、本書に示したものは、そのための参考となるもの、という程度に理解していただきたいと思う。
謡
謡は能の根幹をなすものであるが、それとともに、謡だけが独立して謡われて来た歴史を持つ。すでに世阿弥の時代に座敷で謡が披露されたこともあり、また能の構成要素としてではなく、謡のためだけに作られた詞章もある。
室町末期ごろから、能を見るだけではなく、謡を自ら謡って楽しむ人々があらわれ、その
稽古のための謡の本が書写された。本の貸借が行なわれていたことが公家の日記などにみえる。文禄四年(一五九五)、関白豊臣秀次の命によって謡の最初の注釈書『
謡抄』の編集が始められた。僧侶たちや、公家の
山科言経、連歌師
里村紹巴などが共同で事に当たった。注釈とは文辞を問題にすることである。ここにおいて、謡は狭義の「文学」として扱われるようになったと言えるだろう。これは専門の役者以外の人々の間で謡が流行した結果によるものである。
やがて江戸時代になると、版本として謡本が刊行されるようになり、主として観世流のものであるが、さまざまな種類のものが出版された。謡を教えて生計を立てる師匠が生まれ、多くの人々が謡を
嗜むようになったからである。
江戸時代、能は原則として武家、また京都の公家のものであり、一般の庶民には縁の薄いものとなったが、謡は一般の人々に広く普及した。それは「教養」や「常識」となり、日常の会話などにも事柄や言葉が利用された。『源氏物語』や『平家物語』を読まなくても、その挿話は謡によって周知のものとなったし、時に応じて、「その時義経、すこしも騒がず」(「船弁慶」)が口をついて出る。
恋川春町の『
金々先生栄華夢』
(安永四年〈一七七五〉刊)は「
邯鄲」に基づくものであり、婚礼では「
四海波静かにて」と「高砂」の一節が謡われるのである。ちなみに、江戸時代の後期には、能の部分謡を集めた「
小謡」の本が数多く出版されている。
謡がこのように流行し、現在も数多くの愛好者がいるのはなぜか。その理由をいくつかあげてみよう。もとより謡って楽しめる音曲であるからだが、まず、これが比較的短い、しかもまとまった内容を持つ謡い物であるからだろう。能では一時間半以上を要する曲でも、謡では四十分
乃至一時間である。そして、そこにおいては、「
忠度」にしても「
野宮」にしても、一通りの内容が述べ尽くされている。
次に、謡は、開放された舞台と橋がかりとで演ぜられる能に対応するものだから、最初の登場人物は自らを名のる。場面も、またシテの心情も、謡で述べられる。すべての能がそうではないが、能は「物語」を舞台で演ずるという面を持つから、謡は「物語」を謡うのである。
第三に、その「物語」は主人公シテを中心に描かれる。シテは歴史上の著名人であったり、『源氏物語』の中の女性であったりする。自らが平の忠度や六条の御息所になった気持で謡うこともできるのである。『
吾輩は猫である』の
苦沙弥先生が後架の中で「これは平の宗盛」と繰り返し謡っていたのも、この場合は「
熊野」のワキの名のりだが、そのような気持であったのかもしれない。
ところで、謡は、もちろん専門の役者にとって大事なものである。シテ・ワキはすぐれた謡い手でなければならない。シテ方の担当する地謡は、しばしば、じっと着座しているままのシテの心境を代わりに謡ったりする。その巧拙は一曲の成果を左右すると言ってよい。一曲全部を謡う
素謡の上演もあり、
闌曲(蘭曲・乱曲)が独吟で披露されることもある。後者は、「
闌けたる音曲」であり、高い芸位と習熟した技巧とを必要とするものである。闌曲は番外曲の一部や、もともと謡い物であった曲が多い。
『
申楽談儀』
(『世子六十以後申楽談儀』。世阿弥の次男元能の聞書で、永享二年〈一四三〇〉成る)に以下のようなことが記されている。
「
東国下」「
西国下」の
曲舞の作者は将軍義満の側近にいた
玉林(琳阿弥)である。世阿弥が
元服前の藤若と言われていたころに、義満の前で「東国下り」を謡った折、作者を尋ねられて玉林と答えたところ、当時勘気を受けて東国に下っていた玉林は召し返された。「東国下り」「西国下り」の作曲者は、それぞれ
南阿弥陀仏、観阿弥である、と。なお、「東国下り」「西国下り」は各流に闌曲として伝存している。
また『申楽談儀』に「
砧」について、「静かなりし夜、砧の能の
節を聞きしに、かやうの能の味はひは、末の世に知る人あるまじければ、書き置くも物くさきよし、物語せられし也」「砧の能、後の世には知る人あるまじ、物憂き也、と云々」と、同趣旨のことながら二箇所に記されている。「砧の能の
節を聞きしに」とあり、「砧」の謡に重点の置かれていたことがわかる。
古典文学は書物によって伝えられてきた。それは時代によって興味を持つ点が異なっても、読み継がれてきた。顧みられない時期があったとしても、本として残っていれば、また読者を得て読み継がれてゆく。読者の享受の仕方は時代によって変化があり得るが、作品そのものは動かない。
能は古典芸能である。芸能は人々の支持を得られなくなれば廃絶する(廃絶したものが復活することはむずかしい)。能が今日まで存続し、古典芸能として存在しているのは、各時代の人々の好尚にかなってきたからである。伝承芸能は保守的な性格を持つけれども、それなりに時代に即応して変化する。それは観客の好尚の反映である。本書が現在の能の演出を略記したのは、もちろん昔の演出を明らかにし得ないためであるが、また、現在における作品の受容を示そうとしたからである。なお、「解説」は能について記した。(小山弘志)