古典への招待
作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。
能と謡
第58巻 謡曲集(1)より
能
能は六百年前から代々の役者によって演じ継がれてきた。現在、専門の役者たちによる舞台芸能として、すぐれた成果を見せていることは周知のとおりである。もとより、六百年の歳月の間に変遷があった。例えば、世阿弥の伝書『江戸時代になって、能は、大和猿楽四座の流れである観世・宝生(
各座はシテ方の家元(
ワキ方以下にも複数の流儀が出来、例えばワキ方福王流家元は観世座、高安流家元は金剛座の、小鼓方幸流家元は金春座の、狂言方鷺流家元は観世座、大蔵流家元は金春座の、それぞれ
明治維新となり、役者は俸禄を失った。廃業した者も多く、また流儀の断絶した場合もある。岩倉具視を中心とする新政府の保護や、皇室・旧公家・旧大名の支援、三井家など新興の財界人の援助があり、苦難の中で業を守り続けた人々によって能は存続した。それらのことについては、現在の隆盛までのことを含めて、ここでは省略する。
座の組織は名目の上でのことが多く、江戸時代においても座組み以外の配役がしばしば見られるが、明治維新となって名実ともに座は廃された。しかし、流儀は存続した。それで、例えば、ワキ方下掛宝生流が観世・金春などをシテとする能でもワキを演じ、狂言鷺流がずっと座付であった観世の能に狂言大蔵流がアイとして出演して、シテ方観世流、ワキ方下掛宝生流、狂言方大蔵流、というような組合せがごく普通のことになる。
各流儀は、それぞれ自らのものを伝承してきている。前記の場合、ワキは宝生座付であったが下掛系であり、狂言も下掛系であって、上掛のシテの観世流とは、細部において異なることがある。その際、直接関わりのない部分は自らの流儀の本文で演ずるが、例えば、「羽衣」の掛合いの謡(三八四ページ)のように、シテ・ワキの謡う分担の異なる場合は、自流ではなく、シテ方観世流に従う。上掛と下掛とで異文の「
能の各役は、囃子方を含めて、自らの流儀の伝承を守って存続しているが、このように各役の組合せが多様になると、それぞれが本来の自流のままに演じたのでは合わない場合が生ずる。調整が必要であり、しばしば演ぜられる曲については、シテ方の流儀に応じて、ワキ以下各役はそれぞれ相互の調整を含めて、基本の演じ方が出来ている。
本書の底本はシテ方(主として観世流)の
底本にワキの詞章を若干補記し、アイの〈語リ〉やその前後のワキとの問答などを加えた本書は、能の台本の形を示している。しかし、前述のような調整をせず、ワキ方の詞章を底本の記すままとしたものであるから、個々の実演の能の台本ではない。上演される能は、各流儀の各役の組合せによって、それぞれその場で形成されるもので、本書に示したものは、そのための参考となるもの、という程度に理解していただきたいと思う。
謡
謡は能の根幹をなすものであるが、それとともに、謡だけが独立して謡われて来た歴史を持つ。すでに世阿弥の時代に座敷で謡が披露されたこともあり、また能の構成要素としてではなく、謡のためだけに作られた詞章もある。室町末期ごろから、能を見るだけではなく、謡を自ら謡って楽しむ人々があらわれ、その
やがて江戸時代になると、版本として謡本が刊行されるようになり、主として観世流のものであるが、さまざまな種類のものが出版された。謡を教えて生計を立てる師匠が生まれ、多くの人々が謡を
江戸時代、能は原則として武家、また京都の公家のものであり、一般の庶民には縁の薄いものとなったが、謡は一般の人々に広く普及した。それは「教養」や「常識」となり、日常の会話などにも事柄や言葉が利用された。『源氏物語』や『平家物語』を読まなくても、その挿話は謡によって周知のものとなったし、時に応じて、「その時義経、すこしも騒がず」(「船弁慶」)が口をついて出る。
謡がこのように流行し、現在も数多くの愛好者がいるのはなぜか。その理由をいくつかあげてみよう。もとより謡って楽しめる音曲であるからだが、まず、これが比較的短い、しかもまとまった内容を持つ謡い物であるからだろう。能では一時間半以上を要する曲でも、謡では四十分
次に、謡は、開放された舞台と橋がかりとで演ぜられる能に対応するものだから、最初の登場人物は自らを名のる。場面も、またシテの心情も、謡で述べられる。すべての能がそうではないが、能は「物語」を舞台で演ずるという面を持つから、謡は「物語」を謡うのである。
第三に、その「物語」は主人公シテを中心に描かれる。シテは歴史上の著名人であったり、『源氏物語』の中の女性であったりする。自らが平の忠度や六条の御息所になった気持で謡うこともできるのである。『
ところで、謡は、もちろん専門の役者にとって大事なものである。シテ・ワキはすぐれた謡い手でなければならない。シテ方の担当する地謡は、しばしば、じっと着座しているままのシテの心境を代わりに謡ったりする。その巧拙は一曲の成果を左右すると言ってよい。一曲全部を謡う
『
「
また『申楽談儀』に「
古典文学は書物によって伝えられてきた。それは時代によって興味を持つ点が異なっても、読み継がれてきた。顧みられない時期があったとしても、本として残っていれば、また読者を得て読み継がれてゆく。読者の享受の仕方は時代によって変化があり得るが、作品そのものは動かない。
能は古典芸能である。芸能は人々の支持を得られなくなれば廃絶する(廃絶したものが復活することはむずかしい)。能が今日まで存続し、古典芸能として存在しているのは、各時代の人々の好尚にかなってきたからである。伝承芸能は保守的な性格を持つけれども、それなりに時代に即応して変化する。それは観客の好尚の反映である。本書が現在の能の演出を略記したのは、もちろん昔の演出を明らかにし得ないためであるが、また、現在における作品の受容を示そうとしたからである。なお、「解説」は能について記した。(小山弘志)
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