古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

その後の美少年

第85巻 近世説美少年録(3)より
 本作の刊行された部分は第六十回までであって、その後の部分はついに陽の目を見なかった。見られるように、第六版の奧付には第七版、第六十一回より第六十五回までの刊行予告が載っているから、馬琴としては続く分を執筆し、やがては完結に漕ぎつける予定でいたのである。しかし、第六版が刊行されたのは、弘化五年(嘉永元年)、馬琴が八十二歳の正月のことであって、この年の十一月六日には馬琴は亡くなっており、余命いくばくもなかった。そのうえ、このころの馬琴は失明していて、嫁のお路という代筆者がいたとはいえ、文章を綴る量は、さすがに減じていた。そのためもあってか、晩年の書簡や日記は、残っているものが却って少なく、本冊所収の分の『玉石童子訓』の執筆・出版の経緯を窺うことのできる資料は、ほとんど見られない。そのため、本作の第六十一回以降は、実際には執筆されなかったのだ、と思いこまれていた。ところが、最近、神田の古書店から第七版巻之壱の稿本が出現して、早稲田大学図書館の購入するところとなった。勿論、馬琴の筆跡ではないが、『八犬伝』のお路代書の稿本と比較してみて、お路の代書によると見てよい。文体、用字法、前部の話との接続が密であること、から見て、馬琴の稿本といって差しつかえない。その本文の翻字は、いずれ世に公にされることがあろうから、ここでは概要の紹介をしておくことにする。
 半紙本型の表紙には「曲亭主人口授編/一陽齋豊国画/新局玉石童子訓
第七版
巻之壱
/文渓堂寿梓」とある。本文は全十八丁あって、その内に挿絵の下絵が二図収まる。内題には「新局玉石童子訓巻之三十一 東都 曲亭主人口授編次」とあり、章題は「第六十一回 猴子こうし(サルガシコキヲノコ)ことばはみたくみ宿六やどろくく 駄馬だば(イナカムマ)あんくるふ一婦人いつふじんすくふ」という。(五、七、八ページ上写真/早稲田大学図書館所蔵)
 その冒頭は、本冊の六六四・五ページに書いてあることとほぼ同様であって、第四十四回、吾足齋延明ごそくさいえんめいの家に潜入した朱之介あけのすけが、涸れ井戸から出て、峯張通能みねはりみちよしの手裏剣を避けつつ家を脱出し、円通河原に来て自分の菅笠すげがさと荷物を取り出し、第六十回末、三池村の宿六やどろくの家に赴くまでの話を要約する。馬琴の読本に常套的に見られる、以降のストーリーを展開するために押えておくべき梗概を要約整理する、という筆法である。
 次に本話に入って、朱之介は三池村の宿六・お可加かか夫婦の家にたどり着き、珍客をもてなすため、お可加は酒を買いに行く、その間に朱之介は宿六に対して、佐々木高頼の御前での試合の敗北(第四十二回)については自らの非を飾った上で、多賀典膳たがてんぜんに召し抱えられる望みがある、と語る。また、延明から枸神くじんの価一百金を得るためには、多賀典膳や役人たちに賄賂をやって訴えを聞いてもらうこと、そうすれば十分に勝訴しよう、と説いて、金十両を無心する。宿六は、朱之介が御前試合で面目を失い、多賀典膳にも憎まれていること、堺での黄金との密通の風聞などをすべて知っていたので、朱之介を信用しない。しかし彼は枸神の売り渡しの保証人となっている((2)五四三ページ)ことで朱之介に難癖をつけられ、閉口して金一両を朱之介に与える。その後に村長の使いが来て、宿六は観音寺の城内に呼び出される。昨夜の一件(吾足齋の殺害)の事と察知した朱之介は、宿六の所から馬を奪い、南へと向かう、と話が展開される。そして、その終わりは、
却説かくてまた朱之介は、宿六が背門せどなる馬を、竊得ぬすみえつ、うち乗て、くこと約莫およそ二三里なるべし、忽地立鳥たちまちたつとり羽音はをとおどろき、乗たる馬の狂ひめぐりて、山又山に分入わけいりつつ、あんに一婦人を救ふの一段あり、をしもここに説まく思へど楮数涯ちやうすうかぎりあるをもて、尽しがたき処あり。なほ巻をめあらたて、かつ下回しものめぐり解分ときわくるを聴ねかし。
と結ばれていて、章題と併せて考えると、馬が暴走したために深山に分け入った朱之介がはからずも婦人を救う、と構想されていることが知られるのである。その構想は、第二十回、朱之介が山猱やまおとこにさらわれた斧柄おのえを救出する話を想起させて、それと「照対」をなす話なのではないか、と思わしめるのである。
 とはいっても、これ以降の草稿の存在は知られていないのであるから、大長編作家の馬琴がその後どのように本作を終らせるつもりであったのかは、漠として知られない。しかし、馬琴が、大内義隆よしたか陶晴賢すえはるかた弑殺しいさつされる史実に取材して、史実の空隙を虚構をもって埋める、という方法を用いたことは、第一冊の解説に述べた通りであるし、史実を取り込む際には『応仁後記』や『続応仁後記』に大きく依拠していることも、注のそちこちで指摘した通りであるから、大内義隆弑殺の一件を扱うとすれば、『続応仁後記』巻六「防州山口乱事」の記載にもとづくつもりであったろうことは、かなり高い確率をもって予測できることであろう。そこで、本作の結末を予想したい読者に参考資料を提供すべく、その一節を次に引いておこう。
天文五年(一五三六)丙申二月廿六日、今上 (筆者注、御奈良天皇) 御即位の料を調進して皇門の忠を勤ける故、執奏に因て、同六月、中納言兼秀卿を勅使に下され、(大内)義隆、在国の身ながら、従二位兵部卿大宰大弐に任ぜらる。先祖未聞の出身、寔以まことにもつて希代の朝恩なる者也。義隆が実家は、日野西中納言兼顕卿の息女也しが、死去有て、後に又、万里小路中納言賢房卿の息女を嫁娶す。是はかたじけなくも今の女御中宮の御妹也。義隆日々富貴栄耀に相誇て、常に公家高官の交りを好める故歟、多年の兵乱に京都の住居ならざりける公家の面々数輩、山口の城下に落来て身を寄せ、居住の人多し。其此、山口の繁昌、昔の京都鎌倉に不劣富饒也。然処、大内家重代の家老陶入道全薑と云者、謀叛を企、今年九月二日、多勢を率して俄に山口の城を攻落し、城中城外を悉く焼払ひ、死亡する者、幾等と云数を不知。義隆は城を去て、長州深川の大寧寺迄落来しに、遁れ難ふして、終に此寺にて自害す。生年四十五歳、最愛の一子、八歳に成けるも、同じく斯にて生害す。此兵乱の災に遭て、其此山口に寓居有ける二条関白尹房公・転法輪左大臣公頼公・藤三位親世卿・藤中将良豊朝臣、各々生害有られける。持明院中納言基規入道一忍軒は、妻子僮僕を連れて、難なく山口をば落行給けれ共、船に乗て帰京の時、片田の海と云浦にて、海賊の為に殺され給ふ。此外、公家・堂上の人々、此乱に遭て命を落す者惟多し。寔に近年兵乱は不珍事なれ共、皆人、此山口の乱を大乱とす。陶入道全薑と云者は、去る永正の乱に、洛西船岡山合戦の時、大内故左京太夫義興が執事たりし陶三河守興房が子也。父興房病死して、今の全薑家督を継ぎ、尾張守隆房とて、若年より大内家の執事と成り、父に不劣武功の者也。此比このころは剃髪して全薑禅門と云ふ。忽主君を弑する程の悪逆の男なる故、大内家の領国を悉く押領しけるに、其此又安芸国住人に毛利備中守元就と云者有り。先祖は前代鎌倉の執事因幡前司広元の後胤也と云ふ。此元就、元来智勇抜群の者也しが、芸州多智見の庄に於て纔三百貫の領主なりしに、近年切り誇て多勢の将と成り、代々大内家へ随身して、義隆の恩顧を蒙る。元就、此好みを不変ぜして、義兵を起して全薑が罪を唱へ、陶一党を伐んと議す。数年を経て後、全薑も元就を退治の為に軍を起して、芸州へ発向す。終に当国厳島に於て合戦を遂げ、元就打勝て敵徒数多討捕り、悪逆の張本人陶入道全薑、同其子阿波守晴豊父子二人の首を刎て、逆徒退治の本意を遂たり。是より元就義戦の名を天下に揚げ、武威を山陽山陰の二道に振ふ。皆人靡き従て国郡数多領しけり。
 これを読んで、賢明な読者は、日野西中納言兼顕卿や万里小路中納言賢房卿、それに陶興房らの人名が本作にも登場してくることにお気づきであろうが、このように右の資料に依拠している以上は、すえ朱之介がいずれは陶入道全薑になり、大江杜四郎おおえもりしろうが毛利元就となって、厳島において対決することとなる、というのが馬琴の最終的な構想であったろう、と推察されるのである。そして、第一冊八六・八七ページの陽鳥と陰蛇の戦いの話が予告しているように、蛇の申し子である悪少年朱之介・黄金夫妻と鷲津爪作わしづつまさく日高景市ひだかかげいちは、美鳥に象徴される善少年の大江杜四郎・峯張通能みねはりみちよし長橋倭太郎ながはしわたろう象船算弥きさふねさんや韓錦樅二郎からにしきもみじろう奈良桜八重作ならざくらやえさく和田正義わだまさよしたちと戦って、敗れるのであろう、とも予測されるのである。ただし、朱之介たちや杜四郎たちが周防山口に集まるまで、否、集まった後にも様々の話が積みかさねられて、小説はあと十冊二十回分ほどは続けられる予定であったのだろうが、天は馬琴がいくら強健であったにしても、八十三年以上の寿命は与えなかったのである。
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