古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

戯作の流れ

第80巻 酒落本・滑稽本・人情本より
戯  作
戯作とは、基本的には文学を慰みの具と考えるところから生れた言葉である。武士階級の学問であった儒学は、経世済民の学としての経学と、経学に携る者の身につけるべき漢詩文の学=文学の二つを内包しているが、享保年間(一七一六~三六)に入って、経学と文学の分裂が起り、経学を離れてもっぱら漢詩文の世界に遊ぶ漢学者が輩出した。すべて閉塞した封建社会のせいであるが、この間の社会事情については本全集七九巻『黄表紙・川柳・狂歌』の巻頭で、棚橋正博が触れるところがある。参照されたい。宝暦・明和(一七五一~七二)の時代になると、それらの漢学者、文人、知識人の中から、固定した身分や地位を離れて、精神的に庶民階層に接近し、より卑俗な世界を、彼らの持つ漢学の教養を駆使して描く知識人たちが現れた。現実の社会ではその教養を正当に評価されないと知った知識人たちが、一時の消閑の具として執筆し、自らを満足せしめようとしたものであり、それ故にその作品を戯作、戯述、戯書と呼んだものである。それらの作品は、享保の改革政治を推進した将軍吉宗が寛延四年(一七五一)に死去したことで、次々と出版されることになり、ジャンルを形成する。遊里に取材することが多い故に文学史的には洒落本に包括されるが、その内容、作者の態度等は、わずか一部ではあるが本書に収められた『跖婦人伝せきふじんでん』から推察することが出来よう。
 また宝暦初年ごろから、庶民教化の意図のもとに、談義僧の口調を真似た滑稽な行文で、ようやく爛熟に向おうとする江戸の世相を暴露するような作品も現れてき、なかにはその型式で色道談義、粋談義を内容とするものも出て来た。談義本と呼ばれるものであり、その内容によって初期洒落本、初期滑稽本に包括される。
洒 落 本
文学史の展開からいえば、洒落本は上方の浮世草子を継ぐ遊里文学である。ただ閉塞した社会制度のもと、浮世草子の作者たちは遊里の現実に正面から立ち向う意欲を失い、作品は完全にマンネリ化してしまう。そのような傾向の中で、知識人たちがその教養を生かして、古典や故事を下敷に、パロディ(もじり)や見立、比喩のおかしさなどで新しい遊里文学を樹立したのが初期洒落本である。教養を下敷にした戯作であるが、そこから脱却して遊里風俗小説としての洒落本の型式・内容を決定づけ、洒落本を江戸の地に定着させたのが明和七年(一七七〇)刊の『遊子方言ゆうしほうげん』であった。
 吉原を舞台とし、純真な息子株むすこかぶと知ったかぶりをする半可通はんかつうを登場せしめ、両者の出会いから吉原までの道筋、吉原での遊興、翌朝帰途につくまでを描いたものであるが、時と場所の移動によって筋の展開を図るという構成、人物の性格設定、会話を主とした文章で言語、動作、風俗を写実的に描くなど、飛躍的な進展を示した作品であった。以後、主流を占める遊里短編小説としての洒落本は、すべて『遊子方言』のスタイルを踏襲する。それは、一定の遊里を舞台に、通人(作品によっては純真な息子株)と野暮(作品によっては粗野な地方侍、または半可通)とを登場せしめ、一昼夜という限られた時間内での遊興を描くもので、上方の遊里小説にくらべて、極めて矮小わいしような文学といわざるを得ない。その理由は、『遊子方言』の後版本にこれを「通書の始まり」と書肆しよしの広告にいうとおり、作者が「通」という視点から遊里を、人物を描いたからである。 「通」とは上方のすいに相当するもので、より知的な要素が強く、遊里の諸事情に通じ、人情の機微をわきまえ、らわれない態度で人に対することをいう。この態度を身につけた人が通人であり、この境地に至りえないで表面的な知識だけを身につけている者が半可通である。知識さえも欠けていて、粗暴で性欲的な男が野暮といわれるのであり、「通」とは要するにこの時代の江戸の人間の遊興の理念にほかならない。洒落本は「通書」と呼ばれながら、しかし通人の遊びでなく半可通の滑稽さや愚かさが中心に描かれている。それは黄表紙が社会のさまざまな事象を取りあげながら、それを正面から描かず、夢の出来事とし、未来記の形をとり、歴史的事実に附会して現実を暴露しているのと同じである。現実を正面から取りあげるのでなく、一ひねりひねって描いてゆくというのが、戯作の発想だったのである。 『遊子方言』以後、多くの作者が吉原や深川以下の岡場所を取りあげて次々に作品を発表する。作者は武家出身の知識人や黄表紙作者や狂歌師たちであり、大田南畝おおたなんぽや田にし金魚、蓬莱山人帰橋ほうらいさんじんききようなどの特色ある作者が出るが、天明五年(一七八五)、町人作者山東京伝さんとうきようでんが現れ洒落本は全盛期を迎える。京伝は、吉原の代表的妓楼松葉屋内部の情景と遊びを描いた代表作『通言総籬つうげんそうまがき』(天明七年)や、吉原と対比して深川・品川の遊里の人情を描いた『古契三娼こけいさんしよう』など、精緻細密を極めた写実的技法を極度にまで発揮し、特殊な社会ゆえに激しく変化する流行の相をいち早くあばき出すうがちという姿勢も極度に押し進められた傑作を発表する。遊里に耽溺たんできし、生涯に迎えた妻二人とも遊女であった京伝は、遊里を愛して、その作風は温かい人間性に裏づけられ、鋭い観察は客と遊女を的確に描き、その描写は心理描写の域に達したと評される寛政二年(一七九〇)刊『繁 千話しげしげちわ』や『傾城買けいせいかい四十八手』のような作品も発表した。
 天明末から寛政初年、洒落本は寛政改革によって存在が危うくなる。寛政三年刊の京伝の三作品『錦之裏にしきのうら』『娼妓絹籭しようぎきぬぶるい』『仕懸文庫しかけぶんこ』の三作品は、時代を過去に取り、演劇の人物や筋を利用し、遊女の真情を強調して教訓読本と銘打って出版するなどして当局の取締りを逃れようとするが、結局は作者京伝と版元の処罰、作品の絶版処分を受けている。洒落本は一時潰滅状態となってしまった。
 改革のほとぼりもさめた寛政の半ばごろから、洒落本はまた出版されるようになるが、出版取締り令が撤廃されたものではなかった。当局の目を意識して、刊行年・版元の名を明らかにしない、いわば秘密出版という形でおおやけにされる作品が多くなり、形式の面だけでなく、内容も客と遊女の真情を中心に描くものが多くなった。特殊な社会としての遊里の枠の中ではあるが、遊びでない男女の真情(恋愛)を描こうというのであるから、遊里人種の言語・風俗などの細密な描写は必要でなくなり、うがちの手法も廃れてしまう。甘美な恋愛の情調が作品の中心となり、不変的な人情を描くのだという主張が洒落本作者たちの間で行われるようになる。そのような傾向を代表する作者が梅暮里谷峨うめぼりこくがであり、代表作『傾城買二筋道けいせいかいふたすじみち』(寛政十年刊)は「夏の床」「冬の床」の二部から構成されるものの、客と遊女の真情を主題に据えた「冬の床」は、過去を説明し、未来に筆を進めて長編化し、後編『くるわの癖』(寛政十一年‐一七九九‐刊)、三編『宵の程』に至って完結する。一昼夜の遊興を時間的展開に従って描くという、『遊子方言』以来の洒落本本来の構成は完全に崩れてしまう。人情を強く主張するために筋の複雑化を招来したためであり、義理と人情の衝突を強調して、遊里小説の枠からもはみ出すことにもなったのであり、やがて人情本を産み出してゆくことにもなった。
滑 稽 本
洒落本の崩壊を決定づけたものは、享和二年(一八〇二)の出版取締りであった(本書「滑稽本」解説参照)。駿府与力の子で、青春の一時期を大坂で過した十返舎一九いつくは、安永・天明期の江戸の戯作とは無縁であった。生活のために、寛政改革後登場した大衆読者のために、通の意識などどこにもない、野卑な笑いを振りまく洒落本を享和元・二年に量産していたが、出版取締りを受けて方向を転換する。たまたま享和二年に刊行した『浮世道中膝栗毛』が好評であったため、翌享和三年より後編、三編と毎年続編を出版し、『東海道中膝栗毛』と改題した正編が終ると、讃岐の金比羅から安芸の宮島、さらに木曾街道から中仙道などに主人公を旅させる『続膝栗毛』を発表し、二十余年にわたって刊行される大長編となった。一方、取締りのために、文化三年(一八〇七)に洒落本の処女作『辰巳婦言たつみふげん』の後編『船頭深話せんどうしんわ』を出版した式亭三馬さんばも、一九の『道中膝栗毛』の成功に刺戟されることもあって、文化三年に滑稽本『酩酊気質なまえいかたぎ』『戯場粋言幕之外げじようすいげんまくのそと』を発表し、やはり滑稽本に転じてゆく。
 一九や三馬の滑稽本には説話のスタイルも物語の構成もない。『道中膝栗毛』は主人公が旅をすることで場面が変化し、主人公の厚顔無恥な会話と行動が笑いを生んでゆくだけであり、三馬の『浮世風呂』や『浮世床』が、洒落本から受けついだ写実の技法に、浮世師や咄家の話芸を導入して、極度にまで精緻細密な写生の技法を完成させたとしても、結局は平面描写に終っているものであった。遊里という特殊な社会のうがちを離れて、庶民の日常生活の中に埋没する作者の姿勢から生れる笑いは、虚無的な笑いを生むだけだった。
 一九・三馬以後の滑稽本は、すべてが二人の亜流作品ばかりで、新しい発展は全く見られない。滝亭鯉丈りゆうていりじようの『花暦八笑人はなごよみはつしようじん』(初編文政三年‐一八二〇‐刊)や『和合人』(初編文政六年)などは、生業ももたないのらくら者の遊民たちが、刺戟を求めてことさらにつくり出す遊戯生活を、茶番狂言の趣向によりかかって描くだけで、低俗なくすぐり、わざとらしい笑い以外のものではなかった。
 なお滑稽本とは近代の呼称で、この時代は人情本とともに、その書型から中本ちゆうほん中形読本とちゆうがたよみほんか呼ばれていたことを付記しておく。
人 情 本
寛政改革以後、『傾城買二筋道』に代表される末期洒落本は、くるわの掟の中で結ばれた客と遊女の真情を描いた感傷的な内容から、文化ごろから俗に「泣本なきほん」とも呼ばれていた。おなじころ、寛政改革の影響を受けて、山東京伝や曲亭馬琴きよくていばきんらの伝奇的・浪漫的作風の江戸読本よみほんもようやく隆盛におもむいていた。その中に中本型の書型で、世話物風の内容で低い読者層をねらうものがあった。中本型読本と呼ばれるもので、これと末期洒落本とが握手したところに人情本が成立するのである。
 十返舎一九は、書肆の依頼で、素人作者の手になる貸本屋用の読み物「江戸紫」を、出版するために形式を整えて『清談峯初花せいだんみねのはつはな』(初編文政二年‐一八一九‐、後編同四年刊)として出版した。人情本の最初とされるものである。純情な青年男女の恋を描くこの作品が好評を得たことで、当時青林堂という小さな書肆の主人越前屋長次郎が、二世南杣笑楚満人なんせんしようそまひとの作者名で、新内の『明烏夢泡雪あけがらすゆめのあわゆき』の後日譚としての『明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ』(初編文政四年刊)を出版した。その序文に「ノ新奇妄誕ヲ載セズシテ、人情世態ヲツクス」(原漢文)というように、『清談峯初花』とともに、いちおう人情世態をとらえているが、なお読本的な勧徴意識から脱せず、写実的な作品として徹底していない。しかし、『道中膝栗毛』の成功によって大衆の読者の好むところを充分につかんだ一九、貸本をも扱うことで同じく大衆の好尚をつかんでいた楚満人によって、大衆とりわけて婦女子を対象とする作品が誕生したわけである。
 二世南杣笑楚満人は文政末年為永春水ためながしゆんすいと改名するが、文政年間に書肆の主人という立場を利用し、戯作者志望の文学青年、狂言作者を集め、門人・友人として彼らに代作させた作品を発表して文壇に地歩を占めてゆく。しかし文政末年、火災で青林堂を失い、門人、代作者が離れてゆく事態を招くが、このときに苦労して独自の作品を生み出した。天保三(一八三二)、四年に刊行された『春色梅児誉美しゆんしよくうめごよみ』がそれであり、好評をもって読者に迎えられ、春水は「東都人情本作者の元祖」と名のり、それまで滑稽本とともに中本、中形読本、中型絵入読本とか、洒落本の名残で泣本と呼ばれていたこの戯作の一ジャンルが、その内容からはじめて人情本と呼ばれるようになるのである。 『春色梅児誉美』は丹次郎という不運な美男子をめぐって、許婚いいなずけの娘と二人の女芸者が、丹次郎に誠実な愛情を注ぎつくして、最後は丹次郎を世に出してめでたく結ばれるというもので、なお丹次郎に関連のある何組かの男女の恋模様をからませ、人情を描こうとするのである。一人の男性をめぐって何人かの女性と、それに関係のある幾組かの男女の恋を、並行的に、あるいは交錯させて描くのが、『春色梅児誉美』で確立した春水の作風である。いくつもの恋を描いてゆくところから、『春色梅児誉美』は連鎖的に続編を派生させ、『春色辰巳園たつみのその』(天保四~六年刊)、『春色恵の花めぐみ  はな』(天保七年刊)、『春色英対暖語えいたいだんご』(天保九年刊)、『春色梅美婦禰うめみぶね』(天保十二年刊)など、すべて二十編六十冊で完結するわけである。当然複雑な構想をもつが、構成はむしろ散漫である。教養の低い婦女子を読者とするために、春水自身が天保三年刊の『応喜名具舎おきなぐさ』初編の序文で、「新玉あらたまの、其春毎そのはるごとに成人の娘御方ごがたるものなれば、入組いりくむ筋は好もしからず」というように、複雑な構想に伴う人物関係は作者自身の説明や作中人物の会話を通して読者に判らせるというもので、男女の甘美な恋情や痴話口説の場面描写の繰り返しが読者を引きつけた。構成を無視した主情的写実主義ともいうべきこの作風から、『春色辰巳之園』以下の「梅暦」シリーズその他の春水人情本は、ほとんど門人の名で代作者がからんでいるし、『春色梅児誉美』以外の春水の単独作は『春告鳥はるつげどり』(天保七~八年刊)前半のみとされるのである。
 人情本の全盛期は天保年間であるが、春水のほかに『仮名文章娘節用かなまじりむすめせつよう』(天保二~五年刊)の曲山人きよくさんじんや、はじめ春水の門人の位置にあった松亭金水しようていきんすいなどがいたが、かつての洒落本同様天保改革によって弾圧され、春水自身も憂悶のうちに死去するのである。(神保五彌)
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