鎌倉初期に書かれた評論『
無名草子』にみられる『源氏物語』論の冒頭には次のように述べられている。
さても、この『源氏』作り出でたることこそ、思へど思へど、この世一つならずめづらかにおぼほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりける験にやとこそおぼゆれ。それより後の物語は、思へばいとやすかりぬべきものなり。かれを才覚にて作らむに、『源氏』にまさりたらむことを作り出だす人もありなむ。わづかに『宇津保』『竹取』『住吉』などばかりを物語とて見けむ心地に、さばかりに作り出でけむ、凡夫のしわざともおぼえぬことなり。
これは『源氏物語』の成立期から二世紀後の評言だが、作者紫式部の同時代の読者にとっても同様に実感されたに違いない。『紫式部日記』によれば、一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませ、これを聞いて「この人(紫式部)は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに
才あるべし」との感想を洩したとあるが、天皇が『源氏』から『日本紀』―官撰国史を連想して作者の才質を称揚したというのはただごとではあるまい。
いったい、『源氏』の出現をもって前世の因縁、仏の利益によるもので人間わざとは考えられないという前記の『無名草子』の評言は、先行の物語類とは比較を絶した『源氏』の、ほとんど奇跡的ともいうべき達成への驚きの表白であったといえよう。先行の物語類といえば『無名草子』にあげられた『竹取物語』『宇津保物語』のほか『落窪物語』(『住吉物語』は
散佚。現在の『住吉』は後の改作)、それに歌物語といわれる『伊勢物語』『平中物語』『大和物語』などを数えることができるが、しかし、それら現存する作品によって物語の一般を理解してはなるまい。その頃の物語の実態を伝えるものとしてよく引用されるのは、源
為憲によって編まれた『
三宝絵』(永観二年〈九八四〉成立)の序文のなかの文章である。
物語といひて、女の御心をやるものなり、大荒木の森の草よりも繁く、荒磯海の浜の真砂よりも多かれど、木草山川鳥獣魚虫など名づけたるは、もの言はぬ物にものを言はせ、情けなき物に情けをつけたれば、ただ海の浮木の浮べたることをのみ言ひ流し、沢の真菰の誠なる言葉をば結びおかずして、『伊賀のたをめ』『土佐のおとど』『今めきの中将』『ながゐの侍従』などいへるは、男女などに寄せつつ花や蝶やと言へば、罪の根、言の林に露の御心もとどまらじ。
はなはだ装飾過多の文章だが、物語史についての貴重な証言というべきである。当時、物語はいわば
氾濫状態を呈していたことになるが、それらは動植物や自然物などを擬人化したものと、たあいないきれいごとの恋愛ものとに大別されている。ここで後者に属するものとして名のあげられている四編を含めて、『源氏』以前の二十数編の物語名が諸書によって知られているが、それらとて全体からすればごく一部にすぎないということになるであろう。してみれば、『竹取物語』ほかの現存する物語作品は
散佚した多数の物語類からすれば特異の傑出した創作であり、さればこそ重んぜられ読み継がれて今日に伝存されることにもなったと考えられる。
それはともあれ、注意すべきは前記のように物語について「女の御心をやるものなり」と説かれていることである。いったい『三宝絵』という書は、薄幸の境涯にあった
冷泉天皇皇女
尊子内親王のために、心の拠りどころたるべく制作された仏教読本であり(従って「女の
御心」「露の
御心も」など敬語が用いられている)、当然、仏教の立場からするいわゆる狂言綺語観から、物語を
貶めているが、そうしたこの書の成立事情や目的はともかくとして、物語が女性の消閑の具として作られ読まれるものであったことが知られよう。『枕草子』にも「つれづれ慰むもの
碁・
双六・物語」とあるほか、この種の証言例は少なくない。
モノガタリという語が、書かれた作品にのみ限られるのではなく、親しい者同士の心ゆるした歓談、家庭内のとりとめない雑談や世間話、昔話など、あるいは男女の
閨の
睦言、さては乳幼児の意味をなさぬ発声などをもいうことが諸書によって知られるが、表向きの用談、事務的な談合などについてはモノガタリの語の用いられないことからしても、物語文学のいかなる位相のものであるかがおのずから明らかであろう。
総じて物語は、漢詩文や和歌などを正統とする文学観の
俎上にはのぼせられない、童幼婦女子用のいわば戯作であり、当初は男性の手による余技であっただろうが、しかしながら官人として公的な社会生活を営む男性と違って、家族、親族など局限された範囲を日常の生活圏としていた一般の貴族女性にとって、物語は経験外の世界へと想像を押しひろげる
究竟のよすがであったといえよう。彼女たちは物語となじむことによって夢を育て、感性や思考を培ったが、じつはそのことによって、翻ってわが身の上のありように対する目と心とを開かせられることにもなったのである。
道綱母によって書かれた『
蜻蛉日記』は、藤原氏の摂関体制を確立した藤原兼家との苦渋に満ちた二十年余の夫婦生活を克明に語るものであり、いわゆる女流日記文学の金字塔というべきだが、その序文は、まず「かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世に
経る人ありけり」と三人称をもって書き起され、次いで、人並の容姿にも恵まれず、まともな思慮分別があるでもなく、こうして役立たずの日々であるのも仕方がないことながら、と述べて、
ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ……
と続けられている。「世に多かるそらごとだにあり」は、下の「めづらしきさまにもありなむ」と呼応するのであり「めづらしき…」の上に「まして」の語を補い読むべき文勢である。すなわち、たくさんの物語の内容のありふれた作り話ですら、それが心やりのよすがなのだから、なおさらのこと、そうした作りごとならぬわが境涯の真実を日記として書いたなら、これまでになく目新しい作品となるだろう、というのである。「物語」にことさら「古」の語を
冠せ、それに「書き日記」することを対置させていることに注意したい。物語の世界を享受する姿勢から反転して、わがかけがえのない経験を書き
紡ぐ日記文学の道を
拓く呼吸を読み取ることができるが、そのことはいいかえれば、一人の女性の身の上に即して、物語が新しい地平を拓いたことにもなるだろう。日記文学をもって日記物語と称すべきであるとする見解が提唱されたのも、いかにもとうなずかれる。物語文学史は『蜻蛉日記』の成立によって、人間の真実を個の内側から照らし出す方法を獲得したことになるが、以後女性が物語の創作者になって感性をみがき意識を深めていく動向のうえに『源氏物語』の成立もありえたのであった。
『源氏物語』が紫式部によって書かれることになった経緯は必ずしも明らかではない。その成立の事情についてさまざま推定されるにしても、『無名草子』の作者と同様に、それを奇跡的と見るほかないくらいに『源氏』の達成は無類であった。並はずれた才質に恵まれた作者の知性と想像力、そしてそうした作者を生んだ一条朝の文化的基盤について、いまさらに驚嘆するほかないのである。それまでの物語の作者が不明であるということは、それらが当時の観念としては歴とした著作に値するものではない営みであったからだが、しかしながら『源氏物語』に関しては、人々を
瞠目させた創作であるゆえに、作者紫式部の文名は隠れようもなく注目されたといえよう。彼女が藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子付の女房として起用されたのも『源氏物語』の作者としての文才を高く買われてのことだっただろう。
本巻におさめるのは、『源氏物語』五十四帖のうち最初の、1
桐壺、2
帚木、3
空蝉、4
夕顔、5
若紫、6
末摘花、7
紅葉賀、8
花宴の八帖である。以下、そのあらすじを述べる。
さる
帝の治世、故大納言の娘、桐壺更衣は帝の格別の
寵愛を得て、この世ならぬ美貌と才質に恵まれた第二皇子を産んだが、そのために、すでに第一皇子(
朱雀院)の母となっていた右大臣の娘
弘徽殿女御をはじめ他の女御・
更衣たちの憎悪・嫉妬が集中し、心労のはてに病死した。帝は、成長するにつれてますます神才を発揮するこの第二皇子を
皇嗣にと念願したが、しかしその将来が
危惧されるので、臣籍に降して源氏の姓を賜り(以下「源氏」と称す)、左大臣の娘
葵の上と結婚させた。葵の上の母は帝の妹宮であったから、この結婚によって帝との身内関係をいっそう強めた左大臣家の権勢は、対立する右大臣家を制圧することになった。
葵の上を妻とした源氏は強力な後見を得たものの、しかしながらその胸中には亡き母に代って父帝の後宮に迎えられた先帝の内親王
藤壺の宮への一途の慕情が育てられていた。〈桐壺〉
十七歳の夏、長雨の夜、源氏は宮中の
宿直所で左大臣の嫡男
頭中将や
左馬頭、
藤式部丞らの語り合うさまざまの女性論に心をそそられたが、翌日たまたま
方違に宿を借りた
紀伊守の邸で、守の老父
伊予介の若い後妻空蝉とかりそめの契りを結んだ。しかし空蝉は
受領の妻として身分の定まった境遇への自覚から、二度と源氏の求めに応じようとはしなかった。〈帚木・空蝉〉
同じ頃、源氏は
乳母が病臥する五条の邸を訪れた折、隣家の垣根に咲く夕顔の花を所望したことが機縁となって、その家に住む女(夕顔)と結ばれることになった。互いに身分を明かさぬまま交情が深められたが、女は、源氏によって連れ出された
某院で
物の
怪に襲われ命を落した。夕顔は頭中将との間に女子(
玉鬘)をもうけていた忍びの愛人なのであった。〈夕顔〉
翌年、源氏は
瘧病の加療のまじないに北山を訪れ、僧坊の垣根越しに清純無垢の少女の姿を見いだした。その少女が
藤壺の宮に生き写しであったのは、藤壺の兄
兵部卿宮の娘だからであった。その頃、源氏は藤壺の宮に迫って思いをとげ、そのために宮は
妊っていた。あるまじき罪への怖れから、宮への接近を断念しなければならなかった源氏は、その
形代として、この少女を盗み取り、自邸に迎え入れた。少女は源氏に養育され、やがては彼の最愛の妻として重んぜられる紫の上である。〈若紫〉
源氏が、故
常陸宮の忘れ形見、
末摘花の姫君とかかわりあったのもその頃である。源氏は某院で不慮の死をとげた夕顔を哀慕し、彼女と愛を深めたような経験が再び得られぬものかという願いから、零落して孤独なこの高貴な女性に思いを寄せたのだが、念願かなって
逢瀬をとげたものの、彼女はその容姿も人柄もまったく期待に反するものであった。しかしながら、自分以外にこのような女性を顧みる誰がいるか、この結縁は姫君の身の上を案じる故父宮の霊のみちびきであろう、見捨てることはすまいと思い至る源氏であった。〈末摘花〉
朱雀院への行幸のための
試楽に
青海波を舞う源氏の晴姿に衆人みな感動した。人知れぬ複雑な思いに感極まる藤壺は、年が明けて源氏に生き写しの男子(
冷泉院)を出産した。表向きはわが皇子を得た帝の喜びが格別であるにつけても、源氏と藤壺はそれぞれに罪の恐ろしさにおののくほかない。帝はこの冷泉院を東宮に立てるべく、藤壺を立后させ、
弘徽殿腹の東宮朱雀院への譲位を決意した。〈紅葉賀〉
源氏は、二十歳の年の二月下旬、
南殿の桜の宴の夜、右大臣の六の君、
朧月夜と、その人の素姓を知らぬまま契りを結び、三月下旬に、右大臣家の藤花の宴に招かれて彼女と再会した。朧月夜は朱雀院の後宮への
入内が予定されていた姫君であるから、源氏は右大臣家の意図を挫折させたことになり、またこの仲らいは後の源氏の失脚、流離の遠因をなすものであった。〈花宴〉
以上、本巻におさめる八帖には、主人公源氏が、父帝の
庇護のもとに多感な青春の日々を悩み多く
彷徨する姿が語られている。(秋山 虔)