古典への招待

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浮世草子の一ピーク趣向主義の時代

第65巻 浮世草子集より
浮世草子
浮世草子とは、井原西鶴の『好色一代男』(天和二年〈一六八二〉刊)以後、天明(一七八一~八九)初めまでの百年間、京都・大坂を中心に、若干の江戸の作をも加え刊行された、その当時の風俗描写を基調とする小説群を指す名称である。
 この名称は、これらの小説が現役であった当時を通じて必ずしも一般的ではなく、西鶴当時には仮名草子などといわれ、その好色物については好色本・色草紙などと呼ばれた。この好色本の称は、小説以外の遊女評判記、色道指南書から閨房の技巧や性に関する知識などいろいろの本をも包含し、意識して小説の特称として立てたものではなかった。浮世草子の称が現れるのは元禄(一六八八~一七〇四)末より宝永(一七〇四~一一)のころからであり、当初は浮世は当世のほかに享楽的・好色的な意味を含み、浮世草子の称は好色本と同様に用いられ、浮世本の称もあったといわれている。しかし正徳(一七一一~一六)ころになると、好色本の重点は西川祐信にしかわすけのぶの画く春画を売り物にした本に移り、浮世草子の称は必ずしも以前の好色本と同意ではないようになって来る。
 一方西鶴の作でいえば雑話物・武家物・町人物といわれるような作品は、正徳ごろには読本よみほんといわれたり、当時の出版書の本屋向けの目録である書籍目録しよじやくもくろくには、仮名とか草紙とか後には風流読本というように分類する。それが末期のころになると、京都の八文字屋刊の小説、即ち八文字屋本の気質かたぎもの・時代物と呼ばれるような作品も加え、好色物も区別せぬ称として浮世草子と呼ばれる場合があるようになり、江戸時代後期には、回顧的な視点からこの称が用いられる。明治に入って二十年代より文学史が書かれるようになって、浮世の語を当世の意に重点をおいて、現在と同じような範囲の作を呼ぶ術語として、浮世草子の称を用いるようになったのである。
好色本全盛
近世の小説の流れをたどる時、西鶴の『好色一代男』の出現はまさに突然変異とも見える衝撃的な事件であった。その衝撃の大きさゆえに小説界の風は改まり、西鶴の成功は京都・大坂や江戸の本屋に小説出版の意欲を起させ、動員された作者はまず西鶴にならうことを要求されたし、作者自身も西鶴をしのぐ才も力もないとそれをがえんじなければならなかった。その第一の目標とされたのはいつの世にも変らぬ、性に関心を集める好色物であった。
 西鶴は元禄六年(一六九三)に没するが、西沢一風にしざわいつぷう(寛文五年〈一六六五〉~享保十六年〈一七三一〉)の『
御前義経記ごぜんぎけいき(元禄十三年刊)の序章には、「好色本世々にひろく、難波津にては西鶴一代男より書染かきそめ」といい、みやこにしき(延宝三年〈一六七五〉~?)は『元禄大平記』(同十五年刊)一の二に、「此の道の作者西鶴といふ男出生して」「色道のよしあしを、ことごとくおしはかり」、諸方のくるわの遊び、あらゆる客と、遊女は下級の者の身の上まで、西鶴の筆先にかからぬものはなく、「まことに西鶴こそわけのひじりなりける。西鶴なくなりてぬれの文とゞまれり」などという。わけひじりとは遊里の万般の事情に通じたすいの第一人者、ぬれの文、即ち好色本において及ぶ者なしというので、好色物の流行はまず西鶴にはじまるという認識があったのであり、その流れの好色本流行の様子を伝えて、同じく『元禄大平記』には、「当世はたゞかたい書物をとり置いて、あきなひの勝手には、好色本か重宝記の類がましぢや」とか、「時うつり事さり、古板尽き新板おこる中にも、永う流行はやるは好色本なり」の言がある。その作者としてまず動員されたのは、舎衣軒明昏しやいけんめいこんの『好色十二人男』(元禄八年刊)序に、「予が俳の師難波俳林なにははいりん西鶴法師は、……法師の口拍子を、ところまだらに述べたれば」というように、文を綴るに適当の者と目をつけられた俳諧師・雑俳ざつぱい点者であり、好色物短編集として出されたものが多い。
 西鶴の作品の群を抜いた面白さは、歯切れがよくリズム感のある文章、人情の機微をついた描写や警句、話の運びのうまさ、結末の落ちのつけ方の巧みさというような点にあろう。その西鶴の新しさ・面白さは、そのまま亜流の者には小説執筆の手本であり、作法であった。しかし西鶴の初期の作品『好色一代男』『好色二代男』などは、遊里の遊女と客の交渉を描いて、一つの遊びの美学、意気と意地と真実をうたって遊びの世界を称揚する、あるいは肩入れをする志のようなものを感じるのであるが、後期のものになると、『色里三所みところ世帯せたい(元禄元年〈一六八八〉刊)の、浮世のほか右衛もんが京・大坂・江戸に世帯を構え、多くの女と肉体の極限まで交わり、最後は女たちの執心に悩まされて悶死するとか、『浮世栄花一代男』(同六年刊)の、姿を隠す花笠を業平なりひらの神に授けられた隠れ笠の忍之介しのびのすけが、閨房を窃視してまわるとか、趣向の面白さによりかかった低俗作があり、『三所世帯』には、一物で障子を破ったり三貫五百文のぜにを保持したり、春画を見たりする挿絵もある。業平が庶民の女や遊女相手に恋の失敗を重ねるという『真実伊勢物語』(元禄三年刊)は序に「西くはく」とあり、今日では西鶴の盛名をった偽作といわれるが、当時は西鶴の作とされていたと思われる。そういう上下の幅のある諸作が追随・模倣されたのである。問題は西鶴の枠内に跼蹐きよくせきして彼等自身の主張を持たず、実感・体験による肉付け、発展が行われなかったこと、西鶴の作品には生きていた観察・描写は、人の心をとらえるもの、うまい表現のものほど、類型化されることが多かったこと、観念的な操作によって話を作り、現実との乖離かいり、奇を求めての虚構に走ったこと、西鶴晩年の風を免罪符に猥雑に陥ったことというような点にあろう。
 そんな中で注目すべきは、雑俳の点者であった雲風子林鴻うんぷうしりんこう(?~?)の『好色産毛うぶげ(元禄九年以前刊)と、俳諧師であったらしいが正体がなお明らかでない夜食やしよく時分じぶんの『好色万金丹まんきんたん』で、前者は庶民の好色を皮肉な目で描き、後者はうまく落ちに運ぶのに誇張・虚構をもつてする、『二代男』に倣いながら狙いは異なるものになっており、達者な技巧を賞すべき作であろう。
 しかし例えば、如酔じよすい作の好色短編集『忘花わすればな(元禄九年刊)二の一は、子種のない金持のめかけになった女が主人のちようを独占しようとして、手代を誘惑して子供を産み主人の種と偽り、他の妾を排除してしまう。主人の死後は子供を跡取とし、自分は後家を立てる貞女、手代は忠実に主家を守ると見せて内実は夫婦であるという話である。これは西鶴の『本朝桜陰比事ほんちようおういんひじ』二の七の、一旦主家を離れた女が旧主人の死に際し、その子であると称して実は手代との間の子を主家の跡取にすることに成功したが、夫婦しかわからぬ機微を知る後家の策により看破される話によるのであるが、『忘花』の方は女の動機を貧しい母に孝行を尽すためとし、孝行で智恵が深いゆえに果報を得たと書いて、その背徳を指弾することがない。西鶴にからめ取られながら何とか目新しさを出そうとして、奇を弄して健康さを失うのである。
 作者未詳の『好色とし男』(元禄八年刊)は、京都の五条天神に祈り、丸薬と腰巻を授かって女性の外貌を得た男が、それで油断をさせて女を犯してまわるという作である。『浮世栄花一代男』の実行版となるのである。この風は江戸にも及び、桃林堂蝶麿とうりんどうちようまろの『好色赤烏帽子あかえぼし(同八年刊)は、瘡毒そうどくの為に性的不能者となった男が、業平天神に祈り赤烏帽子を授けられ、覗き見をしてまわると、これも『栄花一代男』による。『好色一代男』前後にも春画本や、小説と色道指南書との境界に位置するものに春画入りがあったのであるが、蝶麿の作など、男女交合の場の挿絵を入れたり、挿絵がそうでなくても本文はベットシーンの繰返しというものがある。好色本全盛はマンネリズムと背中合せであったのである。
趣向主義
この小説界の流れに新風を出そうという意欲を持って立ちむかったのが、まず西沢一風にしざわいつぷうである。彼は大坂で絵入えいりきようげんぼん(歌舞伎の上演狂言の筋書に舞台面の挿絵を入れた薄冊)・浄瑠璃本・歌謡集などを出版していた正本屋しようほんや九左衛門で、世間の動向に敏感であったのであろう。浮世草子の処女作は元禄十一年(一六九八)に出した『新色五巻書しんしきごかんしよ』であるが、その題名は西鶴の『好色五人女』を意識してのもので、この作も最近実際にあった五つの愛欲事件を扱うものであった。しかしこの作は、当時歌舞伎で実際にあった心中・殺人・姦通などの事件を間をおかずに取上げ、事実そのままを舞台で演じることをうたい文句にした世話物狂言が流行した機運に乗じたもので、『五人女』の甘美さがなく、刺激の強いどぎついものになっている。このように歌舞伎色の導入という従前の好色物とは異なった点から出発している。
 続いて出したのが『
御前義経記ごぜんぎけいき(元禄十三年刊)で、その序章に、「好色本世々にひろく、難波津にては西鶴一代男より書染め、去年清月の比、新色五巻書迄の色草紙指をるにいとまなし。今此の義経記には其のもれたるをひろひ、……其の替りたる耳学文みみがくもんして、愚かなる智恵をふるうて書きあつめたるもしほ草」という。ここにも西鶴よりの飛躍を意識していることがうかがえよう。この作は源九郎義経の当世版、元九郎今義げんくろういまよしが母常盤ときわと妹を尋ねて諸国の色里を遍歴するというのが、全編を統括する趣向となっている。諸国遊里遍歴にも『好色一代男』前半部の世之介の遍歴の影があるが、各章は『義経記』や義経に関係のある謡曲・舞曲・古浄瑠璃などに付会された話になっており、人気歌舞伎・流行芸能・遊里新風俗などが書きこまれている。この全編を統括する大枠に工夫を凝らすのも趣向、各章の先行作の利用、筋の運び・落ちなどに新味を出そうとするのも趣向と当時は呼んでいたが、義経は、近世にあっては悲劇の英雄としてよりは好色・美男の遊冶郎ゆうやろうとして、浄瑠璃や歌舞伎に登場するようになる。例えば歌舞伎では元禄十年に大坂で『義経一代記』が上演され、京都にまで流行したという。今様の義経――今義を登場させるのはそういう流行に乗じるのである。個々の章にも、浄瑠璃『本海道虎石とらがいし』(元禄十二年上演)、歌舞伎『けいせい浅間嶽あさまがだけ』(同十一年上演)『けいせいほとけの原』(同十二年上演)などが趣向源となったり、詞章・せりふを利用したりする。また座敷浄瑠璃・座敷歌舞伎・講談などの芸能を書きこんだりしている。一風の場合は、流行演劇・芸能を軸に浮世草子に新風を出そうと試みているのである。表面的な新しさと思われるものではあるけれど、この試みが好評を得るのである。
 これに対し元禄十四年に、京都の八文字屋から江島其磧きせき作の『けいせいいろ三味じやみせん』が出る。西鶴作品の書型の半分の横長の本で、五巻を京・江戸・大坂・ひなみなと之巻に分け、各巻頭には京は島原、江戸は吉原、大坂は新町などの廓の女郎の名を、抱え主別に太夫たゆう天神てんじんなどの位を明記した名簿――名寄なよせを掲げる。書型・地域別・名寄などは二年前に其磧が執筆して好評であった役者評判記の体裁を移すのである。そして京之巻本文冒頭に出る傾城買けいせいかい心玉こころだまが次々と人の心を乱し、女郎買に溺れさせるという全編を統括する趣向を構え、各章は廓遊びに関する短編になっている。其磧の場合は西鶴の影響が著しく、模倣・剽窃ひようせつが各章に見られるが、もとの話を意外な展開をさせて変った結末をつける、もとの二つの話をないまぜにして別趣の展開をはかる、もとの二つの話をつないで複雑な筋を設けるというような操作をするというのが趣向なのである。そこには不自然・不合理も生じるのであるが、できるだけ不自然を糊塗ことする為に冗長になったり、説明的になったりすることがあり、西鶴を利用していっそうの面白さを狙って誇張に陥ることもあるが、筋の曲折が納得できて面白い。そこに出てくる女郎や遊客の行動を律したり、批判する根拠は西鶴の作にあり、廓のモラルを説いては類型的であるが、常識的で読者に安心感を与える。そして名寄と関係なく本文に出る女郎は架空の存在であるが、役者評判記の名寄との類推もあって、名寄には現実感を与える効用が考えられる。そこに読者に趣向の妙を感じさせるものがあったのである。
 この両者は、それまでの好色物の作者が俳諧師であったのと違って、演劇に関係し、その愛好者であった。西鶴から離れる踏台になったのはこの演劇であった。その新しさは、一風は演劇色の導入、徹底した古典への付会と流行芸能の書きこみ、其磧は役者評判記の体裁を移入しての名寄の掲出、地域別の巻分けによる整斉と、西鶴を利用しながら別趣を出した話の感覚といったものであろう。名寄の効用は現在の我々には理解しにくい点があるが、『色三味線』がずっと後年に刷り出された時にも、つまり現実の名簿としては何ら役に立たぬものになってからも除去されることはない。後年まで毎年役者評判記が出されていたので、それとの連想で現実感を与えるものとしての効があったのであろう。時代は趣向を立て、その計画に沿って整備された構成、そういうものに力を致すのを良しとする時期へと転回することになったのである。そして実感は流行芸、歌舞伎や名寄や、そういうものが担うことになった。作品を評価する尺度がこの時期には趣向というものになったのである。技巧面では、些細・末梢にこだわる点があるけれども、一歩を進めたといえるであろう。
趣向争い
この両者の作は人気を得て、今度はこの両者が浮世草子作者の目標になる。古典や演劇色を取りこむ、題名に「風流」「御前」を冠する。あるいは書型を横本にし、地域を分けて巻を編成する、題名に「けいせい(契情・傾城)」を含むものを付けるといった作が続出するのである。その中で既に『好色万金丹』の作のあった夜食やしよく時分じぶんは、前作と同様な執筆態度を保つ『好色敗毒散はいどくさん(元禄十六年刊)を出し、意想外の筋の展開、落ちの面白さに冴えを示し、西鶴没後の好色本全盛期の最後を飾るが、例えば末章の「千秋楽」など、筋の曲折と人情味を加え、『色三味線』の影響をそこに見るべきかもしれぬ。
 その後一風は『女大名丹前能たんぜんのう(元禄十五年刊)に、老浪人が業平の絵姿に祈って若返り、妨碍ぼうがいを退け娘との恋を成就する話を各章謡曲に付会し、『風流今平家いまへいけ(同十六年刊)は『平家物語』を町人の世界に転じる。『傾城武道桜ぶどうざくら(宝永二年〈一七〇五〉刊)は赤穂浪士の事件を遊女のことに書きかえ、『伊達髪たてがみ五人男』(同三年刊)は元禄末に処刑された大坂の無頼漢グループ雁金かりがね五人男を扱う。『風流三国志』(同五年刊)は宝永初年に実際にあった遊女今川をめぐるトラブルに、中国通俗軍談書『通俗三国志』の付会を行うというように、古典に付会し、実際事件を興味本位に脚色したりする路線を進む。五人男や今川をめぐるトラブルは、浄瑠璃や歌舞伎にも取上げられており、演劇への目配りもあい変らずである。
 一方其磧の方は、『けいせい色三味線』の当初計画は『御前義経記』刊行以前に立てられ、三都の島原・吉原・新町に限り色道論を展開するものであったのであるが、『御前義経記』の刊行に先んじられ、ひなみなと之巻を立てるようになったのは、『御前義経記』の諸国色里遍歴の影響が考えられる。其磧はその色道論を『色三味線』にまとめられなかったことにこだわり、曾我そが兄弟と虎・少将に託して色道論をまとめようとして予告した。ここにも『御前義経記』に倣う姿勢を見る。しかしその計画はまとまらず、『風流曲三味線きよくじやみせん(宝永三年刊)を出す。この作は男色・女色の優劣論を導入部に、女色・男色に関する中編と、宝永二年五月にあった大坂の富豪淀屋辰五郎よどやたつごろうが財産没収の処分を受けた事件を脚色した長編から成るが、登場人物の名前・性格・容姿などを現役の役者を匂わせて書くとか、実際事件の当込あてこみをするとかするのも、一風を追うのである。
 其磧はこの作を早くより予告し構想を練っているうちに、男色・女色あらゆる売色の風を集成した「諸色大全」としてまとめる計画を持つようになる。『曲三味線』では結局実現できなかったのであるが、それが実現したのが『傾城禁短気きんたんき(正徳元年〈一七一一〉刊)である。
『禁短気』は色道練達の者の談義・説法の体裁を取り、初めの二巻は女色・男色の優劣論を宗義論争に擬し、以下白人はくじんその外の私娼の諸相、吉原・新町・島原の遊びを説法・談義の体をとって描く。好色の相をその対極にある宗論・談義の体で語る奇抜さと叙述の巧みさ、整斉の構成で群を抜き、西鶴以後の好色物第一の作、趣向中心の時期の頂点に位置する作といえよう。
 其磧の好色物については、こおりやま藩(奈良県郡山市)の重臣で多芸の文人である柳里りゆうりきよう(柳沢淇園きえん――宝永元年〈一七〇四〉~宝暦八年〈一七五八〉)など、西鶴に劣らぬ、あるいはそれ以上との評価を与えている。
 其磧はこの作を計画して、多くの資料・題材の収集に努めたと思われるが、野郎遊びについては『禁短気』一・二之巻に、私娼については三之巻に用いるけれど、そこに使用しきれぬものについて、先んじて『野白内やはくないしようかがみ(宝永七年刊)として出した。この作は西鶴のころにはなかった白人はくじんの風と、西鶴が肯定面を主として描いた男色を、否定面からも描いた異色のもので、全編を統括するぜに占いの趣向も面白い注目すべき作である。
 一風は宝永期には京都に進出し、菊屋七郎兵衛から作を刊行させる。はからずも作者は其磧・一風、版元としては八文字屋と菊屋の競争という形勢になる。そして一風は横本の書型を採用、前述の『風流三国志』には『伽羅きやら三味線』を予告し、其磧の三味線題の作を追う姿勢が見られる。一方『三国志』には、女主人公の今川と講談者の平治とが女色・男色の論争を行うが、今川の平治に対する反論は「野傾禁談義」の貼紙はりがみの下で行われる。『傾城禁短気』の趣向を先取りしたものといえよう。しかし『禁短気』が予告から刊行までの間に日を食っていると、『三国志』は先んじて改題して『けいせい禁談義』(宝永七年刊)として出される。『傾城伽羅三味線』も同時に出される。そして同じ年に出た『寛闊かんかつ平家物語』には、八文字屋当左衛門とうざえもんと八文字屋八左衛門の名をかすめたような架空の名が版元として記される。掲げた予告などから見て菊屋七郎兵衛である可能性があり、匿名の作者は一風である可能性が高い。このようになると其磧が一風を追っていた形勢は逆転して、一風側に焦りが見られるようである。『禁短気』の刊行はこの競争に終止符を打ち、其磧・八文字屋側の勝利に帰するのである。
 これは結局一風が『御前義経記』で成功した、古典に付会し演劇に頼り、実際事件を当込むという路線から飛躍しきれずにいたこと、構成の緻密ちみつさ、筋の運びの巧みさという点で其磧の敵ではなかったことによる。其磧も演劇に頼り、実際事件を当込むが、何より全編を統括する趣向に次々と珍奇さを出し、構成の緻密、筋の運びの巧みさは抜群であったのである。それは内面の深化を伴うものではなく、西鶴の再構成という面も目立つのではあるが、『禁短気』はこの時期の浮世草子の趣向主義の行き方の頂点に立つ作であったのである。
 なお元禄末から宝永期には多くの作者がいた。都の錦、雑俳点者で浄瑠璃作者のにしき文流ぶんりゆう(?~?)、西鶴の俳諧の弟子の北条団水だんすい(寛文三年〈一六六三〉~正徳元年〈一七一一〉)、俳諧師の青木鷺水ろすい(万治元年〈一六五八〉~享保十八年〈一七三三〉)、同じく俳諧師の月尋堂げつじんどう(?~正徳五年〈一七一五〉)などである。一風の古典付会と都の錦の衒学的な古典利用が刺激となって、日本や中国の説話集などに材を探り求めた雑話物系の短編集を出しているほかに、巷説や実際事件を脚色したり、好色物系の短編集を書いたりしている。月尋堂は筋の立て方に不自然なところが見える場合もあるが、珍奇・皮肉な味の作がある。これらの作者も京坂を離れたり、死没したり、いろんな事情でやはり宝永末ごろに浮世草子から離れる者が多いが、この時期に彼等が発掘した話が、意外に後世の小説や講談などに生かされていて、其磧の技巧の充実と一風以下の活躍で、宝永期は浮世草子の流れの上で注目すべき時期となっているのである。
緊張が生む新趣向
其磧と八文字屋が覇権を握って安泰になったかと思うと、今度は其磧と八文字屋の間で利益配分をめぐる争いが起る。其磧の方は息子の名で江島屋という本屋を開き自作をそこから出し、八文字屋の方も代作者を立て、それぞれ協力する本屋もあった。この間に其磧は町人物の作を書きはじめ、歌舞伎・浄瑠璃により構想を立てた時代物に、長編の構成に手腕を示し、気質かたぎものといわれる『世間子息むすこ気質かたぎ(正徳五年刊)、『世間娘気質』(享保二年刊)などを出したが、八文字屋では代作者を用意するのに苦労し、其磧側は資力に限界があり、享保三年末に和解に至るのである。この時期の其磧の作には抗争の緊張が生んだ見るべきものがあり、時代物は長編の構成に進歩を示し、気質物は小説の構成法に新しい道を開いたものとして、後年にまで影響を及ぼしている。
『浮世親仁形気おやじかたぎ(享保五年刊)は和解後の作であるが、なお緊張の余波の残る時期のもので、気質物の中でも技巧的に見るべきものがある。またこの時以後、歌舞伎・浄瑠璃により構想を立てた時代物の作が多くなるが、はじめは二、三の歌舞伎などにより複雑な構成をとる力作もあるが、享保後半期になると、人気のある浄瑠璃により、同一の、あるいは類似の題名を付けて、見せ場を押えながら別趣を出すというような安易な方法にたよる作に重点が移る。宝永から抗争期の享保初めまでが、技巧面に偏ったとはいえるが、八文字屋本の――ひいては浮世草子の、西鶴以後の一頂点を作る時期であるのである。
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