古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

実名の人物から修飾型命名へ
――『落窪物語』と『堤中納言物語』の間――

第17巻 落窪物語/堤中納言物語より
作中人物の呼び名――落窪物語の場合
『落窪物語』の女主人公を、読者は「落窪の君」と呼びならわしている。継子ままこの彼女を「落窪の君」と呼ぶことは、この物語に登場する継母も公認しているのだから、これは根拠のある呼称である。
「落窪の君」の父親は「源忠頼ただより」という立派な名前を持っているし、その息子たちも「太郎景純かげずみ」「次郎景政かげまさ」と名のっている。だが、名前があるにもかかわらず、忠頼は物語の冒頭で「中納言なる人」と官職名で紹介され、「忠頼」という実名は巻之一、巻之二には出てこない。巻三に至って、はじめて彼の実名が「忠頼」であることを読者は知る。実名「忠頼」が記されるこの物語場面は、本人が発言の中で自分の実名を自称として使っている例である。そして、これ以外に「忠頼」の名が作中に現れることはない。息子「景純」「景政」の実名も、巻四の会話のことばの中で、自称あるいは、相手が彼を呼ぶ場合に使われるだけである。
「落窪の君」を逆境から救出する男主人公「道頼みちより」は、太政大臣の息子だから、これは藤原氏という扱いである。彼も、はじめて巻一に登場する時は官職名で紹介される。「左大将」の息子の「右近の少将」とあるから、彼の父親の実名も不明である。「道頼」という実名は、巻三で彼が「忠頼」と会話を交す場面に出る。これも本人が自分の実名を自称として使う発言の中で使われている。
 道頼の腹心の部下には、道頼の乳母めのとの息子「惟成これなり」がいる。これも巻一で最初に紹介される時は「小帯刀こたちはき」と官職名に準ずる呼び方、その後はもっぱら「帯刀」と呼ばれるが、実名「惟成」は巻一から出てくるから、「忠頼」「道頼」の実名の出現よりはずっと早い。これも対話の中で道頼が彼を実名で呼ぶ例である。その後、母と喧嘩けんか口論をする時などに、彼は自分の実名「惟成」を自称に使っている。
 これは物語で交される会話表現が、実社会の会話ルールを忠実に再現しているからであろう。『枕草子』の「文ことばなめき人こそ」で始まる段は言語論だが、清少納言はその中で、《殿上人などの事を話題にする場合、男性の「名のる」名(実名)を女房があけすけと口にするのは、いけません。「御前よりほかにては」(すなわちみかどや高貴な女性の御前以外の場所では)、官名だけで呼ぶのがエチケットだ》などと自説を開陳している。裏をかえすと、実名を自称に使えば、へりくだった物いいになるし、相手を実名で呼ぶのは失礼になる、ということになろう。しかし、これは一般論であって、遠慮のない親しい間柄の場合は別だ。道頼と惟成は主従だが、道頼の乳母の子である惟成に対して、道頼は実の兄弟以上に親しい感情を持っている。それを知っているから、実名で呼ばれても惟成は自尊心を傷つけられたとは感じないのである。
堤中納言物語の実名人物
 会話のことばの中で実名が自称・対称として使われるのは、当時の会話のルールをそのまま写したと考えれば説明がつく。『堤中納言物語』の短編十編の一つ「花桜折る少将」の中で、主人公が「かのみつとを(光遠)にあはじや」と発言したり、やしきの者が「すゑみつ(季光)は、などか今まで起きぬぞ」ととがめたりする。この実名使用の発言心理も、この同じ原則で理解できる。
 だが、この短編では、主人公をはじめ、脇役の貴族たちの実名はいっさい記されていない。これが『落窪』との違いの一つである。もう一つ、「花桜折る少将」の作中には、発言の中ではなくて、登場人物を「みつすゑ(光季)」という実名で書いているところがある。短編だから、素性などの説明もなしに「みつすゑ」が突然登場する。そして主人公が目ざす姫君の邸へこっそり潜入する時には、「みつすゑ」から提供された情報に基づいて計画を練り、「みつすゑ」の車を借用して人目をごまかし、計画を実行する。この偽装工作に加担する光季は、それほど主人公である男性に信頼されているわけだ。彼も主人公の乳母子であろうと、当時の読者は説明がなくても容易に納得したであろう。
 この「みつすゑ」の車をこっそり迎え入れて手引きをする邸内の女と光季は、夫婦であろう。とすると、この短編の展開は『落窪』とよく似たものになる。惟成の妻で女主人公に仕えている「あこぎ」と惟成とが共同戦線をはって、その主人にあたる道頼と姫君(落窪の君)の恋を成就させるのが『落窪』の展開だからである。
 両者は細部で相違がある。「花桜折る」の主人公は、姫君誘拐ゆうかい作戦を立てる前に姫君を垣間見かいまみる偶然の機会があったが、『落窪』の道頼はまず文を送り、次いで垣間見に出かける。通常の手順を踏んでいるわけである。道頼主従は垣間見に先立って、《相手の女性が「物忌みの姫君」みたいだったら、どうなさる》《そうなれば「笠もとりあへで、そでをかづきて帰るばかり」》などと冗談を交す。そんなゆとりが「花桜」の主人公主従にはなかったらしい。目ざす姫君と間違えて、祖母の尼君あまぎみを車に乗せてしまうという笑いの幕切れは、この『落窪』の道頼主従の冗談にヒントを得たパロディーかと読んで、両作品を楽しむこともできる。そういう読者は、ここで、両作品の成立の先後関係はどうなっているのだろうかと、両作品の解説を熟読することになるであろう。
修飾型人名呼称の流行
 実名が、会話のことばではなしに書かれている作品が、もう一つある。「思はぬ方に泊りする少将」では、主人の命を受けて姫君を迎えに行く「清季きよすゑ」という男がいる。彼も車に乗せた姫君が、姉妹取り違えの別人であるとは気づかずに、車を主人の邸に引き入れる役回りである。光季といい、清季といい、似た実名がよく登場することにこだわる読者は、《これは、この短編集の編者の好みか》とも思い、《この物語の編者は、だれだろう》という課題意識を持って『堤中納言物語』の解説を読むことになろう。
 この課題意識がふくれていくと、どうなるか。『堤中納言物語』には、人物の行動の特徴を「花桜折る」とか「逢坂越えぬ」「思はぬ方に泊りする」という修飾語に凝縮させた登場人物、あるいはそれを物語の題名にした作品がある。《ほかに、どんなのがあるのかな》という好奇心を読者は抱くことにもなるかもしない。
 本書の付録にあげた物語合ものがたりあわせの行事が行われたのは十一世紀の中ごろで、『堤中納言物語』の中の一編はその物語合に提出された作品である。十八編の物語の名前がそこに見える。「かすみへだつる中務なかつかさの宮」「玉藻たまもに遊ぶ権大納言」「あやめかたひく権少将」「波いづかたにとなげく大将」「あやめも知らぬ大将」「打つ墨縄すみなはの大将」「あらばふよのと歎く民部卿みぶきやう」「あやめうらやむ中納言」「岩垣沼いはがきぬまの中将」「波越すいそ侍従じじゆう」「なにぞ心にと歎く男君をとこぎみ」「をかの山たづぬる民部卿」は、主人公や物語名が官職名で、それに修飾句がついている。これに当てはまらないのは、「よそふる恋の一巻」「よど沢水さはみづ」「浦風にまがふきんこゑ」「よもぎの垣根」「言はぬに人の」。一目して傾向の違いがわかる。両グループに共通するのは、著名な歌の一句を借りて、恋の特徴などを象徴的に示そうとする命名の意図である。
 ネーミングが商品の売れ行きを左右する現代と同じように、物語の世界にも、その時期によって流行の波がある。
十世紀標準型の物語名
 十一世紀中ごろになって流行するスマートな物語の題名に比べると、『落窪物語』『堤中納言物語』という題名から受ける印象は、だいぶ異質である。
「落窪」は住居の部屋の名称である。いじめられる姫君の起居する居住空間だから、快適な場所ではない。『うつほ物語』の題名「うつほ」も、俊蔭としかげの娘と仲忠なかただの母子が、都の中では生活できなくなって、ようやく見つけ出した山奥の住居である。
「落窪」で生活することを余儀なくされた姫君は、そこで一生を過ごしたわけではないし、俊蔭の娘と仲忠の母子も、山中の「うつほ」で生活したのは俊蔭巻の中の一局面だけである。いずれの物語の主人公も、一時期だけは苦難に耐えねばならぬ。一月や一年で終るわけではないし、当人たちにとっては長い苦しい年月だったはずだが、幸福な生活が始まってみると、それは長編・中編の物語の時間の中の、ごく短い期間である。それにもかかわらず、物語はその期間の生活の特徴を作品の題名にしている。生涯の中で、その生活を特徴づける一時期の生活の場、生活環境を象徴的に示すことばが、物語の題名に選ばれているわけである。
 これに対して、「堤中納言」という題名は人物名を物語の題名に採用している。このような前例はないわけではない。「うつほ物語」の巻名には、「俊蔭」「ただこそ」「藤原の君」「貴宮あてみや」などと人名にちなむものが多く見られる。「源氏物語」「光源氏の物語」というのも主人公の名前が物語名になっている。しかし、これらは、「堤中納言」のように官職名で呼ばれる人名ではない。
『落窪物語』は、その書かれた十世紀後半における物語題名の命名方法に、すなおに順応している。これに対して『堤中納言物語』は、十一世紀成立の作品を含むのだから、十編を総括する物語名は十一世紀後半以後でなくては生れ得ない。それでいながら、そのころに流行したネーミングにはよらずに、『堤中納言物語』という題を選んだ。いずれかといえば一時代前の、古風な命名方式の復活である。これは十編の短編の集合を編集した編者の好み、あるいは見識を反映するであろう。では、題名に見える「堤中納言」とは、いったい何者であるかという新しい疑問がわいてくる。
課題意識を持つ読者――クイズ享受論
 こうして見ると、二作品だけを見ている時には気にならなかった物語名だが、「うつほ物語」や物語合に提出された諸作品などを介在させてみると、さまざまな共通性と異質性が見えてくる。作品はストーリーの面白さとは別な知的関心を呼び覚ます機能を備えている。作品はさまざまなクイズを読者に向かって発信しているのだ。それに気づき、それに取り組む姿勢を、私はクイズ享受論と呼ぶ。
「花桜折る少将」「逢坂越えぬ権中納言」「思はぬ方に泊りする少将」は官職名を含む人名を題名にし、それに人物の行動・動作を示す修飾句を加える。修飾型の新型である。女性登場人物にちなむ「虫めづる姫君」「はなだの女御」も含めると、半数は人名関連の作品名である。その残りが、「このついで」「ほどほどの懸想けさう」「はいずみ」「よしなしごと」「貝合」かひあはせとなるが、これらも単なる即物的な命名ではない。新・旧さまざまな要素を摂取して、新しい方向を模索しているようである。なぜ、そういう結果になっているのか。そういう課題意識もクイズ享受論の一環をなす。一つの正解しかないという厳密さを求める研究の世界とは違って、クイズ享受の世界では、気楽に課題を見つけ、気楽にその課題と取り組む。《『落窪物語』と『堤中納言物語』》を読むことは、そういう遊びに最も適した場の一つである。
 十四世紀の中ごろ、四辻善成よつじよしなりは先行の源氏物語研究の成果を集大成して、『河海抄かかいしょう』という注釈書を書いた。彼は夕顔の巻に登場する惟光これみつという実名について、「竹取・うつほ・かくみのなどの古物語には、多く実名をあらはすことあり」と述べている。『源氏物語』とそれ以前の古物語との違いの一つとして、実名の使用傾向の差を指摘したわけである。すぐれた見識であるが、現代の物語読者は、それよりももっと多角的な角度から、自由に古典文学の世界を楽しむことができるのである。(稲賀敬二)
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