古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

『土佐日記』と『蜻蛉日記』

第13巻 土佐日記・蜻蛉日記より
日記と日記文学
 元来、帝王の起居注、宮廷の行事や公の事件の記録、官人の行動記録ないし備忘録びぼうろくとしてできた「日記」が、時に寺院関係や僧侶そうりよの行跡、特に渡唐僧の見聞録のようなものにまで発展をしていたが、それらにはともかく記録のスタイルが一貫してあったといえる。記事に日付をともなうのを原則とするなどがそれである。『日本書紀』孝徳紀・斉明紀に引く『伊吉連博徳書いきのむらじはかとこがふみ』『難波吉士男人書なにわのきしおびとがふみ』をはじめとして、やはり逸文いつぶんしか残っていないけれども、「内記ないき日記」「外記げき日記」「殿上てんじよう日記」のごとき職務日記、さらに円仁の『入唐求法巡礼行記につとうぐほうじゆんれいこうき』、円珍の『行歴抄あんれきしよう』、また官人としての個人の日記、藤原忠平の『貞信公記ていしんこうき』、藤原師輔もろすけの『九暦きゆうれき』など、すべてそうした記録のスタイルをもっている。土佐から京への旅日記の形態をとっている『土佐日記』もその点では共通するといえよう。
 紀貫之きのつらゆきがどのような意図のもとに『土佐日記』を執筆し、またそれがどのような構想をもった作品であるかについては、本書の『土佐日記』の「解説」において、菊地靖彦氏が詳しく述べておられるとおりである。『土佐日記』は土佐から京都への貫之の帰任の旅が書かれているにはちがいないけれども、それは単なる旅の記録と見るべきものではない。事実に対する歪曲わいきよく、虚構的な場面設定などをも、その中にしばしば含み、いわば旅を変革して人生そのものたらしめた作品である。さまざまな矛盾や分裂をはらんだ『土佐日記』の全体像の中にこそ、貫之の人間としての真実の生命が息づいているといえるだろう。ここに日記の伝統を受け継ぎながら、事実の記録から人間の内面世界の樹立へ、すなわち日記から日記文学への転換が成し遂げられた。それは従来の日記の形式を踏襲しながら、その形式を、単に作品の外側に枠としてある形式ではなく、それを媒介として作者の心情を表現する作品の内面形式に転化していくところで、日記から日記文学への飛躍を成し遂げたのであるから、いわゆる日記に本来的な記録のスタイルと直接つながっている。
 ところが、いつのころよりか、「日記」というものがもっと広く考えられるようになってきたらしい。和歌を中心とした記述が、だいたい時間的秩序に従って配列されたり、あるいは時間的秩序にはよらないが、ある特定の人物の事跡として書きつらねられている、などといったものをも「日記」と称した。それらは必ずしも漢文日記から引き継ぐ記録のスタイルをとっていないにもかかわらず、それもやはりまとまった一つの行動記録というふうに理解されて、準じて「日記」と呼ばれたのであろうか。『万葉集』の巻十七から巻二十にいたる四巻は、大伴家持おおとものやかもちの歌日記と見られている。それは和歌が中心となっており、直接「日記」という称呼はどこにもないけれども、実質的にはまさに歌日記であり、しかも「日記」の観念からいえば、漢文日記のそれと同列に考えられよう。だが、『小野篁集おののたかむらしゆう』が『篁物語』と呼ばれる一方、『篁日記』ともいわれ、『伊勢物語』が『在五中将の日記』といわれ、『平中物語』が『平中日記』あるいは『貞文さだふん日記』といわれる時、その「日記」の概念は、本来の「日記」とは大分異なってきている。このような「日記」の概念の拡大は、少なくとも九世紀以前にはほとんどなかったと見てよかろうが、実際にいつごろからということになれば、もちろんはっきりと答えられるはずもない。それに関連して一つの目安になるのではないかと思われるのが、『宇津保うつほ物語』蔵開くらびらき中の巻で、仲忠が先祖の遺稿を読んだ時、その中の俊蔭母としかげのははの書き残した草子の書きざまを、「したるやうは、ただ、ありつることを物語のやうに書きしるしつつ、その折の歌どもをつけたり。おもしろき所も悲しき所もありけり」と述べ、また、俊蔭の書いたものについて、「これは俊蔭が京より筑紫つくしへ出で立ち、もろこしへ渡りたりける間より始めて、京に娘の上を言ひそめて、いひつつ折々に歌あり。これがおもしろく悲しきことは、かれにはまされり」と述べている記述である。この記述が、つづく朱雀すざく帝のことばに「しふども、日記どもなどをなむ交ぜて聞くべき」といわれたり、あるいは蔵開上の巻で、先祖の書庫を開いた仲忠の帝への報告の中に、「俊蔭帰りまうで来けるまで作れることども、その人の日記などなむ、その中に侍りし」とある、これらの「日記」のことをいっているのかどうか、はっきりとはしないのだが、ともかくそういう類の述作を「日記」と考えたであろう可能性を十分に示している。それは『土佐日記』よりも『蜻蛉日記』に近い。というよりも、『蜻蛉日記』の書かれた背後には、こうした「日記」の新たな形が志向されていたと考えられるのである。言い換えれば、『土佐日記』が漢文日記の系譜に直接つながるのに対して、『蜻蛉日記』はまさに私家集を基盤として独自な日記文学的達成を遂げたのである。
『蜻蛉日記』は作者道綱母みちつなのははの結婚生活を中心に記されている。そこには『土佐日記』に見られたような虚構的な設定はない。その内容はだいたい彼女の体験した事実であると判断して間違いないだろう。しかしながら、後の「解説」で詳しく説明をするが、『蜻蛉日記』は単に作者の結婚生活の記録としてあるのではない。そうした事実を書きつらねることにおいて、実は作者の内面を一つの世界像として具象化していったところに、この作品の意味があり、そこにこそ、『蜻蛉日記』の、事実記録ではない、まさしく日記文学たる所以ゆえんが見いだせよう。このような日記文学の本質的意味において、『蜻蛉日記』は『土佐日記』を受け継ぎ、それを発展させたのであった。
 その後、和歌の機能が特に重要な意味をもつ『和泉式部日記』、記録のスタイルに比較的近い部分と、同時にまったく異なる述懐的評論的な部分との、特有な共存結合の上に成り立つ『紫式部日記』、『蜻蛉日記』の様式を作者の生涯に拡げ、人生の全体を文学化したごとき『更級日記』、記録性とそれを統括する回想的姿勢の『讃岐典侍さぬきのすけ日記』、といったふうに、日記文学の様相を見ると、まことに多様である。『土佐日記』以下、きわめて個性的ともいうべきこれらの日記文学の作品が、にもかかわらず日記文学として一つのジャンルをなすのは、それぞれ事実的な素材に根ざし、しかも事実を越えて、作者ないし主人公の内面像を客観的に造型する、その共通性にあると考えられる。ところで、漢文日記にあっても、時に筆者の体験における切実な感動を表現していることがあり、場合によっては、朝儀典礼の記録そのものが、筆者の生活の重要な意味を担っていて、それもまた日記文学的な範疇にはんちゆう属するのではないか、漢文日記の文学性を文学史的にもっと取り上げてよいのではないか、という提案が、主として中世文学の専門家から出されている。この問題に、福田秀一氏がきわめて的確な論評を加えておられるが(「日記記録と日記文学―いわゆる漢文日記の文学性をめぐって―」木村編『論集日記文学』)、それは、たしかに広く日記の与える感動が認められるとしても、文学作品として統一された主題や、叙述の芸術性などがあって、はじめて日記文学たりうる、ということである。特に、このような日記文学観が、福田氏も「従来中古文学研究者を中心に」した考え方である、といわれているとおり、本来中古文学の範囲で考えられてきたものであった。むしろ、中古の日記文学が一つのジャンルを形成するのに特有の構造として見いだされた、というべきではないかと思われる。それは中世にも受け継がれはする。しかしながら中世において、この日記文学的特質は次第に解体していくというべきであろう。中古の日記文学が、『入唐求法巡礼行記につとうぐほうじゆんれいこうき』などとはっきり別の世界を作り出しているのとは異なり、中世ではいわゆる日記文学が、文学的な粉飾はあるにせよ、漢文日記とも類同的な面、事実の重みないし妙味に核心でつながってくるのである。
土佐日記と蜻蛉日記
 さて、前に引いた『宇津保物語』の記述からもおよそ見当がつくが、日記文学の場面場面に和歌が大きな存在意義をもつ。『土佐日記』の全体において貫之の心情が表現されているのだとすれば、歌人貫之として、和歌は『土佐日記』になくてはならない材料であろう。さらに、たとえば『古今集』羇旅きりよ歌によって構成された旅情などがうかがえる。しかしながら、『土佐日記』のテキストのあり方は、それらの和歌を駆使し、それらの和歌を適宜はめこみながら、まとめ上げられた作品となっている。これに対して、『蜻蛉日記』における和歌の意義は大分違う。さまざまな生活史の局面において、作者道綱母の全身的な感懐をそれぞれ集約して詠まれているのが、彼女の和歌である。こうした詠作の集積の中から、『蜻蛉日記』を生み出す道がひらけてくる。彼女は贈答歌や独詠歌を連接し、その間に、さらに詳しい事態やみずからの感情を表現した文章を置くことによって、過去の人生を新たな連続相に再構成するのだが、それこそ彼女の和歌の中に深々と打ち込められた世界を、改めて具象的に展舒てんじよしていく操作だったといってもよいだろう。和歌に集約された状況は、また和歌からにじみ出てくる状況でもある。そういった関係が、『蜻蛉日記』とそこに含まれる和歌との根本的な関係なのであって、『土佐日記』にはまったく見られないところである。
『土佐日記』には、愛児を失った親心のごとき切々たる私的な感情と、功利的な人間に対する風刺などの社会的な批判とが、必ずしも十分に統合されずに混在し、なかなか複雑な様相を呈している。思うにそれは、貫之がこの『土佐日記』において、官人の立場から自由に解放されることを強く求めているにもかかわらず、完全に官人の立場を切り捨てることが本来彼に出来るはずはなかったところに原因する、自己矛盾の反映と見てよいのであろう。ところで、『土佐日記』のその風刺的社会的な側面は、『蜻蛉日記』には受け継がれていかない。それはいったいなぜなのか。これも漢文日記の系譜とのつながりに対して、私家集からの発達といった、両者の成立の基盤の相違によるといってしまえばそれまでだが、いますこし詳しく考えてみよう。貫之の官人としての立場は、彼がそこから脱却しようとして脱けられない、それほどに彼の思考を根本的に規定もしていれば、また彼の人生認識の支軸ともなった立場であった。しかるに、道綱母の場合、貫之のこの官人的立場に相当するような彼女の立場、彼女の生を根本において支えている現実的な拠りどころ、そういうものがどこにもなかった。彼女の結婚が、実際には楽しい時、つらい時、その他いろいろあったとしても、その本質において彼女にかぎりない人生苦をもたらす原因でしかなく、妻という立場が現実にはまったく無力であるにもかかわらず、彼女の生きる場はそれ以外になかったのである。『蜻蛉日記』が精細に、的確に描き出していく、こうした矛盾は、いわばその矛盾こそが作者道綱母の人生を統括しているのだといってさしつかえないようなものであった。すなわち、彼女は、現実にはなんら自己を律する根拠とはならない立場を、『蜻蛉日記』を書くことによって、はじめてみずからの生きる立場として積極的に意義づけていったということになる。したがって、結婚生活のまったく私的な面を追求する、そのことの中に、彼女の社会的な存在意義が内包されてしまう。そこに『土佐日記』に見られたごとき社会に対する風刺や批判が入り込む余地はなかった。このように見くらべると、対社会的な発言を多く含んでいる『土佐日記』が、むしろ貫之の心境の分裂を主体的な真実として示すにとどまり、かえって自己の心情の内面にしか目を向けていない『蜻蛉日記』が、道綱母の主観的な真実を通して、彼女の置かれた社会的な位置、彼女の辿たどった人生の社会的な意義をも、客観的に明らかに示す結果となっているといえるのではなかろうか。(木村正中)
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