古典への招待

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世阿弥という人

第59巻 謡曲集(2)より
現存する多くのすぐれた能の作者である世阿弥(一三六三?~一四四三?)は、大和猿楽結崎座やまとさるがくゆうざきぎ棟梁とうりよう(観世大夫)として一座を率いて自らの作品を主として演じ、またその能芸に関する数々の伝書を残した。そのすぐれた業績については、多くの論考があり、また辞典類の項目に概説されている。この小文では、そのような世阿弥がどのような人であったかを述べようと思う。なお、世阿弥の生年には、貞治二年(一三六三)・貞治三年(一三六四)の両説があるが、以下、前者によって記す。
申楽談儀さるがくだんぎ』に次のような一節がある。
(1)王は、毎月十九日、観阿(2)の日、出世の恩也とて、僧を二人供養じける也。観阿、今熊野の能の時、猿楽と云事をば、将軍家(鹿苑院)御覧じはじめらるる也。世子十二の年也。
(1)近江猿楽 犬王道阿弥(?~一四一三)。
応永二十年五月九日 道阿弥往生。於京都死去。紫雲聳。尤雨云々。近江猿楽犬王入道(『常楽記』)。
(2)観阿弥(一三三三~八四)。世阿弥の父。五月十九日、駿河で没した。五十二歳。(『風姿花伝』第一年来稽古条々)
至徳元年五月十九日 大和猿楽観世大夫於駿河死去(『常楽記』)。
犬王いぬおうが観阿弥の恩誼を終生感じていたのは、彼のおかげで「出世」した、すなわち世に出たからである。続く文章から判断すると、観阿弥・世阿弥父子の今熊野いまぐまのにおける演能が将軍義満よしみつの目にとまり、以後、能は地方の芸能から中央(京都)の芸能となり、観世父子ばかりでなく、近江猿楽の大王を含む他の能の一座も、すぐれた役者は引き立てられたのであった。“能の興隆はこの時から始まる、その機縁を作ったのは観阿弥である”と大王は考えていたのであり、また世阿弥も大王のことから今熊野のことを想起したのである。
 この、猿楽の能にとって記念すべき演能は、当時の記録類には見えない。したがって、「世子十二の年也」が何年であるかわからないので、世阿弥の生年が確定しないのである。世阿弥が貞治二年出生とすれば、この年は応安七年(一三七四)、将軍義満(一三五八~一四〇八)は十七歳であった。
 以後の世阿弥(幼名鬼夜叉おにやしやか。後に藤若)は上流武家社会や公家くげに交わりを持って成長する。当時の公家の第一人者であり、連歌でも有名な摂政二条良基よしもと(一三二〇~八八)は、尊勝院に宛てた手紙に、
「藤若ひま候はば、今一度いちど同道せられ候ふべく候。一日はうるはしく、心そらなる様になりて候ひし。わが芸能はなかなか申すに及ばず、まり連歌などさへ堪能かんのうには、只者ただものにあらず。何よりもまた、顔だちり風情、ほけほけとして、しかもけなわげに候。かかる名童候ふべしとも覚えず候。……将軍さま賞翫せられ候ふも、ことわりとこそ覚え候へ。……」(原文の用字を適宜変えた)(福田秀一「世阿弥と良基」『芸能史研究』十号〈一九六五年七月〉所収)
と書いている。世阿弥は和歌・連歌などの教養を身に付けつつ、少年時代を送ったのであった。これは、大和を中心に在地で名声を得、四十代で上洛した父観阿弥の育った環境とは大いに異なる。世阿弥は父の指導のもとで能の修行に励んだのだが、その芸風・作品は、おのずから父とはかなり違った面を持つことになった。
 至徳元年(三八四)五月、五十二歳の観阿弥は旅興行の駿河の地で死ぬ。二十二歳の世阿弥は若年にしてそのあとを継ぎ、一座を統率する身となる。その約二十年後に完成した『風姿花伝ふうしかでん』(第一~第七)の第三の奥書(応永七年〈一四〇〇〉)に、世阿弥は、亡父の遺訓を書きとどめたと記しているが、父の死後かなりの歳月を経ているので、自己の体験も加わっているだろう。また、彼の六十歳前後にまとめられた『至花道しかどう』『三道さんどう』『花鏡かきよう』なども、多年の修行によって得たところを、この道を継ぐ子孫のために書き残したものである。
 これらの伝書は、芸の実践に即して、深い思考を重ねた結実を筆にしたものであり、すぐれた芸術論となっている。それとともに、これらの伝書は、当時の能を知る上で、唯一の貴重な資料といって過言ではなかろう。「高砂」「老松」「忠度」「清経」「頼政」「融」などが応永三十年(一四二三)当時評判の能で、それより後に出来たらしい「井筒」「砧」とともに世阿弥の作品であることがわかるのは、『三道』(一四二三年成る)や『申楽談儀』(『世子ぜし六十以後申楽談儀』。世阿弥の次男元能もとよし聞書ききがきで、永享二年〈一四三〇〉成る)などによってである。当時の記録類には作品名は殆ど記されておらず、当然のことかもしれないが、“何々は世阿弥作”というようなことは書かれていない。
 応永十五年(一四〇八)三月、後小松天皇の北山第きたやまてい(義満の別邸)行幸の盛儀(大王が出演し、世阿弥は出ていない)の二か月後、庇護者義満は急逝する。義持よしもち(一三八六~一四二八)・義量よしかず(一四〇七~二五)を経て、正長二年(一四二九)、義教よしのり(一三九四~一四四一)が将軍になると、彼は世阿弥の甥の三郎元重もとしげ(音阿弥)を重用し、世阿弥・元雅もとまさ父子は遠ざけられてゆく。そして、永享二年(一四三〇)十一月、世阿弥の次男七郎元能は『申楽談儀』を残して遁世、永享四年八月に、長男十郎元雅が伊勢で客死、さらに永享六年五月、七十二歳の世阿弥は佐渡へ流される。小謡集『金島書きんとうしよ』(永享八年成る)と、佐渡から女婿金春大夫(禅竹)へ宛てた書状一過が残るが、帰洛したかどうかは不明で、「享年八十一歳」は伝承である。
 三十年ほど前のことであるが、世阿弥の六十歳ごろの日常の一端を示す資料が、故森末義彰氏によって詳細な考察とともに紹介された。すなわち文明九年(一四七七)に成った『史記桃源抄』の一節、巻十六滑稽列伝第六十六の優孟者の注として記されたものである(「桃源瑞仙の『史記抄』にみる世阿弥」 昭和四十六年刊『中世芸能史論考』所収)。以下、その文を掲げ、森末氏の論文に拠りつつ、概略を述べる。
優トハ倡優ナリ、俳優ト云モ同コトソ、日本ノ猿楽ノ狂言ノ様ナモノソ。
李春十九日入曹源寺、浴退蔵、蔵室翁先在、話次及十郎観世自今日於百済教寺為舞楽、余日、所謂十郎者
亦昔之世阿弥之後裔乎、翁亦不識、翁日、世阿弥窮長短小、起座足踏而成節、蓋其技能習熟之所便然也、
常在不二師座上笑談、且供禅寂之一暖。
 「抄」とは講義の筆録である。桃源瑞仙(一四三〇~八九)は相国寺で勉学したが、応仁の乱を郷里近江に避け、永源寺に滞在した。この『史記抄』はそのころの著作である。引用文の「李春(陰暦三月)」以降は、「優」の注釈を示した折に、いわば余談として記されたものである。
 三月十九日、退蔵寺で入浴した際に蔵室翁が先にいて、談たまたま観世十郎の演能に及んだ。瑞仙が蔵室翁に“十郎とは昔の世阿弥の子孫か”と尋ねたところ、翁も知らなかった。翁は、自分が同席したことのある世阿弥について語り出す。
世阿弥は躬長みのたけ短小、起座足踏して節を成す。けだしその技能習熟の然らしむるところなり。常に不二師の座上ざしやうに在りて笑談し、かつうは禅寂の一噱いちぎやくに供す、と。
 不二師は岐陽方秀(一三六一~一四二四)。東福寺の住持となったこともあり、晩年、東福寺の側の不二庵に居住した。世阿弥より二歳年長で、六十四歳で没しているから、世阿弥が不二師の集まりに加わっていたのは六十歳前後のころであろう。蔵室翁の生没年は不明だが、若年のころ不二師の門下であったことが知られており、かりに文明九年(一四七七年)に七十五歳であったとすれば、世阿弥六十歳の時には二十歳であり、若いころの記憶がよみがえったのであろう。
 世阿弥は小男であった。多年の修練により起居動作はきびきびとしていた。いつも不二師の会合に出席していて、笑いながら話をし、その一方では静かな瞑想めいそうの場で人々を大笑いさせた。―というのが蔵主翁の回想である。父観阿弥が大男であったことは『申楽談儀』にみえており、対照的に世阿弥は小男だったのである。また、世阿弥が禅を学び、その知識を得たのはこのような場であったと推測され、禅僧たちの間で愛嬌を振りまいていた情景を思い描くことができる。
 『五位』という漢文体で書かれた短文の世阿弥の伝書がある。その跋文ばつぷんの筆者は「孔門□徒常」であるが、難読の文字を「宗」と読み、清原良賢であるとして、種々考察を加えられたのは落合博志氏である。(「『五位』の成立とその性格――清原良賢跋文の問題その他――」『中世文学』三十三号(昭和六十三年六月)所収)
 同氏の論によれば、清原良賢(一三四八~一四三二)は明経道清原家の嫡流であり、南北朝末期から室町初期にかけ、当代の名儒であった。将軍家に仕え、五十歳で出家して常宗と号した後も、引き続き義満・義持の側近にあり、将軍家や朝廷をはじめ、諸大名・公家の間で、その方面の権威として尊重されていた人物である。このような人物に世阿弥が跋文を求めたのは、明らかに権威づけのためであった。
 思い合わせられるのは二条良基の『連理秘抄』(貞和五年〈一三四九〉成る)の末尾に記された、
此抄以小序
玄恵
法印
奥書
救済
法師
等為規模。更不可有外見而巳。     関路鬼木御判
という言葉である。玄恵げんえ法印(?~一三五〇)は当代の碩儒せきじゆ救済きゆうせい法師(一二八二~一三七六?)は、当時の地下ぢげ連歌の第一人者。「規模きぼす」とは、名誉とする、の意。「関路鬼木」は関白大臣ということ。良基はこの時三十歳であった。『菟玖波集』が勅撰に準ぜられたのは八年後の延文二年(一三五七)であり、このころ新興の連歌は権威づけを必要としていた。なお、「更不可有外見」(他人に見せるな)とあるが、もとより、しかるべき人には見せて、誇りとしていたのである。
 猿楽の能も当時新興の芸能である。芸の上で他の役者と争って生き残ってゆかねばならないのは勿論であるが、さらに、権威者の支持を得ることに努めねばならない。将軍家はもとより、その周辺の上流武家・公家、禅僧や儒者など当時の知識人の間に立ち交じって、言葉は少々わるいが、世阿弥は如才じよさいなく振舞っていたのであった。想像はされていたことであるが、その具体例が森末・落合両氏によって示されたのである。
 この小文の終わりに、『申楽談儀』(別本間書)にある、
世子ノ位、観阿二劣リタル所有り、タレモ知ラズ、ト世子申サレシヲ、尋ネケレバ、「ワレハ足キタルニヨツテ、劣リタル也」ト云々。
について寸言を加えたい。前述の蔵室翁の語るところによれば、世阿弥は小男であり、日常の動作もきびきびとしていた。舞台上の演技において、当然、“足が利いていた”のである。足が利くことは、役者にとって有力な武器のはずである。それがなぜ、相対的に足の利かない観阿弥に対して劣ることになるのか。それは、足が利くことをおのずから頼みにしてしまうからではないだろうか。言い代えれば、努力しなくても、あるいは芸として修行しなくても、出来てしまう。芸として修練された足技あしわざよりも深みが足りないものになる、ということだと思う。
 『徒然草』二二九段に、
よき細工は少し鈍き刀を便ふといふ。妙観めうくわんが刀は、いたく立たず。
とある。よく切れる刀では名作は出来ないのだという。両者は通ずるところがあるようで、実見したことや実践に即してこのようなことを考えるのは、中世の人の思索の深まりを示すものであろうか。(小山弘志)
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