十二世紀の半ば過ぎ、後代「武者の世」の到来と見なされた
保元の乱(一一五六)、そして続く
平治の乱(一一五九)のような市街戦を京の人々が体験した後も、多くの王朝貴族たちは平安盛時の夢を追っていたのであろう。そのような時代に、あたかも突然変異で咲いた大輪の花のような文化が現出した。それはこの二つの内乱を機に、貴族社会に躍進してきた平清盛(一一一八―八一)を中心とする平氏一門によってもたらされたもので、洗練され、
爛熟した王朝文化を引き継ぎつつも、清盛の対宋私貿易の富などを背景として、さらに華麗で、新鮮なものでもあった。それは平家文化と呼ばれてさしつかえないであろう。
しかしながら、この大輪の花の
凋落はあまりにもあっけなかった。やがて先の二つの内乱で雌伏を余儀なくされていた諸国の源氏が
蜂起し、源平動乱という全国的規模の内乱が拡大する中で、さまざまの花に
喩えられたこともある平家の
公達は次々に死んでいった。そのような平家一門の栄花と滅亡の象徴的な存在は建礼門院平徳子(一一五五―一二一三)である。権力の頂点に登りつめた清盛の娘として生れた彼女は高倉天皇(一一六一―一一八一)の宮廷に入り、安徳天皇(一一七八―八五)を生んで国母と仰がれもしたが、一門の滅亡の際に、その我が子と母を失い、自身は死ぬ時を逸して尼となり、余生を戦いに死んだ人々の供養に過ごした。女の幸せと不幸を一身に集めた女性として、『平家物語』が生きながら
六道を経験したと語るのも、物語的誇張とばかりも言えないであろう。
その建礼門院が高倉天皇の中宮として、天皇を日輪に喩えるならば、あたかも月のように輝いていた頃、その女房として仕えていた藤原氏出身の一人の女性が、
世尊寺伊行の
女、建礼門院
右京大夫(生没年未詳)である。
入木道(書道)の家に生れ、夕霧という
箏の名手を母に持つ彼女は、才芸豊かな女房として平氏や
藤氏の若公達と機知に富んだ歌のやりとりなどをしていたが、中宮の
甥である平
資盛(一一六一?―八五)の愛を受け入れるようになる。しかし、資盛にとっての彼女は恋人の一人という域を出るものではなく、彼女は周囲の人々の目を忍びつつ、その愛を育てなければならなかった。そのような喜びと苦しみの交錯するうちに時代は動いてゆく。やがて戦いに赴く恋人との悲痛な別れがあり、二年後にはその死の知らせがもたらされる。そのあまりにもむごい現実に、彼女はしばらく放心状態ですらあったが、それから
堰を切ったような涙に
溺れ、ずっと恋人の面影を心に抱き続けながら、尼にもならずに生きていった。動乱が収まった後の宮廷に再出仕し、幼い後鳥羽天皇(一一八〇―一二三九)にありし日の高倉院の面影を
偲び、かつて親しく歌を詠み交した藤原氏の貴族たちの堂々たる姿を見ては、恋人をそれらに重ね合せて、生きていたならばという思いを新たにしていた。
幼い後鳥羽天皇は成長して譲位の後、空前絶後ともいうべき宮廷和歌の最盛期を実現させた。文学史でいう新古今時代である。この時、何人かの後宮女房も歌よみとして脚光を浴びたが、建礼門院右京大夫はその中には入っていない。彼女は縁に
繋がる藤原俊成(一一一四―一二〇四)が後鳥羽院から九十の賀宴を賜わった際、院のお気に入りの女房宮内卿が詠んだ賀の歌を、院から俊成に与えられる法服に
刺繍するという裏方をつとめていたのであった。
後鳥羽院政の時代が承久三年(一二二一)の承久の乱によって終った後、かつて院の主導の下、『新古今和歌集』撰進の業に当った撰者たちの中心人物である藤原定家(一一六二―一二四一)は、今度は単独で『新勅撰和歌集』を編むことを、後堀河天皇(一二一二―三四)に命ぜられた。その際、彼は旧知の間柄であった彼女にも、その撰集の材料として、詠草を求めてきた。彼女の手許には、建礼門院が中宮であった頃の宮仕えの日々に詠まれた歌の数々、恋の喜びと苦しみのはざまで生れた独白や恋人とのやりとり、ままならぬ恋に悩む心の
隙間に割り込んできた男との応酬、悲しみのどん底から絞り出されたような歌、年々七夕にわが思いを訴え続けてきた歌など、多くの歌草がたまっていた。それらはもともと他人に見せるためのものではなく、自分一人の思い出のよすがとして、その折々の心の動きをも記しつつ書き留められてきたものであったが、彼女は求められるままに、それをおそらくある程度形を整えたうえで提出した。このようにして今日に伝えられたものが、『建礼門院右京大夫集』という歌集である。定家はこの歌集から二首、恋人の叔父平
重衡(一一五七―八五)の
懸想ばんだ言葉をいなした、
忘れじの契りたがはぬ世なりせば頼みやせまし君がひとこと(一九八)
という歌を「題しらず」として、また、知り合いの女房に送った、
吹く風も枝にのどけき御代なれば散らぬもみぢの色をこそ見れ(一一二)
という宮廷讃美の歌は、その詠歌事情を記して、『新勅撰集』に撰び入れている。彼女は「建礼門院右京大夫」という昔の呼び名のままで、勅撰集に初めて自らの作品が載せられることを感謝しながら、まもなく世を去ったのであろう。
承久の乱は京都の貴族社会にとって
未曾有の衝撃的な事件であったが、政治的、軍事的な敗北は、必ずしも文化の敗北を意味するものではない。乱後いわば将軍の都、東国の新都として発展の一途を
辿る鎌倉とその周辺地域は文化的には後進地域であり、そこに住む武士たちも京の文物に
憧れを抱いていたから、それらの摂取に熱心であった。そのような時代の傾向は、都の貴族たちの伝統文化に対する誇りを回復させ、高揚させもしたことであろう。執権北条泰時(一一八三―一二四二)によって擁立された後嵯峨天皇(一二二〇―七二)の治世とその譲位後の院政期は、中世における皇室が比較的安定を保っていた一時期で、これを後嵯峨院時代と呼ぶことができるであろう。この時代の文化史上の特色は、先の新古今時代とともに(あるいはそれ以上に)、平安王朝文化への回顧の傾向が著しいということである。一例を挙げれば、後嵯峨院の后
大宮院(一二二五―九二)の周辺で作り物語の歌を集めた『風葉和歌集』が編まれていることなども、そのような時代的風潮の現れであろう。この傾向はその大宮院を生母とする後嵯峨院の二人の皇子、後深草院(一二四三―一三〇四)と亀山院(一二四九―一三〇五)が相次いで
主となった十三世紀の宮廷にも受け継がれた。それは時代の推移に伴って当然かなり変容し、変質しつつも、なお王朝盛時を規範として人々が思考し、行動する世界であった。王朝貴族社会の現実そのものではなく、その最も理想とする世界を文学作品の形で描き出したものは、いうまでもなく『源氏物語』である。中世の宮廷人たちはこの『源氏物語』の世界を理想とし、ひたすらこれを模倣しようと努めた。現実にはこの頃の日本は蒙古襲来という外患に脅かされてはいたものの、それも宮廷貴族たちの生活や物の考え方を一変させるだけの影響力は持たなかった。十三世紀の半ばに生を享け、そのような宮廷にどっぷり浸って成人した女性が、『とはずがたり』の作者、
久我雅忠の
女、後深草院二条である。
彼女は後深草天皇の正嘉二年(一二五八)、村上天皇の子孫である村上源氏の家に、当時は権中納言であった雅忠の娘として生れた。母は四条家と呼ばれる藤原氏の出身で、今上(後深草天皇)の御乳母でもあった女性である。二歳の時にこの母に先立たれた彼女は、同じ頃、弟亀山天皇に譲位した後深草院の御所で養われて成長し、十四歳の年の春、自身の意思とかかわりなく、院の寵姫の一人とされた。後深草院は『源氏物語』の源氏を気取り、彼女を若紫(幼い頃の紫の上)に見立てて、自ら彼女を思いのままに教育し、成長するやこれを愛人としたのである。しかし、紫の上の役まわりは彼女にとってはあまりにも荷が重すぎた。彼女は紫の上のように貞淑ではなかった。才気煥発で行動的だった。戯れに後深草院に
粥杖で打たれたのを
癪なこととして、院を打ち返すお転婆なところもあった。が、何よりも紫の上と異なる点は、院の愛を受ける以前から、心を通わし合う男がいたことである。「雪の
曙」と呼ばれるその恋人は、院の側近で彼女の母方の縁者でもある西園寺
実兼であった。「雪の曙」は彼女が院の後宮に加えられた時はそれを座視するほかなかったが、やがて彼女の父雅忠が死に、彼女が御所を下って乳母の家に身を寄せているところへ忍んで通い、恋を叶えた。さらに、院の異母弟である「有明の月」と呼ばれる高僧(
性助法親王)の意に従わされ、父と同じほどの年齢の「
近衛の
大殿」(鷹司兼平)にも抱かれた。紫の上は源氏以外の男を愛したことはなく、しかもその源氏との間についに一人の子を儲けることもなく世を去ったが、後深草院二条は自ら告白しているのによれば、院以外に三人の男に愛され、院の御子を含めて五人の子を懐妊している。
後深草院もまた、源氏を演じ続けることはできなかった。彼は二条を愛しはしたものの、その愛は気まぐれなところがあった。そして、彼女の遇し方は源氏の紫の上へのそれとは全く異なっていた。それはむしろ王朝で「
召人」と呼ばれた女性の処遇に近いものであった。後久我太政大臣
通光の孫娘という誇りを持ち続けていた彼女が、心の底に不満の思いを芽生えさせたとしても、もっともであった。院は彼女のそのような思いに頓着なく、うたかたの恋の相手への手引きをさえもさせた。そして、その一方では、「有明の月」との密事を知るや、むしろ二人の間を取り持ち、また「近衛の大殿」が彼女を強引に抱くのを黙過した。けれども、自身にとっての最大のライバルでもあった実弟の亀山院と彼女の間に風評が立つと、彼女の庇護者の立場を放棄して、妃の東二条院の求めるままに、彼女を御所から退かせた。
その後、大宮院の生母北山
准后の九十の賀の折に、彼女は大宮院付きの女房という形で宴に列し、久しぶりに院の今様の美声を聞いて懐しさに胸がいっぱいになったが、ついに帰参することはなかったらしい。そして、その後まもなく尼となり、生来の行動力を発揮して、鎌倉、伊勢、さらに中国、四国へと、旅をした。それらの旅の途中、石清水八幡でやはり
法体となっていた院の御幸に出逢い、後に伏見の御所に呼ばれて一夜を語り明かしもした。彼女のこのような行動の背後には、幼時に見た「西行が修行の記」という絵巻からもたらされた、西行のような生き方への憧れも大きな力として働いていたのであろう。
四十七歳になった年の初め、かつて自身につらく当った東二条院の死を聞き、ついで後深草法皇の発病を耳にした。彼女は石清水八幡に
籠ってその平癒を祈り、また西園寺実兼の手引きで死の床にある法皇に会ったが、その翌日法皇は崩じた。彼女はその葬列をはだしで追った。その後は法皇と父母の菩提を弔う生活に明け暮れした。後深草院が亡くなってから二年後の春、彼女は石清水八幡で院の内親王である遊義門院の御幸に参り合せて涙ながらに名乗り、やさしい言葉をかけられた。そしてその年の院の三回忌の仏事を聴聞して、涙を新たにした。私達が彼女について知ることは、それまでである。そしてそれらはすべて、彼女自身が書き綴った思い出の記、『とはずがたり』全五巻によって初めて知られるのである。
平安最末期から鎌倉時代の初めにかけての歴史の転換期に生れ合せた建礼門院右京大夫と、鎌倉時代も終り近くの退廃を秘めた宮廷の空気をいっぱい吸い、しかも後には自由な旅を続けた後深草院二条と、この二人の性格や生き方は、確かにきわめて対照的である。右京大夫は万事控え目で、果敢な行動を取ることはなく、恋人の死後も宮廷女房として再出仕しているから、出家したとしてもそれはかなり後のことであろう。それに対して、二条は自己顕示欲は相当強い性格で、その行動は出家前も出家後もともに奔放ですらある。
けれども、そのような対照的な生き方にもかかわらず、二人には共通点もあるのではないだろうか。まず、二人とも才芸に恵まれた女性であった。右京大夫の技芸については既に述べたが、二条もまた幼女の頃から琵琶に長じ、旅先で彩管を
揮ってもいる。古典の教養も豊かであった。そして、ともに自意識の強い女性であった。その自意識の強さが、右京大夫の場合は資盛の求愛を直ちに受け入れさせないように働き、二条の場合は後深草院や「雪の曙」との間をぎくしゃくさせるように作用したとも考えられる。また、右京大夫を純情一途、二条をしたたかな女性と決めてしまうことも正しくはないであろう。右京大夫も資盛のほか、藤原隆信と交渉を持った。二条も初めは嫌っていた「有明の月」のひたむきな愛にほだされる、情に弱いところもあった。そして、自身の心を見つめ続けて、それにあくまで忠実であろうとした、自身を偽ろうとしなかったという点では、この二人は一致していると見られるのである。そしてまた、歌集と日記という文学形態、そこで語られる二人の愛の形はひどく違っているが、人が人と知り合い、愛しあうということの不思議さ、そのいとおしさと悲しさを、自身のこととして描きおおせているという点でも、この二つの作品は一致しているのである。(久保田 淳)