古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

初期物語の方法その伝承性をめぐって

第12巻 竹取・伊勢・大和・平中物語より
一 物語の語り出し
 この巻には、『竹取物語』『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』を収めた。それぞれの成立年代は確定できないが、『竹取物語』『伊勢物語』は九世紀末から十世紀後半にかけて、『大和物語』『平中物語』は十世紀の中頃から後半にかけて、今の形に近いものが出来上がったと見られる。だから、一見、性格が異なるかに見えるこの四つの物語が一冊にまとめられることは必ずしも不適当ではない。
 今、「性格が異なるかに見えるこの四つの物語」と言ったが、従来「伝奇物語」と呼ばれたり昔話に近いものとして扱われてきた『竹取物語』と、「歌物語」と呼ばれて一括されてきた他の三つの物語とは、異なっている面が確かに多い。しかし、「伝奇物語」と呼び、「歌物語」と呼ぶのは、後代の研究者の所為であって、当時の人の分類や命名ではない。この四作品を一冊にまとめた我々としては、そのそれぞれの相違点よりも、四作品に共通するものを抽出することによって、この時代の物語の本質に迫ってみることが必要なのではないかと思うのである。
 ところで、『竹取物語』の書き出しを見ると、
いまはむかし、たけとりのおきなといふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。
というように、まず、「昔」という時代を設定し、続いて人物を紹介したのち、その人物の行動を述べる形で始まっている。
 また、『伊勢物語』において、その書名の因になったとされる第六十九段の冒頭を見ると、
むかし、男ありけり。その男、伊勢の国にかり使つかひにいきけるに、かの伊勢の斎宮さいくうなりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。
というように、まったく同じ形で始まっている。
 さらに、『大和物語』の後半部の諸段を見ると、
むかしくににすむ女ありけり。それをよばふ男ふたりなむありける。(第百四十七段)
むかし大和やまとくに葛城かづらきこほりにすむ男女 をとこをんなありけり。(第百四十九段)
というように、やはり、「むかし」という時代設定をした後、「ありけり」を用いて人物を紹介し、続いてその人物の行動を述べるという形で始まっているのであるが、これらは、まさしく、お伽話とぎばなし『桃太郎』が、「むかし、おじいさんとおばあさんがありました」と時代設定と人物紹介をした後、「おじいさんは山へ柴を刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」という行動の説明に入るのとまったく同様の「物語的」な書き出しの形をとっているということなのである。
 いっぽう、『平中物語』の第一段は、
いまはむかし、男二人して女一人をよばひけりさいだちてよりいひける男は、つかさまさりて、その時のみかどに近うつかうまつり、のちよりいひける男は、その同じ帝の母后ははきさきの御あなすゑにて、つかさは劣りけり。
というように、『竹取物語』と同じく「いまはむかし……」で始まっているが、人物紹介をしないままに行動説明に入ってしまう。しかし、その後は「さいだちてよりいひける男」と「のちよりいひける男」の紹介になっていて、前述した場合と共通したものを持っていることがわかる。
 それに対して、『大和物語』の前半部の諸段は、いささか異なっている。たとえば、
亭子ていじみかど、いまはおりゐさせたまひなむとするころ、……(第一段)
源大納言げんだいなごん宰相さいしやうにおはしける、……(第三段)
というような書き出しで始まっていて、「むかし……」とか「いまはむかし……」という形をとっていない。しかし、この場合も、二重傍線(本データ中は下線)によって示したように、「ころ」や「時」によって物語世界の時間設定をするとともに、「亭子の帝」「故源大納言」のように、当時の人が知っている人物を持ち出して、物語世界のリアリティを確固たるものにしているのである。
 ところで、『大和物語』前半部のこのような書き出しは、実は、『伊勢物語』の「むかし、惟喬これたか親王みこと申すみこおはしましけり」(第八十二段)や、「むかし、左兵衛さひやうゑ かみなりける在原ありはら行平ゆきひらといふありけり」(第百一段)と語り出す章段形式と同じ形だとも言える。その時に生きている人物を「むかし、……ありけり」というように過去の人物として紹介するはずはないから、これらの章段は惟喬親王や在原行平が没してから成立したであろうことは言うまでもないが、それでも『伊勢物語』の享受者は、当然、惟喬親王や在原行平のことを知っているから、冒頭の「むかし」は、すでに形式的なものになっていて、「惟喬の親王」や「在原の行平」の方が物語世界の時間設定に大きな役割を果たしているということなのである。加えて言えば、「むかし、男」と紹介されるだけであった『伊勢物語』の主人公が、「いかでこの在五中将にあはせてしがな」(第六十三段)と書かれたり、同じく「この男」と紹介されるのが一般的であった『平中物語』の主人公が、「まづ、平中」(第十四段)と記されたりしていることも、これに類した現象と言えるのではないか。「むかし、男ありけり」というような語り出しを超越した物語世界と現実世界の一体化がここに見られるのであるが、このような方法は、実は、伝奇物語などと言われていた『竹取物語』にも看取されるのである。
二 物語世界と現実世界
 すでに江戸時代に、田中大秀(一七七七~一八四七)の『竹取物語解』が指摘していることだが、かぐや姫に対する求婚者のうち、阿倍御主人あべのみうし大伴御行おおとものみゆき石上麻呂いそのかみのまろ(物語では石上麿足いそのかみのまろた)が実在人物であり、そろいも揃って、壬申じんしんらん(六七二年)の時代の重要人物であったという事実も、このような立場から見ると、別の意味を持ってくる。
 誰かがこの事実を知っていて、享受者に対して注釈的説明を加えるとき、冒頭の「いまはむかし」は、きわめて特定された「時」になってしまうからである。つまり、物語は「むかし、……ありけり」と語り出していても、それはきわめて特定された「むかし」であり、逆に言えば、その特定の人物が実際に活躍していた時代を朧化ろうかして「むかし」と言っているという見方も成り立つのである。『伊勢物語』第八十二段の「時世経ときよへひさしくなりにければ、その人の名忘れにけり」という韜晦とうかいした語り手のコメントも、そのように理解してこそ説明がつくと思うのである。
 それにしても、『伊勢物語』は実在の在原業平の事績として読み、『大和物語』前半部の実名章段は実名を記されているそれぞれの人物の事実たんとして読みながら、『竹取物語』の場合だけはまったくの絵空事えそらごととして読むのは、当時の物語の実態と方法に反した勝手な読み方ではないのか。これらの物語に共通するのは、実際にあったことを見聞した人が語ったりメモしたりしていたものをもとに、語り手が人々に語り聞かせるという伝承文学の方法である。『大和物語』の多くの章段に見える「こと人々のおほかれど、よからぬは忘れにけり」(第二十九段)、「御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり」(第百二十段)、「返し、上手じやうずなればよかりけめど、え聞かねば書かず」(第百三十五段)などは、主人公のそばにいた女房が傍にいたにもかかわらず、「忘れた」とか、「メモしなかった」と言っているのであろうし、「御返し、これにやおとりけむ、人忘れにけり」(第八段)や「いとうとましくおぼゆることなれど、人のいひけるままなり」(第百四十七段)は、この第一次伝承者とは別の第二伝承者(おそらくは語り手)のコメントと見てよさそうであるが、いずれにしても、今語っている物語世界は過去に実在していて、作者が創作したものではないというタテマエが大前提になっているのである。
 すでにあ った現実世界の一齣ひとこま、一エピソードを語り伝えようとする、この物語の方法は、『大和物語』の実名章段だけではなく、『竹取物語』においても見られる。人々がかぐや姫を一目見たいと思って夜這よるはうようにやって来たことから、今では「求婚」の意になっている「よばひ」という語が生れたのだと言ったり、石上いそのかみの中納言がつばめ の子安貝を取ることができずに「かひなし」と言ったことから「効果がない」という意の「甲斐かひなし」という語が生れたのだと言ったりするのは、物語に語られている「むかし」の世界と当時の享受者の世界が直接につながっているというところに物語のタテマエがあったことを示している。近代の小説が作者のペンの力によって作品世界を構築するのに対して、この時代の物語は、作者以前に語られるべき世界が実在し、作者に相当する人はそれを語りあげるだけという点に、大きな違いがあるということなのである。
三 物語は伝承文学
 以上のように伝承文学のスタイルをとっていることに、初期物語に共通する方法があるという理解を前提にすると、今まで見えなかった数々のことが見えてくる。
 伝承には必ず異伝がある。『伊勢物語』との重出章段をあえて保持している『大和物語』(第百四十九段、第百六十一~百六十六段)の意図は、まさしく異伝が存在し、その異伝を伝えるのが物語であるということを示しているし、蓬莱ほうらいの玉の枝を持ち帰ったのに、人々は優曇華うどんげ の花を持ち帰ったと誤解していたと述べることによって(二八~二九ページ)、優曇華の花を持ち帰ったとする他の『竹取物語』は誤伝であって、この『竹取物語』こそが正しい伝であることを示そうとしていたり、『古今集』恋・八〇七に典侍 ないしのすけ藤原ふじわらの直子なおいこの歌として伝えられている「あまのか も に住む虫のわれからとね をこそ泣かめ世をばうらみじ」を、『伊勢物語』第六十五段では、帝に思いをかけられている女が、男との情事が露見して蔵に入れられて折檻せつかんされている時に詠んだ歌として伝えたり、『後撰集』雑・一二一九では、延喜(九〇一~二三)の初めに活躍した藤原興範おきのりに対して檜垣ひがきおうなが詠んだ歌として採られているのに、『大和物語』第百二十六段では、天慶三年(九四〇)の純友すみともの乱にあたって九州に赴任した小野好古おののよしふるに対する歌として伝えられていたりするのも、伝承文学であるゆえに存在する異伝と見ることによって納得できるのである。
 『竹取物語』『大和物語』『平中物語』の三作品は、作者がわからない。『伊勢物語』も、原初形態はともかく、物語全体の作者は不明である。しかし、「むかし」の世界に起った事柄が、事実譚として語り伝えられて来たという立場に立てば、たとえば、『桃太郎』の話が誰かによって創作されたものではなく、昔から伝承されて来たものとされているのと同じように、作者がわからないのは当然であるとも言える。誰が創作したかと考えること自体、物語の本質から離れてしまうのである。(片桐洋一)
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