その後の公人家持
天平宝字六年(七六二)正月、
大伴家持は
因幡守から
信部大輔となって帰京した。在任期間三年半というのは短いほうである。信部省は
中務省の別名で、他の七省より格が上であり、その大輔(首席次官)となって、家持は少し面目を施す思いがしたのでなかろうか。しかも、その長官(
卿)は、家持より三歳年長で、これまで彼に好意的であった
藤原真楯(
八束)である。だが、真楯は四年後に、正三位
大納言兼式部卿で
薨じた。時に五十二歳、その死は朝廷の内外から惜しまれた。
真楯は北家の出だが、その従兄で南家出身の藤原
仲麻呂は、常々、真楯の徳望
篤いことを
嫉んでいた。反対勢力を次々に
却け、権謀術数にたけた仲麻呂も、後ろ盾と頼む光明皇太后の崩御を境に失速し、謀反を起したが、
近江国高島郡
勝野において敗死した。彼が担ぎ出した淳仁天皇(
舎人親王の子、
大炊王)も配所の
淡路で怪死する。あたかも、七年前に家持が「咲く花はうつろふ時あり」(四四八四)と
詠んだのが的中したような結果となったわけである。しかし、奈良朝末期の政界がそれで浄化したのではない。入れ代りに台頭した怪僧
道鏡が法王となって実権を握った。その道鏡も、
宝亀元年(七七〇)に彼を支えた称徳天皇(孝謙)が崩ずると失脚し、故
志貴親王の子、
白壁王が推されて皇位に
即く。光仁天皇がそれで、これまで天武天皇の系統が占めていた皇位が天智天皇の子孫の手に戻ったことになる。
その間、家持はさまざまの官職を歴任するが、位階は黄金出現の年、天平
勝宝元年(七四九)従五位上に進んだきり、二十一年間据え置かれていた。
真楯がこの一階を二年半で通過したのに比べて、大変なスローペースである。その原因は、必ずしも
仲麻呂らの、
橘・
大伴氏を中心とする一派に対する抑圧とばかりも考えられない。とにかくその
宝亀元年(七七〇)にやっと正五位下となり、翌二年に従四位下に叙せられて、遅過ぎた春が
家持の上に訪れたのである。
天応元年(七八一)四月、光仁天皇は皇太子
山部親王に譲位、
桓武天皇の代となり、
早良親王が皇太子に立てられる。家持は右京
大夫兼東宮大夫正四位上となり、その年の冬十一月従三位に進んだ。三年後の
延暦三年(七八四)十一月、長岡京に遷都する。家持が
薨じたのはその翌四年八月二十八日で、時に
中納言従三位兼東宮大夫、
陸奥按察使鎮守府将軍でもあった。年六十八歳。死後二十余日、その
屍が葬られないうちに、
藤原種継暗殺事件が起り、その主謀者大伴継人・竹良らに連なるという縁で除名された。皇太子(東宮)側の人でもあり、不利な立場であった。ただし、翌年復位する。
万葉集の欠落あれこれ
家持が
天平宝字三年(七五九)に万葉集最後の歌を
詠んで以後、延暦四年まで二十六年間に歌を作らなかったとは考えられない。ただ、百人一首にも入れられている、
かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
は、『家持集』という家持と無縁な歌集の中にあるが、家持の実作とは認められない。しかし、それと関係なく、万葉集の自作歌ないし周辺の人々の歌を、折に触れて、直したり、また削ったりしたのでないかと思われる。
即ち、十代の若書きの自作を、後年に至って、未熟と反省して削ったとおぼしい証拠がある。たとえば、巻第四・
相聞・五八一の題詞。原文で示せば、
大伴坂上家之大娘報二贈大伴宿祢家持一歌四首(大伴坂上家の大嬢が大伴宿禰家持に報へ贈る歌四首)
とあって、その中に「報贈」と見えることから推して、この前に家持からの贈歌何首かがあったと考えられる。それを後年、稚拙と認めて削ったに違いない。時には、後に家持と結婚する坂上大嬢の歌を、当人の要求によってか、削除することもある。大嬢の母、
坂上郎女が
跡見の荘園から奈良の留守宅の娘に贈った歌(七二三・七二四)のあとに、
右歌、報二賜大嬢進歌一也(右の歌は、大嬢が進る歌に報へ賜ふ)
とあるのがそれである。同じようなことが、六二七の前の
佐伯赤麻呂、七六九の前の
紀女郎、七八六の前の
藤原久須麻呂の歌についても言えよう。これらは皆、家持周辺の人と考えられ、削らないと不名誉だとか、あまりに個人的な関係が表面化するとかの考慮から、関係者であり、
編纂者でもある家持の裁量で除いたと考えられる。
以上挙げたところは、巻第十六以前の諸巻における削除であり、あるいは
越中滞在中などの宝字三年以前の手入れと考えることもできよう。しかし、巻第十七以降の四巻の上に同じようなことがあれば、宝字三年より後の削除の可能性が高かろう。ただ、この四巻中の件数は二つで、共に書写段階に至って誤脱したとも考えられないところがある。その一つは巻第十八・四一三一の左注の、
右歌之返報歌者、脱漏不レ得二探求一也(右の歌の返報歌は、脱漏し探り求むること得ず)
である。これは、もと越中国
掾で、その後、
越前国掾に
遷った大伴
池主が書いた、訴状紛いの戯文と戯歌(四一二八~四一三一)に対する、家持からの返信が散逸して見つからない、という断り書である。対池主に限らないが、家持の元に届いた
書翰や歌が残るのは当然として、家持から出した書状類は、控えを取っていたのか、あるいはあとで返却してもらったものか、他のはほとんどすべて残っている。残っていないのは、これと巻第五の八六四の前の、大伴
旅人が都の
吉田宜に梅花歌三十二首と「
松浦川に遊ぶ序」とを贈るのに添えた
書翰である。その実作者は
山上憶良かもしれないが、それはこの際、問う所でない。その中身を
宜の返信の中から一部復原すると、
……辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落とす……
というような泣き言を吐露してあったのだ、ということが分る。それから類推して、
家持も
池主の悪ふざけに対して、多少感情的なことを言い贈り、後に気がとがめて、散逸したと見せかけた可能性が大きいのでないか。その削除の時期を特定できないが、
橘奈良麻呂の変の主謀者の一人として逮捕された池主が、多分、刑死したと思われる、それ以後かと想像される。
もう一つの「散逸」は、家持が
越中守を辞して上道する時に、下僚を代表して次官の
内蔵縄麻呂が
詠んだ「
盞を
捧ぐる歌」(四二五一題詞)である。家持の失念でない、と言い切れないが、あるいは、
掾の
久米広縄などに比べて多少、歌に
不堪であったとも考えられる縄麻呂の歌の拙劣さをカバーしての工作ではないか。
後日推敲して差し替え
削除のほかに、差し替えたと思われるものが、古写本の上に残ることがある。これも家持関係に限られるようである。即ち、家持から池主に贈られた書翰類に限って見られ、池主から家持への返信には絶えてその事がない。巻第十七の(A)三九六二・(B)三九六九・(C)三九七六の各歌の前文がそれであるが、今はその最後の(C)だけ取り上げよう。右図に示したものは紀州本(部分)で、次にそれの書き下し文を示す。上に示した記号(X)・(Y)・(Z)は大体の段落を示す。
(X)昨暮の来使は、幸しくも晩春遊覧の詩を垂れたまひ、今朝の累信は、辱くも相招望野の歌を貺ふ。一たび玉藻を看るに、稍く鬱結を写き、二たび秀句を吟ふに、已に愁緒を蠲きつ。この眺翫に非ずは、孰か能く心を暢べむ。但惟下僕、稟性彫り難く、闇神瑩くこと靡し。翰を握り毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘れ、終日目流して、これを綴るに能はず。所謂文章は天骨にして、これを習ふに得ず。
(Y)豈字を探り韻を勒さむに、雅篇に叶和するに堪へめや。抑鄙里の少児に聞くに、古人は言に酬いずといふことなしといへり。聊かに拙詠を裁り、敬みて解咲に擬らくのみ。
(Z)如今言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。豈石を将ちて瓊に間へ、声に唱へ走が曲に遊ぶに殊ならめや。抑小児の濫りなる謡の譬し。敬みて葉端に写し、式て乱に擬りて曰く、
これを書いたのは
天平十九年(七四七)三月五日だが、その二日前にも家持は(B)を池主に書き贈っている。この(Z)部は、大部分の
仙覚本(
寛元本・
文永本とも)が小字二行割書きにしており、広瀬本も不徹底ながらそれに近い書式になっている。ところが、元暦校本にはこの(Z)部がない。(Z)部は(Y)部の別案、と言うより初案であり、池主へ贈ったのは(X)+(Z)の形であったろう。それが(X)+(Y)+(Z)と並ぶ本は(Z)の消し忘れである。しかも、注目すべきことに、(Z)の中にある「石を将ちて瓊に間へ」の句は、二日前の(B)の終り近くにも見える。恐らく
編纂段階で捨てるに忍びず、そちらに移したのである。
推敲した揚句の差し替えであろう。
歌詞の差し替えも少ないながらある。その一つは、巻第十九の初めのほう、天平
勝宝二年(七五〇)三月三日、家持の
館で
飲宴した時の彼の作、ここは第五句だけ原文で示せば、次の如くである。
漢人も筏浮べて遊ぶといふ今日そ我が背子花縵世余(四一五三)
広瀬本と仙覚寛元本とにはかくあり、
元暦校本も「余」であるらしい。しかし、
類聚古集と底本など文永本系の諸本には「世奈」とあり、旧全集本はそれを採った。しかし、
家持が下僚に呼び掛けた歌には「いざ
打ち
行かな」(三九五四)とも「馬しまし
止め」(四二〇六)ともあり、ナを用いた勧誘も、命令表現そのものもあるが、対象たる「我が背子」の語があれば、「せよ」のほうがふさわしかろう。もっとも、これには「奈」と「余」とが字形の上で相近く、誤写の可能性がなくもない。
それに比べると、巻第二十の長歌「
防人が
悲別の
情を
陳ぶる歌」(四四〇八)の中の三分の一辺り、
……ちちの実の 父の命は たくづのの 白ひげの上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく 鹿子じもの ただひとりして 朝戸出の かなしき我が子 あらたまの 年の緒長く 相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問ひせむと 惜しみつつ 可奈之備麻世婆 若草の 妻も子どもも……
この「可奈之備麻世婆」の部分にもう一つの異文がある。このマセバと同じなのは、底本などの
仙覚文永本の系統と広瀬本および多少不確実な点はあるが
元暦校本である。ところが、神宮文庫本などの
寛元本とその末流に属する
寛永版本などには「可奈之備伊麻世」とあり、
類聚古集もその側に付くと思われる。このイマセはいわゆる已然形で言い放つ法で、上代語に珍しくない語法だが、それは概して原因・理由を表す。家持も「帰り
来て しはぶれ
告ぐれ」(四〇一一)、「
金ありと
申したまへれ」(四〇九四)その他、三九六九・四一一一・四一二一などに用い、いずれも理由格を表している。家持はこのやや古風な確定条件の使用を好んでいたのでないかと思われる。しかし、右の場合は理由格では続かず、並立する複数の事柄の同時進行であり、イマセでは不適当だ、と家持は後に気づいたのでないか。その気づき・修整の時期の割出しは困難だが、あるいは
天平宝字三年(七五九)より後れるのではなかろうか。
家持がその晩年というべき時期にこのような手直しをしたのでないかと推測するわけは、原本が単一でなく、少しずつだが変化し、そのつど派生した結果、今日の多様な異文が生れた、と考えるからである。