古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

たちばな柑子こうじの話

第37巻 今昔物語集(3)より
『今昔物語集』を読んでいると、時折、他の作品のとある場面が想起されたり、どこかで出会った気がする類似のプロットの展開に驚きをおぼえたりすることがある。そのような時はあれこれ妄想が湧き上り、しばし『今昔物語集』から離れて、とりとめのない連想の渦の中で、探索の糸を紡ぎ出す時間をもつこととなる。ここに取り上げるのも、そのような妄想のひとこまで、時を超えて、古典世界の脇道わきみち彷徨ほうこうしたものにすぎない。
庵の前の橘の木
『今昔物語集』巻二十第三十九話「清滝河奥聖人成慢悔語」は、清滝川きよたきがわの奥にいおりを結んで修行していた僧が験力で水瓶すいびようを飛ばしては水を汲みつつ、自分の験力に慢心していたところ、上流に水瓶を飛ばす有験うげんの僧がいることを知り、ねたんでその庵に押しかけ、火界かかいじゆをもって挑んだが、逆に身を焼く苦しみを味わわされ、慢心を悔い改めたという内容の話である。この清滝川の僧が水瓶の行方を追跡し、上流に住む老僧の庵を発見する場面を、『今昔物語集』は次のように描写している。
 レバ、わづか奄見いほりみユ。ちかよりテ見レバ、三間許さむげんばかり奄也いほりなり持仏堂及ぢぶつだうおよ寝所しむじよナドリ。いほり体極ていきはめ貴気也たふとげなりいほりへニ橘木有たちばなのきあリ。した行道ぎやうだう跡踏あとふケタリ。閼伽棚あかだなしたニ、花柄多はながらおほつもりタリ。いほりうへニモにはニモ苔隙無こけひまなヒテ、年久としひさしク、かみタルこと無限かぎりなシ。
 庵のたたずまいはいかにも閑寂で、聖の住居にふさわしく、尊い雰囲気が漂っている。庭はこけに覆われ、閼伽棚には花が備えられていた形跡がある。庵の前には橘の木が植えられ、その周囲を行道ぎようどうした足跡が残っていたという。どこかで見たような光景である。そう、すぐさま想起されるのは、隠遁聖いんとんひじりの庵のありさまを描いた『徒然草』第十一段である。そこでは次のように記されている。
 神無月かみなづきころ栗栖野くるすのといふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、はるかなるこけの細道をふみわけて、心ぼそく住みなしたるいほりあり。うづもるる懸樋かけひのしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚あかだなきく紅葉もみぢなど折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子かうじの木の、枝もたわわになりたるがまはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
 この章段は直接体験の回想の助動詞「き」を用いて記されているので、述主である兼好けんこう法師の体験に基づくものと解釈されている。兼好が初冬の十月ごろ、栗栖野を通り過ぎて山里深く分け入った時のことである。遥かに続く苔に覆われた細道のかなたに、いかにももの寂しげに住みなした庵がある。閼伽棚には菊・紅葉が折って散りばめられている。兼好は庵の主の清貧な隠遁生活をしのんで感嘆し、このような生活が理想的であると思っていると、向こうの庭に大きな柑子の木があり、枝もたわわに実がなっている。ふと見ると、その木の回りをさくが厳重に囲ってあるではないか。それを見た瞬間、庵の主の物欲がほの見えて、少々興ざめしたというのである。
 本段は家居のありさまと住人の人柄との関係を説いた第十段を受けて記述されている。体験談の体裁をとっているとはいえ、いささかその構成ができすぎているとの感が深い。『今昔物語集』とでは、橘の木と柑子の木の相違があるものの、両者の庵の光景はあまりによく似た構図である。『今昔物語集』と同文的同話が『宇治拾遺物語』第百七十三話にも見えるので、このような庵のたたずまいが典型的なものとして、兼好の脳裡のうりに刻まれていたのではあるまいか。
 ところで、修行者や隠遁者は庵の庭に橘(あるいは柑子)の木を植えるのが常であったのであろうか。そのあたりを少々探ってみよう。『今昔物語集』巻十三第四十二話「六波羅僧講仙聞説法花得益語」は、六波羅蜜寺ろくはらみつじの住僧講仙こうぜんが僧房の前に植えた橘の木が成長し、枝も茂って花が咲き、実を結ぶようになったのを愛惜し、蛇に転生したという話である(出典は『大日本国法華経験記』上巻第三十七話)。また、『発心集』巻八第八話には、ある僧の家に植えられた橘の木がたくさんの実をつけ、美味であったため、隣に住む重病の尼が食べ尽したいと願って死に、虫に転生してしまった話を載せる。ともに僧房の前には食用としての橘の木が植えられている。橘はミカン科の常緑小喬木で、秋に直径二~三センチの黄金色の実をつける。その味は酸味が強く、食用にはあまり適さないが、非常時の食用として、あるいは滋養強壮、薬用のために植樹されたのではなかろうか。
三つなりの橘
 橘は古代では「ときじくのかくの木の実」(古事記・中巻・垂仁天皇の条)といわれ、常世とこよの国からもたらされた霊妙な果実、つまり招福、長寿の縁起物として珍重されていたようである。時代は下って、『曾我物語』巻二「時政が女の事」には次のような著名な伝承が見られる。北条政子まさこは妹が見た
 たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ、橘の三なりたる枝をかざす
という夢を買い取り、その後、源頼朝よりともと結婚して、北条氏の栄華を招いたというのである。また、『八幡宮寺巡拝記』第二十四話「橘奇瑞の事」は、ある入道が石清水いわしみず八幡宮に月参りして三つなりの橘を授かったが、その帰途、ともにもうでた男にそれをわれて拒否し、「橘ヲマイラスルゾ」と言葉の上だけで譲ったところ、男は次第に栄えたが、入道は幸運にも恵まれなかったという話である。これらの説話伝承から、橘(とくに三つなりの橘)は招福、致富のシンボルとして信仰されていた事象がうかがい知れる。先述の『今昔物語集』巻二十第三十九話の清滝川の上流に住む聖の庵に植えられていた橘の木の背後には、このような信仰、縁起物としての意味合いが隠れていたのかもしれない。
三つの大柑子
 一方、『徒然草』第十一段では橘の木ならぬ、枝もたわわに実のなった柑子の木であった。柑子はコウジミカンで、ミカン科の常緑小喬木、在来ミカンの一種である。果実は偏平で温州うんしゆうミカンより小さく、味は淡白である。古くから栽培され、食用にもなっていたという。柑子といえば、「わらしべ長者」の話が思い起されよう。『今昔物語集』巻十六第二十八話「参長谷男依観音助得富語」に見える話がそれである(同話は『古本説話集』下巻第五十八話、『宇治拾遺物語』第九十六話にも所見)。父母も身寄りもいない貧乏な青侍が、長谷寺はせでら観音に救ってくれるようにと祈願して夢告を受け、寺から退出する際に最初に手にした藁しべ一本から、次々に物々交換を重ねて、富裕の身となり、幸福を得たという致富譚である。青侍が藁しべにあぶをくくりつけて持っていると、長谷寺に参詣さんけいする女の子供がそれを欲しがり、大柑子三つと交換する。この三つの大柑子は先述した三つなりの橘と同様に、招福、致富のシンボルで、これ以後、青侍はとんとん拍子に有利な交換を繰り返し、富裕な身への道を歩む。すなわち、その後、この三つの大柑子は疲労こんぱいして長谷寺に参詣する高貴なお方ののどを潤し、青侍はそのお礼として美しい布三反をちょうだいする。それから以後は、馬、水田と交換して富裕の身となったわけである。ちなみに、この大柑子は具体的には夏ミカンの類をさすかと考えられる。
 三つの大柑子に関する話としては、『世継物語』第四十二話に以下のような吉兆の夢合せ譚がある。宇治殿藤原頼通よりみちが大柑子三つの夢を見たところ、夢解きが三頭の牛が現れると解く。これを藤原有国が知り、せっかくの良夢を悪く合せたとして、再び夢合せを試み、三代の天皇の関白になると予見した話である(同話は『雑々集』上巻第十二話にも所見)。ここでの三つの大柑子は吉兆のしるしであり、大いなる立身栄達のシンボルになっている。
 また、先述した喉の渇きを潤す柑子については、『撰集抄』巻六第一話に見られる真如しんによ親王渡天説話が浮んでくる。すなわち、平城天皇第三皇子の高岳たかおか親王(法名真如)にまつわる説話である。真如親王は仏法を求めて渡唐するが、唐には優れた師僧がおらず、天竺てんじく(インド)まで行こうと決意する。唐の皇帝は真如の志に感激して、種々の宝物を賜る。その中に三つの大柑子が出てくるのである。
 もろこしの御門、渡天の心ざしをあはれみて、さまざまの宝をあたへ給へりけるに、「それよしなし」とて、皆々返しまゐらせて、道の用意とて大柑子三つとヾめ給へりけるぞ、聞くもかなしく侍るめる。
とある。真如は皇帝から賜った宝物をちょうだいできないとして返上し、ただ大柑子三つを道中の非常用の糧として留め置いたという。天竺までの大旅行に大柑子三つを携行して出かけるのは無謀であるとともに、非現実的である。ここでの大柑子は招福のシンボルというより、予想される飢えと渇きをいやしてくれる無尽蔵の宝物(宝珠)を意味していよう。なお、この大柑子の具体的イメージとしては、いわゆるコウジミカンではなく、鹿児島をはじめとする南方産の文旦ぶんたんのような柑橘かんきつ類ではなかったかと想像する。水分が多く、表皮まで食用となり、日もちがするからである。
 さて、その後、真如親王がいかなる運命をたどったかについては、『閑居友』上巻第一話に詳しい。そこでは次のように記される。
 渡り給ひける道の用意に大柑子を三つ持ち給ひたりけるを、つかれたる姿したる人出で来て乞ひければ、取り出でて、中にも小さきを与へ給ひけり。この人「おなじくは大きなるをあづからばや」といひければ、「我はこれにて末もかぎらぬ道を行くべし。汝はこヽのもと人なり。さしあたりたる飢ゑをふせぎては足りぬべし」とありければ、この人、「菩薩の行はさる事なし。汝、心小さし。心小さき人の施すものをば受くべからず」とて、かき消ち失せにけり。親王あやしくて、化人の出で来て、わが心をはかり給ひけるにこそ、とくやしくあぢきなし。
 さて、やうやう進み行くほどに、つひに虎に行きあひて、むなしく命おはりぬとなん。
 天竺に渡る途中で一人の飢人が現れ、真如に大柑子を乞う。真如は今後の道中の苦難を考えて、惜しんで小さいほうを与える。すると、飢人はその行為を菩薩ぼさつ行に当らぬと非難し、真如を心の狭い人であるとののしって消え失せたという。いうまでもなく、この飢人は仏菩薩の化人で、真如の心を試すために現れたのである。真如は自分の心の狭量を恥じ、残念に思う。その後、真如親王は虎に襲われて、尊い命を失ったと伝えられている。
 仏菩薩の化人が現れて人の心を試すというモチーフは、玄奘三蔵げんじようさんぞうが瘡病人の膿汁を吸いねぶり、観音から『般若心経』を授かる話をはじめ、聖徳太子の片岡山説話、光明皇后の湯屋の話などが想起されよう。虎に襲われて命を奪われる話は、薩埵さつた太子の捨身飼虎の布施行譚がこれに当ろう。次から次に新たな連想がふくらんできて、脇道にそれて行ってしまう。とりとめのない彷徨はこのあたりで止めておこう。
 それにしても、『徒然草』第十一段の枝もたわわになった柑子の木には、はたしてどれほど招福、致富、吉兆、栄達、無尽蔵の宝物、などのシンボルとしての意味がこめられていたであろうか。ただ単に、庵の主の食用として植樹されたにすぎなかったのであろうか。
 『今昔物語集』をひもといて、このように勝手な妄想に耽りながら、探索の小道を彷徨して時を過すのも、読む行為の一つなのかもしれないと思っている。(稲垣泰一)
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