第八勅撰和歌集である『新古今和歌集』は、最古の歌集である『万葉集』、第一勅撰和歌集である『古今和歌集』と並んで
屹立している名歌集である。そのうち、『万葉集』と『古今和歌集』との間には、漢詩文全盛時代という断層があるが、『古今和歌集』と『新古今和歌集』とは一つづきの伝統を形作っている。その伝統の中で、『古今和歌集』は知性のまさった抒情で、『新古今和歌集』は感性のまさった抒情で、それぞれに美しく花開いた。
ところで、『新古今和歌集』成立の直前まで、九十一歳という長寿を保って、第一線歌人たちを育成した大歌人藤原
俊成は、第七勅撰和歌集である『千載和歌集』を文治三・四年(一一八七・一一八八)に後白河院に撰進してのち、建久八年(一一九七)に
式子内親王にさしあげた『
古来風躰抄』の中で、『古今和歌集』について、
延喜の聖の帝の御時、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑などいふ者ども、この道に深かりけるを聞こし召して、勅撰あるべしとて、古今集は撰び奉らしめ給ひけるなり。この集の頃ほひよりぞ、歌の善き悪しきも撰び定められたれば、歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり。
と述べ、また、重ねて、
万葉集は、時世久しく隔たり移りて、歌の姿詞、うちまかせて学び難かるべし。古今こそは、本躰と仰ぎ信ずべきものなれば……
とも述べている。ここには、俊成らの寄って立つ和歌伝統の本体(本源)が『古今和歌集』にあるということの確信が示されているのである。
その確信は、『古今和歌集』の歌に即しては、以下に列挙するような「評言」の中に明らかにうかがわれる。
旧年に春立ちける日詠める 在原元方
(1)年のうちに春は来にけり一年を去年とやいはん今年とやいはん(春上)
〔評言〕この歌、まことに理強く、またをかしくも聞えて、有難く詠める歌なり。
春立ちける日詠める 紀 貫之
(2)袖ひちてむすびし水の氷れるを春立つ今日の風や解くらん(春上)
〔評言〕この歌、古今にとりて、心も詞もめでたく聞ゆる歌なり。「ひちて」といふ詞や、今の世となりては少し旧りにて侍らん。「つも」「かも」「べらなり」などはさることにて、それより次々少しかやうなる詞どもの侍るなるべし。
題しらず 読人しらず
(3)梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ(春上)
〔評言〕これらは、今の世にもいみじくをかし。
歌奉れと仰せられし時詠みて奉りける 紀 貫之
(4)桜花咲きにけらしもあしひきの山の峡より見ゆる白雲(春上)
〔評言〕「けらしも」と言へるも、この歌には限りなくめでたく聞ゆ。
弥生の晦日雨の降りけるに、藤の花を折りて人に遣はしける 業平の朝臣
(5)濡れつつぞ強ひて折りつる年のうちに春は幾日もあらじと思へば(春下)
〔評言〕「強ひて」と言ふ詞に、姿も心も、いみじくなり侍るなり。歌は、ただ一詞に、いみじくも深くもなるものに侍るなり。
志賀の山越えにて、石井のもとにてもの言ひける人に別れける時詠める 紀 貫之
(6)むすぶ手の雫に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな(離別)
〔評言〕この歌、「むすぶ手の」と置けるより、「雫に濁る山の井の」と言ひて、「あかでも」など言へる、大方すべて、詞、ことの続き、姿心、限りなく侍るなるべし。歌の本躰は、ただこの歌なるべし。
五条の后の宮の西の対に住みける人を、行方知らずなりて、またの年、梅の花盛りに、月の傾くまで、あばらなる板敷きに臥して、去年を恋ひて詠みける 業平の朝臣
(7)月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして(恋五)
〔評言〕「月やあらぬ」と言ひ、「春や昔の」など続ける程の、限りなくめでたきなり。
題しらず 読人しらず
(8)ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ(羇旅)
〔評言〕柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり。
題しらず 読人しらず
(9)恋すればわが身は影となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ(恋一)
〔評言〕この歌などは、ただこの頃の人の歌のめでたきにて侍るなり。
(2)・(9)は、『古今和歌集』内だけのすぐれた歌ということになるが、(4)・(5)は、特にことばのすぐれた生かし方に注目される歌であり、(1)は、『古今和歌集』時代に求められた知的興趣がきわだちつつ光芒を放つ歌であり、(3)・(8)は、時代を越えた味わいのある歌であり、(6)・(7)は、情感から発想・表現にわたって創造性の豊かな歌であるということになるであろう。
『古今和歌集』の歌をこのように見た俊成は、『古来風躰抄』が書かれた時の二年前、建久六年(一一九五)に催された「
民部卿家歌合」には、
大方は、歌は、必ずしも、絵の処のものの色々の丹の数をつくし、つくもつかさのたくみのさまざま木の道を彫りすゑたる様にのみよむにあらざる事なり。ただよみもあげうちもながめたるに、艶にもをかしくも聞ゆるすがたのあるなるべし。たとへば、在中将業平朝臣の、「月やあらぬ」といひ、紀氏の貫之、「雫に濁る山の井の」などいへるやうによむべきなるべし。
と述べており、『古来風躰抄』には、
歌のよきことをいはんとては、四条大納言公任卿は金の玉の集と名付け、通俊卿の後拾遺の序には、「ことば縫物のごとくに、心海よりも深し」など申しためれど、必ずしも錦縫物のごとくならねども、歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。
と述べている。
俊成は、さらに、この二つの言説から深まって、建久末年ごろに成った「
慈鎮和尚自歌合」には次のように述べている。
おほかたは、歌は、かならずしもをかしき節を言ひ、事の理を言ひ切らんとせざれども、もとより詠歌といひて、ただ読みあげたるにも、うち詠めたるにも、なにとなく艶にも幽玄にもきこゆる事有るなるべし。よき歌になりぬれば、その言葉姿の外に景気の添ひたる様なる事の有るにや。たとへば、春の花のあたりに露のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどする様なる事の泛びて添へるなり。常に申すやうには侍れど、かの「月やあらぬ春や昔の」といひ、「掬ぶ手の雫に濁る」などいへる也。なにとなくめでたくきこゆる也。
かやうなる姿詞に詠み似せんと思へる歌は、近き世には有りがたき事なるを、この近き年より此のかた見え侍る御百首ども、且つはこの御歌合などこそ、まことに有りがたきこととは見え侍れ。
ここには、『古今和歌集』からの和歌伝統に立つ創造的いとなみの究極として到達した幽玄美が、具体的に、かつ克明に語られている。
『新古今和歌集』はこういう美学に支えられて成立したことになる。
「慈鎮和尚自歌合」が成立してから間もない建仁元年(一二〇一)六月には、第一線歌人三十名が動員された、後鳥羽院主催の空前絶後の大歌合「千五百番歌合」の百首歌が詠進されているし、同年七月には、『新古今和歌集』撰定のための和歌所が設置されているのである。