「古典への招待」といった場合の「古典」という概念について一言しておかなければならない。一般に、古代、奈良時代から近世後期、明治初年にいたるまでの間に現れた重要典籍を広く古典の名で呼んでいるというのが、「古典」の用語法に最も近いといってよいであろう。それならば、その内でも歴史的価値の認められているものについては、義務教育の間に、だれしも一度は目に触れているのである。先の第二次世界大戦の末期に、国民学校を
卒えた私の世代の国定国語教科書は、もとより時代の影響を強く受け、国家主義的・軍事的色彩を濃厚にもっており、とくに高学年の教科書には、戦時読本としての特色が著しく現れていた。そのような緊迫した時期にあっても、六年生用の「初等科国語八」には、例えば『源氏物語』(若紫の巻の「
雀の子」のくだりの現代語訳)や「
末広かり」(本書収載曲)といった“古典への招待”が盛り込まれていた。つまり、あの時代にあっても、“古典への招待”状が国民学校の児童に向けて発せられていたのである。しかしながら、平和な現代においても、小学校時代に刷り込まれたはずのそれの原体験が生かされる事例は必ずしも多くはない。
この『狂言集』はもとより、「新編日本古典文学全集」を手にしている人、一人一人は、招待状に新たに応じたことになるわけだから、今後どのようにこの本に接し鑑賞するかは、やはり一人一人の、招待状の受け取り方の問題である。『狂言集』の場合、人によっては、友人の出演する狂言の会の前後に、セリフを確かめるために読んでおくといったこともあるであろうし、たまたまテレビで目にした、古典芸能としての狂言についてもっと知っておきたいということもあるであろう。きっかけはさまざまであり、それぞれの動機に合せて読めばよいのであるが、古典に接するモチベーションのバラエティーの多さは狂言が第一であろう。そのことの背景に、現代にも行われている、比較的身近な「古典芸能」であること、
短篇読み切り的であること、しかも、そこで使われている「古典語」も現代日本語の知識でほとんど理解し得るといった、形式的にも親近感があることを基層として、その詳細については、本書巻末「解説」を参照願うとししよう。
この“古典への招待”では、古典、この場合、狂言が「あづまぢ」に「生ひ出でたる」一女性をいざなった物語、狂言とのかかわりになるにいたったことについて語ってもらうという趣向を採ってみたいと思う。つまり、“古典への招待”とは、古典が「我々」を招待してくれたという意味に解してみたいのである。換言するならば、第一線の大学教授の高所からの視線でなく、むしろ招待されたばかりの立場、読者により近い「目線」で古典を
視てみて、古典のほうが、どのようにこちらを包容してくれるかということを伝えようとするのである。狂言風に、
「そなたの、狂言をすいた由来が聞きたいほどに、あらあら略してお語りあれ。
という求めに応じて、以下の、新進の狂言研究者であり、自身も演技者である川島朋子が語ったところ――「古典への招待の物語」を読みながら、その行間に
滲み出る、狂言の魅力を感得していただこうと思う。このようなアイディアによる“古典への招待”なら、泉下の北川忠彦さんもきっと賛成してくださるに違いないと確信している。
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しばしば「どうして狂言を習い始めたのか」「なぜ狂言を研究しようと思い立ったのか」という質問を受けることがある。また、どちらを先に始めたのか、と尋ねられることも多い。研究しているから習うようになった、あるいは、習っていたから研究を始めた、そのどちらかであると思われるらしい。しかし、時期的に研究のほうが先行しているものの、「研究をしていたから習い始めた」という回答は私にとって正確なものではない。幾度となく話してきた、狂言との出会いを、いま一度振り返ってみたい。
思えば京都大学に入学するまで、狂言を見たことなど一度もなかった。知っている狂言といえば、小学校の国語の教科書で読んだ「
附子」(本書収載曲)のみであった。初めて実際の狂言の舞台に触れたのは、大学二回生の六月、平安神宮での「京都薪能」においてである。当時履修していた、京都大学総合人間学部・村形明子先生の教養課程の英語の授業は、能にかかわるフェノロサ関係の資料を扱うものであった。授業中に「
釣狐」のビデオなどを見た記憶がある。その授業のレポートを書くために初めて薪能というものに足を運んだのであるが、日が暮れて
篝火のともった後の能の幻想的な美しさには、
茫然と見とれるばかりであった。もっとも、
謡の内容はまったく聞きとれなかったのである。そして、狂言が始った時、能とは別の衝撃を受けた。ことばが分る、という驚きである。会場も笑いに包まれて、狂言とはこれほど分りやすくおもしろいものなのか、と初めて認識したのであった。演目は「
二人袴」、
聟と親は、
茂山千作(当時、
千五郎)師と私の狂言の師匠となる
千三郎師であったと、後になって
甦ってくる、印象深い舞台である。
しかしながら、このことから狂言にのめり込んでゆくわけではなかった。たまたま薪能という、やや特殊な場で接することができたものの、能や狂言が、日常、気軽に見られるものであるとは思っていなかったのである。
それから一年以上たって、三回生の秋、また狂言に接する機会に巡り合う。もともと神社仏閣を見て回るのが好きであるために京都の大学を選んだほどだから、折に触れて寺社を訪れていた私は、もうほとんどの名所は行き尽していたが、
壬生寺にはまだ行ったことがなかった。ガイドブックなどを見ると「壬生狂言」というものが春秋に奉納されている。せっかくならば行事の行われている時にと思い、公開時期に訪れた。壬生狂言はセリフのない無言の宗教劇であり、能や狂言の題材もいくつか取り入れている。そのユーモラスな演技、
囃子の素朴さに魅せられ、何時間も一人で見入っていた。
そんな感動も覚めやらぬ折に「狂言三笑会」の宣伝を見つけ、「狂言」の文字に反応して早速行くことにした。九百円という料金は当時の私でもすぐ決断できる手ごろだったのである。もちろん、壬生狂言は狂言とはいっても、能狂言の狂言とはまた異なる性格をもつ芸能であるとは、当時の私は知る由もなかった。しかし、それは、さして重要なことではなかったのである。
さて、三笑会とは
茂山千五郎家の弟子でプロの狂言師である、網谷正美・丸石やすし・松本薫の三師が主催する会で、京都府立文化芸術会館の三階の和室で行われている。畳の上であるから、能舞台とは違い、観客と同じ高さで演者が演じる。そのせいもあるのだろうか、不思議に演者と観客との間の壁がなく、アットホームな雰囲気も手伝って、ほんとうに大笑いした。なんて狂言は楽しいものなのだろう。その日の演目は忘れもしない「
鐘の
音」と「
宗論」であった。これを機に、狂言のおもしろさにすっかり取りつかれてしまう。
それ以来、京都
観世会館の近くという恵まれた所に下宿していることもあり、狂言の会のみならず、能の会で一番演じられる狂言を見るために能の会に行く、ということもした。もちろん狂言だけを見るわけではなく、週末の一日を能楽堂で過すといったようなこともしばしばであった。その頃、何の知識もなく能や狂言に接した体験は、今でも役に立っていると思うし、何よりもいい思い出である。
その当時、国語学国文学専攻に進学していた私は、そろそろ卒業論文のテーマについて考えなくてはならない時期にきていた。専攻を選ぶ時点でも迷ったあげくにやっと国文学に決めたほどであったから、具体的にやりたいことがあったわけではなかったのだが、ただ漠然と中世という時代には
惹かれていた。能や狂言を見ながら、分らないことや疑問に思ったことを調べながらも、テーマとして扱おうとは考えもしなかったのであるが、書き進めるうちに、結果的にその中心が狂言へと移っていったというというのが実のところである。
茂山
千三郎師との御縁は大学院入学後すぐに訪れた。師がDJをつとめるFMラジオ局の番組に出した一枚の応募葉書に添えたメッセージがきっかけである。それは、よく狂言を見に行くが自分でもやってみたい、どうしたらできるのか、という内容であった。狂言の素人会にもしばしば顔を出していた私は、いつしか見るだけでは飽き足らず、実際に演じてみたいと思うようになっていたのである。素人会では、セミプロ級の人もいる一方で、セリフを忘れてしまうなどのハプニングも絶えない。ただ、どの人もほんとうに楽しそうで、それが
羨ましかったのである。しかしながら、どうしたら習うことができるのかも分らないし、漠とした願望に過ぎなかった。葉書に書いた質問も、自分の心の中のつぶやきに過ぎなかったのであるが、
稽古を見学に行き、そのまま入門することになる。
以来、狂言の教えを受けるのみならず、私が卒業論文で取り上げた「
薬水」を、ホテルのディナーショーでやりたいということで、台本作成のお手伝いもさせていただいた。
大蔵流で長らく演じられていないこの曲をいつか見てみたいという夢が、意外にも早く、しかもいささかながらも自分の手でかなえられたのは、ほんとうに幸運であった。
私が狂言を研究対象として選ぶことも、狂言を習うことも、ともに「好き」という気持の延長線上に自然に開けた道であって、どちらかが先行するわけではないと先に述べたのは、そのような理由である。今でも心がけるのは、狂言を見たり演じたりする時は、研究者の視点は極力取り払い、最初に狂言を「おもしろい」と感じた気持を忘れずに心から楽しむということである。結果として相互に役立つといったことはもちろんあるにしても。
かつての狂言ブームを私は知らないが、ここ数年に見られる狂言熱は、あるいはそれを上回るのではないかと言われている。それは、ひとえに若手を中心とする狂言師の尽力の
賜物であると思うが、一人でも多くの人が、狂言に関心をもち、興味を示すことは喜ばしい。一度、「古典芸能」という一種近寄りがたい壁を越えれば、少しも古くさくない、現代――自分にも通ずる人間ドラマに遭遇する。その壁を越えるきっかけさえあれば、その先は、それぞれの楽しみ方ができるであろう。まずは何であれ、きっかけが必要なのだ。今では狂言が自分の中で欠かすことのできない存在となった私自身、狂言との出会いは
些細なきっかけの積み重ねに過ぎなかったとつくづく思うのである。
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二十一世紀における、“古典への招待”の仕方はどうあるべきなのであろうか。これに対してさまざまの回答があり得ると思うが、若い「目線」からの発信が重視されなければならないことだけは確かなように思われる。この「語り」が、もしそのようなささやかな役割を果すようなことがあるならば、
嬉しい限りである。(安田 章)