馬琴と渡辺崋山
第84巻 近世説美少年録(2)より
天保十年(一八三九)五月十四日、渡辺崋山が北町奉行大草安房守に召喚され、御吟味揚屋入となり、それより蛮社の獄が起ったことは、よく知られている。崋山は結局、同年十二月十八日、在所蟄居の処分を申し渡され、翌年の一月に国許の三河国田原に移送されるのであるが、この一件に関して師の松崎慊堂や、弟子の椿椿山らが救済するために奔走したことも、美談として人口に膾炙している。ところが、やはり崋山の知友であった馬琴が、この間に崋山に関してはよそよそしい態度をとっていた、というのが真山青果の『随筆滝沢馬琴』(昭和十年刊)以来の定評である。だが、果して本当にそうなのであろうか。このことを考えるために、まず馬琴と崋山との交渉の事蹟を整理してみよう。
馬琴の息子の興継、字は宗伯が絵画を学ぶために金子金陵に就いたのは、十歳ころのことで(『吾仏の記』)、文化四年(一八〇七)のこととすれば、馬琴は四十一歳であった。興継の画号は琴嶺という。崋山が金陵に入門したのは文化六年、十七歳のことであり、興継には五歳の年長ではあるが、弟弟子ということになる。この縁で崋山はやがて興継の父馬琴とも相識ることになる。
このことは、文化十二年(馬琴四十九歳、崋山二十三歳)の崋山の『高画堂日記』に徴することができる。崋山は、その正月九日には馬琴のもとへ、その読本『皿皿郷談』(文化十一年冬刊)を返却しており、馬琴の作品が刊行されるのを待ちかねて、貪るように読んでいることがうかがわれるのであり、同十七日には馬琴と金陵を訪問している。八月二十五日からは三日間、興継を介して馬琴が頼んだ額画を描いてもいる。翌文化十三年の日記『崋山先生謾録』にも正月十八日に馬琴の家へ年賀に行ったことが記され、興継の父親たる馬琴は今やすっかり崋山にとってはだいぶ年上の友人になっているのである。
馬琴が崋山の画才を認めていたことが知られるものが、その随筆『玄同放言』であり、文政元年(一八一八。馬琴五十二歳、崋山二十六歳)・三年にわたって刊行されている。崋山は、この書の第九「富士ノ歌等類」に「龍華寺庭前望嶽図」を「華山人」の号で掲げ、第十三「追加龍華寺全図」に「龍華寺」図を「華山」の号で載せているが、龍華寺は「駿河国有渡郡」に在り、馬琴所蔵の望獄図とある人の写生図とを比較し、さらによく実景を知っている人に問い究めて崋山が苦心して描いたものだ、と馬琴はいう。だが、華山の文政元年の日記『東海道駕籠日記』十二月九日によると、崋山が自身で龍華寺に至って景を写しているから、実際には崋山が実写した絵を収めているもの、と考えられる。
また、第三十三「尼妙円」には「妙円石地蔵図」と「金子村妙円常成仏遺址真景」の二図が「華山」の号をもって収められている。馬琴によれば、文政二年の夏、崋山自らが武蔵国多摩郡金子村(甲府道で、高井土と石原との間に在るという)に出かけて、その真景を写した、という。
さらに第四十二下追加「源ノ範頼」には「西木山東光寺図」「東光寺ノ浦桜並ニ古碑図」「樹下在ル所ノ全碑」図が四面にわたって「華山」号で掲載されており、同じく文政二年の夏、「友人華山子」が自身、武蔵国足立郡石戸荘堀之内村(中山道の桶川駅付近)の東光寺に行って、その大桜や古碑などを写し、かつ里老にそれにまつわる伝説を尋ねてきた、と馬琴は記している。
『玄同放言』には興継も、琴嶺の号をもって「水滸伝像賛」(第四十一「金聖歎ヲ詰ル」)などを載せており、馬琴が息子と画友であることによって、崋山の画を登載したのであり、崋山もまたその委嘱にこたえて遠方まで足を運んで写生している事情がうかがい知られるのである。
文政六年(馬琴五十七歳、崋山三十一歳)、崋山は交わるべき人を十三人、『全楽堂記伝』に挙げているが、そのうち、馬琴を博識の学者屋代弘賢・北静盧と並べて「聞見を広め、書籍等借用致し益友なり」として挙げている。これと同様なことは馬琴の方から崋山に対していうこともできるのであって、『馬琴日記』に就けば、両者が書籍を相互に貸借していることがつぶさに知られる。すなわち、
文政旧年四月十九日、馬琴が崋山に『兎園別集』下冊、『正徳金銀御定書』一冊を貸す。
文政十年九月十三日、馬琴が崋山に『耳食録』を返す。この『耳食録』巻一の「張将軍」の話を、馬琴は『松浦佐用媛石魂録』(文政十一年刊)第十一回に翻案した。
文政十二年四月二十八日、『近世説美少年録』第二輯の挿絵を葵岡北渓に委嘱する取次を崋山に頼む。北渓は仕事が遅いので、七月九日、来訪した崋山に催促することを依頼する。
天保二年(馬琴六十五歳、崋山三十九歳)三月二十一日、去年秋に崋山から借りた『四庫全書』一帙を、来訪した同人へ返す。
同年四月十日、『美少年録』第二輯を崋山に貸してあるのを返却してもらうよう家主久右衛門に頼み、崋山への手紙を託す。これは四月十六日に『相州うら賀へイギリス大ふね着の略記』と一緒に戻ってくる。
同年九月十九日、崋山の仲介で、かねて頼んでおいた新渡本『水滸伝全書』四帙を二両一分で購入し、同時に『慶長日記』『三宅氏の記録書抜』を崋山に返す。
天保三年正月二日、馬琴が崋山宅へ訪れ、去年九月に購入した『水滸伝全書』四帙の代金二朱を崋山に渡す。
同年六月八日、崋山が年始答礼のために馬琴宅を訪問、興継は病臥につき対面しなかったが、馬琴とは長談して帰った。
興継の体調がすぐれないことは右にうかがえるが、天保六年(馬琴六十九歳、崋山四十三歳)五月八日に三十八歳で亡くなった。馬琴はその生前に肖像画を崋山に描かせようと思ったが、間に合わず、九日に来訪した崋山が興継の遺体を一時間ほど写生して、デッサンを作ったことは、有名な話柄であり(『後の為乃記』)、馬琴は、人の忌む遺体に手を触れて、骨格を写すことを憚らない崋山の「剛毅」なことに感動している。この彩色の肖像画が一応の完成を見たのは天保七年五月七日、興継の一周忌を文京区茗荷谷の深光寺で行う前日のことであった(『吾仏の記』)。
天保七年八月十四日、両国柳橋の万八楼で行われた馬琴七十歳の賀筵には四十四歳の崋山も出席した。
このように断続的にではあるが、長年の間、崋山と交歓してきた馬琴が、天保十年に至って崋山党派の知らせを聞いたのは、翌々日五月十六日のことで、三宅侯出入りの豪商からであった(馬琴書簡)。この時点で馬琴が得た情報は、まだあまり正確なものではなかったが、崋山とは四年前(天保七年)の十月に興継肖像画の謝礼に訪れたのが最後の対面であったこと、その際、孫の太郎に画を学ばせるため崋山に入門させることを話しておいたが、崋山が昔年貧窮の折に偽画を作って利を得ていたという、亡き興継の話を想起して思い止まったこと、崋山は「きりもの」であり「才子」であるが、偽画の一件は「心術なつかしからず」であること、崋山宅は番人を付けて出入を禁ぜられているので、ひそかに「きのどくに思ふのみ、訪ふべくもあら」ざること等々を述べている。また、すべて没収された崋山の蔵書の中には、自分が肖像画の謝礼として贈った『後の為乃記』もあったはずだ、とも記して、自分に累が及ぶ不安をほの見せている。
馬琴は八月十一日に至って唐絵師佐藤理三郎から、より詳しい情報を得ている(馬琴書簡)。ただし、その情報もあまり正確ではなくて、『夢物語』の著者を高野長英ではなく「佐藤某」と記したりしているが、とにかく崋山はそれを「借謄せしのみにて、その作者にあらず」という、正しくて、しかも肝要な情報は入手している。馬琴の崋山評は、陪臣の職分を超えて国事に精力を尽すのが災禍の原因だ、というものであった。
崋山は、天保十二年十月十一日、自分を救済するための売画会が幕閣で問題とされているという噂を聞き、藩主に累が及ぶことを憂えて四十九歳をもって自刃したのであるが、馬琴はこれを翌十三年(七十六歳)正月二十三日に伝え聞いて、その死によって三宅侯が御奏者番になったのだから「崋山の忠死其甲斐ありといふべし」(『著作堂雑記抄』)と評価し、後に残された崋山の老母や妻子について「何れも薄令の至り也。痛むべし」(馬琴日記)と同情を寄せている。逮捕の折にはいささか冷淡な気味もあった馬琴だが、自尽したことで崋山に対する見方を改めているようである。
蛮社の獄が江戸町奉行鳥居耀蔵の謀略と、崋山宅に出入していた花井虎一の暗躍に基づいて、崋山の私的な稿本『鴂舌小記』『慎幾論』に対して朝政誹謗の罪を捏造した「抂(枉)冤」であることは、松崎慊堂の上書や三宅友信の『崋山先生略伝』が指摘していて、おいおい公論として定着していくのであるが、そのような認識は、時がたつにつれて、崋山に深い関心を寄せていた馬琴の耳にも入ってくる可能性は十二分に存する。
本集に収めた『近世説美少年録』第三輯(天保三年刊)には、朱之介の姦通に対する筒井順政の聴訟(裁判)が描かれている。だが、この話は蛮社の獄のだいぶ以前に書かれているものであるから、この事件と関連させて解釈することはできない。しかし、本作の第四輯、すなわち改題して『新局玉石童子訓』(弘化二年刊)は、馬琴が「付言」でいうごとく、天保十三年の一月から五月にわたって書いた作品であって、蛮社の獄や崋山の自刃が世人の記憶に生々しい、同時代の作品といってもよい。そして、末朱之介の遊女殺しの嫌疑に対する三好職善もとよしの聴訟が詳しく描かれるのであるが、これを読んで当時の読者が蛮社の獄の聴訟を連想することは、十分にありうる、自然な心の働き方であろう。
朱之介にとっては明らかに冤罪であるこの展開を、馬琴は「冤抂」「冤屈」の語を用いて表現していて、疑獄が晴れるに至るまでにこの語が五、六回使用されるのであり、本集の五分の一を占めるストーリーのキーワード(鍵語)、といってよい。そして、この語は、三宅侯の弟である三宅友信が、崋山の災禍を「抂冤」と規定していることを、ゆくりなくも連想させる。
『玉石童子訓』の前半は、朱之介と十三屋九四郎の妻乙芸らの疑獄と冤罪とがじっくりと描かれるのであるが、それは同時期の崋山の疑獄と冤罪とを当時の読者におのずから連想させる筆法で描かれている。そして、当時の読者が脳裡にかかる連想を抱くことは、読者の自由であって、官憲が読者にそれを止めるよう強制することはできない。つまり、もしも馬琴に崋山の冤罪を明敏な読者には連想させよう、という明確な意図があったとし、明敏な読者がその作意を勝手に汲み取るとすれば、馬琴の隠微な筆法は成功したことになる。しかも、馬琴は、どこにも崋山の疑獄を直接に表現する文字は用いていないのであるから、官憲から当時の実事件を書いたと糾弾される危険は皆無なのであり、現に馬琴は全くそうした筆禍を被らなかった。
読者をして朱之介の冤罪を崋山の冤罪に重ね合わさせることは、馬琴が遠回しに崋山の災禍を冤罪だといっていることになり、市井の一介の戯作者たる馬琴としては精一杯のやり方でもって崋山を弁護したことになる。馬琴は、崋山の旧師であった儒学者佐藤一斎と同様に、崋山の疑獄には冷たく、松崎慊堂のような義侠心がなかった、といわれがちであるが、実は崋山の冤罪を晴らすことにひそかに助力し、それは崋山の自尽に同情したことに由来するのではなかろうか。