古典への招待

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室町物語への招待

第63巻 室町物語草子集より
 室町物語の『文正草子ぶんしようそうし』の大筋は、もともと卑賤ひせんの身に生まれた者が、ついには富貴の身として栄えたというようにまとめられる。それによると、主人公の文太ぶんたという男は、鹿島かしま大宮司だいぐうじの下男であったのが、わけもわからずに主家から追い出され、常陸ひたちの国の「つのをかがいそ」に落ちついて、塩焼きのわざをいとなむことによって、思いがけない成功に導かれることとなった。すなわち、その焼く塩は、ただ味がよいだけではなく、この塩をもちいると、何の病にもかからないといって、よその塩とくらべると、倍の値段で売れていったので、文太みずからも、「文正つねをか」と名のって、限りない長者としてもてはやされたと語られている。
 さらに、旧主の大宮司のすすめを受けて、鹿島の大明神だいみようじんに祈ったために、美しい二人の娘を授けられたが、二人とも文正の気持にさからって、大名や大宮司から寄せられた、求婚の申し出をも受け入れようとしない。そのためにかえって、「女うじなくして玉の輿こしにのる」こととなり、いっそうすばらしい幸運に恵まれたというのである。すなわち、姉娘の蓮華れんげというのが、関白の若君と結ばれて、そのきたかたとしてかしずかれただけではなく、妹娘のはちすのほうは、時のみかどに召されて、中宮ちゆうぐうとして仰がれることによって、父親の文正までも、中納言ちゆうなごんから大納言だいなごんにのぼり、その一家はことごとく、栄華をきわめるにいたったと語られるのである。
 ただそれだけのことであって、それほどこみいった筋立でもないのに、この『文正草子』という物語は、多くの絵巻や奈良絵本に作られ、いくとおりもの絵入りの版本として出されて、きわめてひろい範囲に読まれている。おそくとも江戸時代の中期までに、大坂の渋川清右衛門という書肆しよしによって、室町物語の二十三編を集めた、御伽文庫おとぎぶんこまたは御伽おとぎ草子そうしというものが出されているが、この『文正草子』の一編が、その叢書の第一にあげられたほどである。
 それでは、どうしてそのように受けいれられたのかというと、この『文正草子』の一編には、初めから終りまで、ただめでたいことだけが語られていたからというほかはない。御伽文庫の所収本によると、
それ、昔が今に至るまで、めでたきことを聞き伝ふるに、賤しき者のことのほかに成り出でて、初めより後までも、ものきことなくめでたきは、常陸の国に塩焼の文正と申す者にてぞ侍りける
と語り出され、
まづまづ、めでたきことの始めには、この草子を御覧じあるべく候ふ
と結ばれている。この「ことの始め」というのは、正月の物事のし始めであって、ここではめにあたるものと解される。
 それについては、柳亭種彦りゆうていたねひこの『用捨箱ようしやばこ』の上巻に、
昔は正月吉書かきぞめの次に、冊子さうし読初よみぞめとて、女子は文正草紙を読しとなり。今もある大家にその古例残りてあり。此さうし今多く伝り、大本、小本、摺板はんぎの数あるも、昔は家々になくてかなはざりし冊子なりしが故なり。標題にいはひの草紙と書たるあり。是その証なりと古老の記に見えたり。按るに此説さもあらん
などと説かれたとおりである。
 さまざまな室町物語の中では、この『文正草子』と同じように、『ものくさ太郎』や『一寸法師』なども、卑賤者の出世という型にあてはまるものであったとみられる。
『ものくさ太郎』の主人公は、途方もないなまけ者であったが、信濃しなのから京にのぼると、まめまめしいはたらき者に変って、美しい女房とめぐりあい、深い契りをかわすこともできた。その縁で内裏だいりに召されて、深草ふかくさ天皇の皇孫とわかったために、甲斐かい・信濃の国司に任ぜられただけではなく、百二十歳の長寿をたもったのちに、自身はおたかの大明神、女房はあさいの権現ごんげんとしてあらわれたというのである。
 また、『一寸法師』の主人公は、の国の難波なにわの老夫婦が、住吉すみよしの明神に祈って授けられた子であったが、背たけがわずかに一寸しかなかった。そのような小さ子が、針の刀をもって都にのぼってからは、こざかしい策をめぐらして、宰相さいしようの娘を連れ出しただけではなく、おそろしい鬼をしりぞけて、宝の小槌こづちを手に入れることもできた。この小槌を振ると、その背たけがのびるとともに、高貴の素性もあらわれて、堀河ほりかわの少将に任ぜられ、やはりめでたく栄えたというのである。
 そのように、『文正草子』をはじめとして、『ものくさ太郎』と『一寸法師』という、ただ三編の草子を取りあげただけでも、かなりあきらかに、当代の物語の特質をうかがうことができよう。第一には、伝説と昔話とをあわせた、口承文芸との関聯かんれんをあげなければならない。
『文正草子』の「つのをかが磯」というのは、茨城県鹿嶋市の角折つのおれにあたるが、古くは塩焼きのわざで栄えており、現に文太長者の屋敷跡をとどめている。『文正草子』の物語では、この文太長者の娘をしたって、都の二位中将が下ってきたというが、『日光山縁起につこうさんえんぎ』の物語で、陸奥みちのくの朝日長者の娘をたずねて、都の有宇中将が下ってきたといい、舞の本の『烏帽子折 えぼしおり』で、豊後ぶんごの万の長者の娘をたずねて、用明ようめい天皇みずから下ってきたというのと同じように、長者の栄華と貴人の流離とを結びつけており、民間文芸の重要な伝統を受けついだものとみられるであろう。
『ものくさ太郎』の主人公のふるさとは、「信濃国十郡のその中に、筑摩郡つかまのこほりあたらしの郷といふ所」と示されているが、この不思議な人物のことは、長野県松本市の新村などに、すくなからず伝えられるようである。それだけではなく、室町物語の『ものくさ太郎』に、なまけ者の成功について語られるのは、昔話の「となり寝太郎ねたろう」という型と通ずるように考えられている。
 そういう意味では、室町物語の『一寸法師』は、昔話の「一寸法師」にあてはまるというので、あきらかな話型の一致を示すものとして注目されてきた。しかしながら、そのような小さ子の物語は、いわゆる「一寸法師」だけではなく、「スネコタンパコ」や「田螺息子たにしむすこ」など、かなり多様な話型として伝えられている。実際に、室町物語と同型と認められる、昔話の「一寸法師」の分布をさぐると、おもに中国や四国の方面に限られており、それほど古くない流行の痕跡こんせきをうかがわせるものといえよう。
 あえて卑賤者の出世だけに限らなければ、室町物語と昔話との対比は、『梵天国ぼんでんこく』と「笛吹聟ふえふきむこ」との関係、『はまぐりの草紙』と「蛤女房」との関係、『浦島太郎うらしまたろう』と「竜宮入りゆうぐういり」との関係など、かなり多くの事例について試みられている。現在の研究の段階では、いくつもの昔話のタイプが、そのまま室町物語の原態をもち伝えているというよりも、むしろ室町物語の成立によって、ほぼ現行の形態にととのえられてきたと考えられるようである。
 そのような口承文芸との関聯とともに、第二には、『文正草子』などの室町物語における、宗教上の色彩についても注目しなければならない。
 そうはいっても、『文正草子』の宗教性としては、文正の二人の娘が、鹿島大明神の申し子として生まれたというように、この大明神の神徳にふれるだけにとどまっている。それにもかかわらず、『新編常陸国誌』巻八の文太屋敷の記事には、
コノ屋敷ノ主タルモノ、毎年塩ヲ鹿島大宮司ノ家ニ致ス
と記されていた。実際に、鹿嶋市の角折の地では、第二次大戦の時期まで、毎年鹿島神宮に塩を納めるならわしが、ねづよく守られていたのを聞きしって、改めてその伝承の基盤について考えさせられた次第である。
 それに対して、『ものくさ太郎』の結末では、
殿はおたがの大明神、女房はあさいの権現とあらはれ給ふ
というように、あきらかに在地の神の本地について示されている。この「おたか」という神は、「愛宕をたぎ」とも「御多賀おたが」とも解されてきたが、一般には「穂高ほたか」にあたると考えられている。現に南安曇郡穂高町の穂高神社は、安曇一族の祖神をまつったものであると伝えられる。『信府統記』などには、この穂高大明神の社殿は、文徳もんとく天皇がものくさ太郎に命じて造営させたものであったと記されている。
 もう一編の『一寸法師』は、そのような神の本地とはかかわりなく、さきの『文正草子』と同じように、やはり主人公の小さ子が、住吉大明神に祈って授けられたというだけであった。ただし、その物語の結末にいたって、
住吉の御誓ひに、末繁昌すゑはんじやうに栄え給ふ
というように、その神徳をたたえることばが添えられていた。
 いずれにしても、室町物語の重要な部門として、安居院あぐいの『神道集しんとうしゆう』の諸縁起とつながる、『熊野くまの本地ほんぢ』や『諏訪すわの本地』などの本地物があって、それぞれの宗教者の唱導に用いられたものとみられている。そこでは、前世に人間として苦しみぬいた者が、現に神としてあわれんでくださると説かれることによって、おおかたの庶民の心をひきつけたものといえよう。
 ここにあげた『ものくさ太郎』が、「おたかの本地」とも名づけられて、信濃の穂高大明神の本地を伝えているように、室町物語の『梵天国』は、「橋立はしだての本地」とも名づけられて、丹後たんご久世戸くせのと文殊もんじゆ成相なりあい観音かんのんの本地を伝えており、室町物語の『浦島太郎』も、『浦島明神縁起』などとつながって、丹後の浦島明神の本地を伝えていた。改めて、それらの本地物に属するものが、思いのほかにひろい範囲にわたっていたことに注意しておきたい。
 そういうわけで、室町物語に属するものは、民間の伝説や昔話と、深くかかわりあっており、また宗教上の色彩をも、著しく帯びていたといってもよい。それだからといって、ただ在地の伝承にもとづくものであって、さらに唱導の材料として用いられたというだけで尽されるとはいえない。当代の物語の作者は、前代の物語のそれとは違って、ただ公家の階層だけに限られないで、ひろく僧侶そうりよや武家にも及ぶとともに、さらに町衆という庶民にもわたることによって、まったく新しい庶民の文芸をかたちづくってきたことにもふれなければならない。
 戦後の室町物語の研究史をかえりみると、林屋辰三郎氏の『中世文化の基調』では、一般にお伽草子とよばれたものが、何よりも「町衆の文化的所産」であったと説かれている。また、桜井好朗氏の『中世日本人の思惟と表現』では、特に『文正草子』の一編が、中世の商人の思惟に即しており、その「エートス」を表現していることによって、「町衆文化の典型」として位置づけられている。
 この桜井氏の著作では、中世の商人の「エートス」として、現世主義や重金主義や実利主義のような思考の様式とともに、倹約や勤勉や信用の重視の傾向があげられている。これとは別の立場からも、岡見正雄氏の『室町ごころ』では、当時の物語のにない手が、つねにおおらかであかるい心を失わないで、ひたすらめでたいことを求めて生きていたと説かれている。『文正草子』のようなめでたい物語こそが、まさにそのような「室町ごころ」にかなうものであったといえよう。
 ところで、そういうおおらかな室町物語が、ただ中世の町衆を中心につくりだされただけではなく、近世の町人の社会でも受けいれられていったことをつけ加えておきたい。渋川清右衛門の書目の一本に、「御祝言御伽文庫三十九冊」をあげて、「いにしへよりの草紙物語の類のこらずあつめ箱入にして女中身を治る便とす」と記されていたのは、よくそのあたりの事情を示していたといえよう。そのような多くの室町物語は、もともと絵巻や奈良絵本に作られていたのが、おおむね絵入の版本として売り出されたというのも、やはりその受容のあり方にふさわしかったからであるとみられる。
 実際には、室町時代の物語草子は、まことに多くの種類にわたっており、ここにたやすく説きつくせないのであるが、それらの全般の傾向としては、おおむね人間の生活に即したものであって、かならずしも実用上の目的から離れていなかったことを認めなければならない。それだけに、現代の一般の読者にとっても、きわめて親しみやすいものであって、よろこんで読んでいただけるものではないかと思われる。(大島建彦)
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