本書は、文人作家と総称される三人の四作品を収めた。そもそも「文人」の語は、中国では早く『詩経』『書経』に見えるが、今日に近い意すなわち、韻文・散文をよくする者を文人と称した例は、
後漢の
王充の『
論衡』や
魏の文帝の『典論』あたりに始まるとするのが、青木正児先生の考証である(「中華文人の生活」『琴棊書画』所収)。同先生の用語を借りれば、その後、
六朝の隠逸的文人、唐代の官僚的文人、宋代の
幕賓的文人と、時代による特色ある文人を加えつつ、文人生活も多様化してきた。それらの作品は、日本にも早くから輸入されて、日本の文学にもすでに大きな影響を及ぼした。『
文選』はもちろん、『
遊仙窟』をはじめとして
晋・唐の伝奇から、江戸時代近くになっては、
明の『
剪灯新話』などが、いわゆる文人の作品である。しかし文人なるものを、中国はもちろん、日本でもいちだんと強く意識せしめたのは、かえって、宋学のきびしい文人軽視の主張ではなかったろうか。
周敦頤・
程顥・
程頤らが、それぞれ文学の
載道説、勧善懲悪論、そして
玩物喪志の説をもって、学者の文と、文人の文とを区別した。『近思録』二には、端的に「古之学者ハ惟務メテ、情性ヲ養フ。其ノ他ハ則学バズ。今ノ文ヲ為ス者ハ、専ラ章句ヲ務メテ、人ノ耳目ヲ悦バス、既ニ人ヲ悦バスヲ務ム、俳優ニ非ズシテ何ゾヤ」という言葉があり、かの儒者としても有名な
韓愈をさえ、古文の創始者の
故をもって、「学ハ本是徳ヲ修ス、徳有リテ然シテ後ニ言有リ」の立脚点から見れば、学を
倒にしたものだと批難した(『二程遺書』十八)。「徳あって然して後に有る言」が儒者の文章で、「俳優と同じく耳目を悦ばしめる」のが、文人の文である。日本の近世初期は、宋学の隆盛期であって、
林羅山のごとき官学派も、
山崎闇斎のごとき、どちらかといえば民間派も、儒者――当時は
僧侶を除けばそれが漢詩漢文を作る者の中心にあったのだが――は、朱子学を奉じて、文人の文を軽んじた。文学観では、人情説とも称すべき新しい考えを持った古義学の
伊藤仁斎のごときですら、自ら儒者として発言する時は、
文ハ詔・奏・論・説ヲ以テ要ト為ス、記・序・志・伝、之ニ次グ。尺牘ノ類ハ文ト為スニ足ラズ。賦・騒及ビ一切閑戯無益ノ文字皆作ル可カラズ。甚ダ道ニ害アリ。(『童子問』下)
と述べている。然るに、次いで儒学界の中心に位置した
荻生徂徠とその古文辞学派は、作詩作文を学問の必須課目とすると主張して、知識人たちもこの説を喜び、文学の社会的意義がここに新しく認められると共に、見るべき近世的漢詩漢文がようやくにして出現した、とするのが近世からの文学史の常識であった。しかし古文辞学派の専ら事とする詩文は、文は漢以前の語を使用し、詩は唐以前を模範とする擬古的な雅文である。しかしこれから以後の知識人の文学への関心と作品は、この雅文の域から脱出してゆくものも現れてきたのである。
元禄社会の一種人文主義的な世潮についで、享保の社会には、一種百科
事彙的な世潮があった。その一翼として、これまで儒学が包摂していた諸学諸芸が独立して、科学として技芸として分れていった。理論的には儒者でない文人詩人もあってよいのであって、専らそうした道を選ぶ人もしだいに出現してくる。またその一翼として、当時の世界への関心が高まった。その中に当然、当代中国への関心が大きい部分を占めた。上は将軍吉宗が、それは政治のためとはいえ、中国からの船舶に、さまざまの新しい資材の輸入を希望した。下は
浄瑠璃「
国性爺合戦」が大好評であり、中国式の
卓袱料理が長崎から大坂へ進出してきた。この中で、中国の新しい書物も輸入されてくる。まず儒学界の
風からして、それらの影響を受けて変化した。徂徠の学問がすでにその一つであるが、
五井蘭洲は、
明儒、晋と宋とをくらべて、宋の謹厚なるをきらひにくみ、晋の風俗ほうとうをひいきにするの風、近年わが国へもならひ来れり。大に嘆くべき事に社。(茗話)
と、嘆息的に、学界の変化を述べている。政争のはなはだしかった宋代や、王朝の交代もあって、社会が平穏でなかった明末清初の、これはやはり隠逸的文人ともいうべき、逸民たちの随筆的著述も喜んで読まれ、これに影響されて、随筆ふうのものを、日本の知識人も書き出した。この風潮を
醇儒の立場から
室鳩巣が嘆息もしている(『鳩巣先生文集』巻八)。評注を付した大家の詩文集も、これは幕初からあったことだが、輸入されることがしだいに多くなった。評注者として堂々たる人々の名が上がっているが、坊間に
流寓する落第書生の手になるものだということである。しかし、日本では、この評注書によって唐宋の詩を理解できたので、それとしての意義は大きい。
江村北海が『日本詩史』で、先人には、唐詩の影響を受けたとしながら、明詩ふうの人が多いと評したのは、かかる書による唐詩理解が一原因であったろう。これらはもう一度、青木先生の用語を借りれば、売文的文人の仕事であろう。売文的文人といえば、おびただしい
白話文学書の輸入があって、そのおもしろさは、日本の知識人を魅了し去った。これらにも
李卓吾評とか、
王世貞著などとあるが、やはり文学書生の売文といってよかろう。もっとも
金聖嘆のごとき人物も、この中には含まれている。白話文学は、もともと当代中国を理解するため、徂徠らの主張では、立派な文章を書くための、中国語の教科書として採択されたものであったが、やがて目的と方法が、完全といってよいほど逆になる。人々は中国白話小説を読むために、中国語を勉強したのである。このことについては後述する。その他、画譜・
法帖・楽譜・文房具についての書、
投壺のごとき遊戯の書などまで、中国の文人趣味を伝えるさまざまのものが輸入されてきて、当時の知識人間に、文人趣味が広く
伝播していった。蘭洲や鳩巣をして、苦々しく思わせたのである。
当時の文人趣味なるものは、当人たちが、儒者・医者・僧侶・芸術家などのいわゆる
長袖であれ、士農工商それぞれの生業を持つ者であれ、一方で正業を持ちながら、その一面で、その文業に携った、でなければ退隠の生活の中で文業に遊んだ、余技としての文業である。幕末が近づくと、生涯退隠の生活の形で、文業をもって生活する職業的な文人も出現する。余技であることで、彼らの文業には、余技的なさまざまな性格が現れる。職業的でないための自由さ清潔さがあるが、技術的に浅薄である。時には独創性が発揮できるが、読者対象が限られて、一人よがりで仲間にしか通じなく普遍性を欠く。精神の一辺倒があるかと思うと、遊戯的で
通ぶった臭さが伴いがちである。余技であることから文業にとどまらず、諸種の方面にわたって多芸となる。しかし、それらの
癖を伴っても彼らは、正業に満足できなくて求める文業であるので、精神はその余技の中で充足し、その感情はその余技の中で伸長する
類のものであった。その意味では、彼らの文業は技芸ではなくて生活である。文房具をはじめとして、文業の営みが、生活の上にも現れるのが文人趣味であった。ただし
究竟において、生活の二つの面のバランスの上に営まれたということで、この時代の文人趣味は、
溌剌さを欠き、くすんだものに終り、近世封建社会の中に生れた制約から逃れ得ないものであったことは、後に述べる。
明末清初の、後の
滝沢馬琴の言葉を借りれば、「明清才子」の書物や、その中の態度や精神が、当時の日本人の共鳴を引いたのには、日本の社会状況と、その中に生活した人たちの精神状態にももちろん原因があった。第一、唐宋の文人といっても、
白楽天でも
蘇東坡でも、朝廷の大官である。
李白・
杜甫などはそれほどでなくても、文学の神様扱いされては、生活にまで影響の受けようもない。しかし明清才子は、一時は何であれその時には逸民であったり、地方の小役人であったり、落第書生で、舌耕売文をもって生活としている人々も多い。試みに『列朝詩集小伝』などを見ても、当時の日本の書生たちが素直に共感できる人々がいくらもある。そして文人趣味の人々は、
貴賤貧富にかかわらず、それぞれの理由を
懐いて、当代社会に不平と不満と、でなくても批判的姿勢をもって、陰に陽に相対し、その文業の中で、ようやくに自己を伸長させていることにも気づいたであろう。文人趣味とは、そうした精神の持主の姿勢であることをも知ったであろう。そして、当時の日本の知識人社会には、それを模倣すべき精神的原因が、すでに存したのである。徳川封建社会は、享保(一七一六~三六)頃では完成の形をとって、その進展の足をとめた。これを
雨森芳洲のごとく、理想的な、中国にも例を見ない封建社会だと評した人さえあったが、すでにその芳洲が、自らの晩年に、この社会の持った矛盾に苦しむのであるが、すでにいたる所で、社会の矛盾が現れてきた。
太宰春台のごとき経世家は、それを「元禄以来、海内ノ士民困窮シテ、国家ノ元気衰タ」る世(経済録)といっている。ここでは、当面の個人の問題に限っても、徳川封建社会の根幹をなす身分制度と世襲制度が早くも飽和状態となって、自己の才能を、自由に進展させる余地はほとんどなくなった。元禄に
澎湃として起った人文主義的な考え、または感情を、有効に伸ばす方法は、既成儒学の倫理感の中では見出だしがたくなっていた。一方、合理主義・個性尊重・唯物的思惟など、近代に続くものの考え方が発達してくる。そこに生じた精神的物質的不満には、儒教の運命観や、仏教の因果応報観が満足な答えを出せるはずもない。といって、社会を改革すべしと、その方法を考え運動を起すには時期尚早である。この社会で、文業を好む者は、許された範囲で文業に遊ぶしかない。中国の先輩は、実にその方法を示してくれたのである。中国の文人趣味の日本への投影は、はなはだしい勢いで広がっていった。蘭洲や鳩巣が、既成の儒学の立場で
切歯扼腕しても、時代の
趨勢はいかんともできなかったのである。
翻って当人たちは、中国の先人たちに典範を見出だしたことで、いかにも封建社会の人らしく、それを一つの根拠として、自己の生活態度を理論づけ、その文人趣味生活の面に、新しい生き
甲斐を感じて、出精した結果は、さまざまの文化の面で新方面を開拓することになる。以下に述べる小説史上においてもしかるごとくに、文化史は各所でそれを証している。しかし、もう一段大局に立って見る時、そうした消極的な姿勢から出た彼らの仕事には、当然のこととして、消極的なものを
払拭できない。文人は近世社会の
ひずみが生んだものであって、そのひずみは、彼らの作品、仕事の上にも、残っているというべきであろう。
当面の文人の小説に問題を限ろう。今、日光山に残る
天海蔵の蔵書や、
紅葉山文庫の御文庫目録につけば、中国白話小説は、幕初以来しだいに輸入されてきていたのであるが、読む人はほとんどなかったであろう。明律研究のため、文章熟達のため、中国当代の社会を知りたいためなどのさまざまの理由と、
黄檗帰化僧たちの渡来やその門弟たちに中国語に通ずる者の出現、長崎唐通事の家の人々の中央への進出などが打ち重なって、日本の中央に中国熱が広がって、その教科書として白話小説が読まれ、そして教科書としてでなく、知識人をこの白話小説が魅了したのは、やはり享保の頃である。先見の明あった
木下順庵が、雨森芳洲に長崎の
上野玄貞につかしめたのは元禄であったが、荻生徂徠らが江戸で、
岡島冠山を迎えて訳社の会合を持ったのも、京都でいわゆる
稗官の五大家、
岡白駒・
松室松峡・
陶山南濤・
朝枝玖珂や田中大観などが、
黄檗僧から唐音を学び出したのも享保であった。これから大流行となる。唐船持渡書は、享保に先立つ正徳(一七一一~一六)から宝暦年間(一七五一~六四)にかけて、種類も量もはなはだしい(尾崎雅嘉編『舶来書目』など)。中国に現存しない『古今小説』や『照世盃』のごときが残っていることなどからもその多さが想像できるではないか。数多い白話小説を分類すると、当時日本の知識人の読み物であった軍記物に相当する長編の演義体小説、『忠義
水滸伝』『三国志演義』の一群がある。別に、三言二拍と称される、『古今小説』『警世通言』『
醒世恒言』、『
拍案驚奇』の初刻・再刻と、それらから選んで再編した『今古奇観』などの短編小説集があった。これらは当時の日本では、八文字屋本の浮世草子にも相当しようか。他にもさまざまのものが渡来したが、この二群に属するものが最も
嗜好にかなったようである。初めて白話を読み、または読もうと志す人々の
愛翫するところであったが、広く漢文を読める人、または白話を志す人々にも、これを訓訳して出刊することが要望されたのであろう。白話やむずかしい語には字の左側に俗語訳を付し、全体に句読訓点をほどこしたのが訓訳である。岡島冠山訓訳の『忠義水滸伝』が出たのが享保十三年(一七二八)で李卓吾百回本の十回まで、二十回までは宝暦九年(一七五九)に続刊されて終った。短編白話小説のほうは、岡白駒・沢田一斎の二人による訓訳本『小説精言』(寛保三年刊)、『小説奇言』(宝暦三年刊)、『小説粋言』(宝暦八年刊)との名称で、日本の三言と称されるものが出版を見た。ただし合せて十四編を収めるのみである。しかし世は漢文を十分に読めない人までも、中国小説の読了を希望する流行期に入って、当時の語で「通俗書」と呼ばれる、片仮名交じりの翻訳書の出版となった。大は『通俗忠義水滸伝』(宝暦七~寛政二年刊)、『通俗西遊記』(宝暦八~天保二年刊)のごとく、長い年月を経た出版から、西田維則訳『通俗
好逑伝』(宝暦九年刊)、
三宅嘯山訳『通俗酔菩提全伝』(宝暦九年刊)をはじめ、翻訳態度はさまざまで、中編の形をとって、宝暦・明和(一七六四~一七七二)の間、かなりの数に上る。
しからば何がゆえに中国白話小説が、当代人士の興味を引いたかといえば、当時日本には読むにたえる小説が欠乏していたのが一つの理由である。『源氏物語』以来の王朝物語系は、時代隔たって、ひととおりの知識人といえども読了は困難になってきた。元禄期に新興した
西鶴・
其磧らの浮世草子は、
強弩の末、出版を続けているが、類型化して浅薄に、文才共に乏しく、教養ある読者の感情を誘うものが乏しく、知識人の読むべきものではなかった。その欠乏を補うべき中国白話小説は、これはまた、その小説性において、日本の過去現在の作品をはるかに
凌いでいた。その特色の幾つかを、かつて指摘したところ(拙稿「読本発生に関する諸問題」『近世小説史の研究』所収)によって箇条書すれば、次のごとくである。
一、ストーリー・構成の妙。ことに長編構成の妙は、日本の従来の作品には、全く比較するものもなかった。
二、作中人物に性格が明確に付与されて、よく構成に参加している。日本人に作品の「性格」という語を教えたのは、金聖嘆の『水滸伝』の評であった。
三、ただにストーリーの巧みで、一時の楽しみに終らず、読書人の心情を動かす人情味を持っていた。勝部青魚は『剪灯随筆』の中で、その時代人として正直にそのことを告げている。
四、それは描写・表現が俗語を用いるゆえに行きとどき、人間の体臭と、生活の真実を持っていた。
五、中国人は、勧善懲悪とか寓意などの語を使用しているが、作中に思想的に与えるものを持っている。白話小説の序などにはまた、「愚を導く」とか、「俗の儆」など述べているが、中国文人の作品に託した思想を陳べたものも混じている。
六、文章は白話とはいえ、知識人の見るに値するものである。
七、そして金聖嘆・毛声山などの批評は、小説の読み方とともに、小説がいかにあるべきかを教えた。
などである。文人遊閑の生活に、和漢の小説を読み、
鬱を散ずる人々の中には、和漢の小説の比較から、この貧困の小説界に、自己の表現能力をもって、このすぐれた中国小説の持つものを、一般に示すことに志す人々も出てくるのが、自然のなりゆきではあるまいか。新作ができれば、それに過ぎるものはあるまいけれども、一般日本人に理解され、中国小説の長所を損うことなく伝えるには、仮名草子の昔にも不思議と、『
伽婢子』などのごとき翻案があった(『伽婢子』が翻案であることは、岡田新川の『
秉穂録』二編に見える)ことに気づけばなおさら、気づかずとも、和漢比較の盛んな時代だけに、翻案を思いつくこともまたありそうなことであった。それを最初に実行したのは、余人ならぬ
都賀庭鐘であり、早くも寛延二年(一七四九)その第一作『英草紙』を出した。『英草紙』作成時の配慮は、その解説の条に譲るが、この丹念な神経の持主は、小説愛好から得た知識を十分に盛り込んで、それは彼にとっても「遊戯の書」であっただけに、十分に趣味的ながら
彫琢が加えられた。時期尚早で、当時からすれば、このこむずかしい小説は爆発的な人気を得るなどのものでなかったが、版を重ね、続編を出して、同好者を得てきたのである。そして追随者も出現する。江戸では荻生徂徠門の
根本武夷かと思われる人の著『湘中八雄伝』が、武夷の没後明和五年(一七六八)に出た。『水滸伝』翻案の最初のもので、『
平妖伝』を利用したあともある。『西山物語』などの雅文小説を作っていた
建部綾足が、文章には彼一流の雅文癖は残っているが、『水滸伝』を翻案して、『本朝水滸伝』(安永二年刊)を出した。本格的長編小説のなかった日本で、これは最初の長編構成を持ったもので、後年滝沢馬琴の高く評したゆえんである。浮世草子の
気質物を作っていた
上田秋成が、すこぶる多くの点で庭鐘の影響下に『雨月物語』を一度作り上げたのは序した明和五年であった。刊行の安永五年(一七七六)まで、直接、庭鐘と小説で談じ合う機会もあって、しだいに精錬されたことだったろうと想像する。白話短編集『石点頭』の一編を翻案して、
富士谷成章が稿本『白菊奇談』を書いたのはいつの頃であろうか、同じ『石点頭』の一編を翻案した『太平記秘説』の出たのは天明二年(一七八二)である。次いで上方の伊丹椿園、江戸の
森羅子こと
森島中良、
石川雅望、その他今は誰人ともわからぬ翻案小説家たちが続出、寛政十一年(一七九九)の
山東京伝の『忠臣水滸伝』によって、
読本界がいわゆる後期に入るまで、翻案またはそれに類した作品が続くのである。ここで掲げた名のわかった人々は、いちいちに解説する余地がないが、皆文人と称してよい人々である。日本近世の小説界は、これらの人々の作品によって、明治に入るまでの間で、最も小説らしい小説、読本の発達がもたらされたのである。
文人の戯作的小説はほかに、やはり中国の
艶史類の
刺戟もあって発生した初期
洒落本、中国笑話の刺戟によって発達した
小咄本などもあるのであるが、本書は、都賀庭鐘、建部綾足、上田秋成の以下の四部をもって編成することになった。よって、この総説も、もっぱらジャンルでいえば、読本についてのものになったことを許されたい。(中村 幸彦)