西鶴の晩年とは、
経済小説の第一作『
日本永代蔵』を発表した元禄元年(一六八八)四十七歳から、第一遺稿『西鶴置土産』が執筆刊行された元禄六年までの六年間をいう。作品としては中期の説話文学の中の新趣向の作品として書かれた、
一、『日本永代蔵』(元禄元年正月刊・三都版)
二、『西鶴織留』(北条団水編の第二遺稿・元禄七年三月刊・三都版)元禄二、三年中の執筆。
三、『万の文反古』(元禄九年刊の第四遺稿・三都版)元禄三、四年中の執筆。
四、『世間胸算用』(元禄五年正月刊・三都版)
五、『西鶴置土産』(元禄六年冬刊の第一遺稿・三都版)成稿は同年病中。
これだけの経済小説の流れの中で、生前に本屋が引き受けて出版されたのは、四番目の『胸算用』だけである。その他の遺稿として出版された『織留』や『文反古』などは、未完成であったために日の目を見なかったのである。その原因の第一は元禄二年以後、一進一退を繰返しながら衰えていった晩年の健康状態であった。それでも元禄三年十二月下旬には小康を得て上京し、俳諧の門人・北条団水亭を訪れ、両吟歌仙二巻を試みたが、
蘇生して何はなすらん 西 鶴
燃えしきる燈をかきたてよかきたてよ 団 水
と団水が師をはげましているように、二歌仙とも半歌仙で終っている
(元禄四年一月刊・団水編『団袋』)。「寓言と
偽とは異なるぞ、うそなたくみそ、つくりごとな申しそ」(文芸は真実にもとづくフィクションである)という、元禄当時の西鶴の文学観を紹介したのも本書である。
また五十一歳の元禄五年三月の西鶴書簡に、「今程目をいたみ、筆も覚え申さず候」と老衰を嘆いたあげく、その翌六年八月十日に、
人間五十年の究り、それさへ
我にはあまりたるにましてや
浮世の月見過しにけり末二年
という辞世吟と、病中の絶作『西鶴置土産』を残して他界した。
西鶴を不朽の作家たらしめた晩年の町人物の成行きは、以上のような健康状態を承知しておかないと理解できないであろう。
経済小説の走り
日本においてはもとより世界的にも経済小説(町人物)の先駆けとなった『日本永代蔵』は、三都版作家として武家説話で売り出し中の貞享四年(一六八七)中に、新趣向の町人説話として成稿した作品である。西鶴はこの作品を契機として、記録や伝聞に頼るしかない体験領域外の武家説話シリーズの末路を悟り、自分と運命共同体の町人の経済生活という現実と対決することになったのである。
寛文末年(一六七一~七二)に河村
瑞賢による本州一周航路が整備され、同時に両替商(金融機関)制度が整ったので、経済都市大坂は日本の商業資本主義の根拠地となり、それから約十五年後の貞享三、四年は、商業資本主義の隆盛期を迎えていた。だからその諸相を題材とする『永代蔵』は、まことに画期的でタイムリーな作品であった。
そこで西鶴のモチーフは、サブタイトルに「大福新長者教」とあるように、立身出世を夢見て奉公中の農村出身(二、三男)の手代や番頭を激励するにあった。だから巻頭の第一章で、
惣じて、親のゆづりをうけず、その身才覚にしてかせぎ出し、銀五百貫目よりして、是を分限といへり。千貫目のうへを長者とは云ふなり。
と、親の遺産を頼らない、独立独歩の一代分限を理想として掲げたのである。だから巻一から巻四までの二十章の主人公たちは、その手段が合法・非合法にかかわらず、独立独歩の一代分限である。ところが巻五、六になると、親譲りはもとより、住専のように無担保でいくらでも貸してくれる
銀親(出資者)を持った
商人でないと成功しない、寛文期以降の
出来商人(にわか成金)の数々を紹介して曰く、
今は銀を儲くる時節なれば、なかなか油断して渡世はなりがたし。(巻五の四)
これらは格別の一代分限、親よりゆづりなくては、すぐれて富貴にはなりがたし。(巻六の二)
などと、「惣じて、親のゆづりをうけず」という巻頭のヒロイックなスローガンに背反する、勇気ある発言をしている。これは観念的なイデオロギーや正義感よりも現実認識を重んずる、大坂町人的な西鶴生来のリアリズムの証しである。
『永代蔵』に引き続いて、元禄元年中に執筆した確証のある『本朝町人鑑』(二巻七章で中絶)と、さらに続いて執筆された『世の
人心、これも四巻十四章で中絶している。本屋も受け取らなかったこの出来損ないの未定稿を合わせて『西鶴
織留』と題し、門人の北条
団水が元禄七年三月に出版した第二遺稿について団水が序文で、この二作は『永代蔵』と合わせて三部作として書かれたものだと言っているが、内容的に見て納得できる。というのは、中絶した『本朝町人鑑』というタイトルは、本来ならば「新長者教」と副題した『永代蔵』にこそふさわしい。ところが新長者どもは案に相違して、大方は目的のためには手段を
択ばぬ金の亡者どもであった。心ならずも自分が
暴た結果ではあったがたまりかねて、「町人の中の町人鑑」(巻二の一)を提供しようとしたのであった。そして西鶴はそれらの説話で柄がらにもなく、仏教の因果思想や儒教道徳を動員して、心正しくあれば神仏の恵みによっておのずから富み、また貧しくとも心安らかに生きることができると説いている。だが巻一の二で、ある大坂の問屋の亭主が人の銀をだまし取った報いで、その家は目前に絶え、女房は手のない子を産んで見世物になったという因果応報の話をした挙句に言う。
無理なる欲はかならずせまじき事ぞかし。ならねばなるやうに、世渡りは様々あり。然れども望姓で持たぬ商人は、随分才覚に取廻しても利銀にかきあげ(借りた元手の利子に吸い上げられ)、皆人奉公になりぬ。よき銀親の有る人は、おのづから自由にして、何時にても見立ての買置、利を得る事多し。
うっかり本音を口走ることを「語るに落ちる」というが、これが資本主義時代であることを確認した『永代蔵』の後遺症である。
このように矛盾した
自家撞着を繰返していては、読者はもとより本屋が納得しないことはわかり切っているから、せっかくの『町人鑑』も九章で断念せざるを得なかったのである。そしてそれに代わる『世の人心』を四巻十四章まで書いたのだが、これがまたすべてストーリーのない随想ときている。町人の社交的教養である茶の湯・活花・俳諧などについての批判的な芸道随筆、医者や質屋や女奉公人など、中下層の町人生活に関するリアルでユニークな世相随筆である。だが仮名草子時代ならともかく、西鶴自身が開発した〈教訓と娯楽〉が新小説という概念の定着した出版界が歓迎するはずもなく、未完の二作を合わせて第二遺稿集『西鶴織留』
(元禄七年三月刊)となった。先に述べたように、こういう思想的・方法的混迷は、不安定な健康が左右していることはいうまでもない。
没後三年目の元禄九年一月刊の第四遺稿、書簡体小説集『万の文反古』(内題)の成稿は、健康がやや回復した元禄三、四年中と推定されている。この
候 文十七章の短編集は、書簡形式だから各編四百字詰原稿用紙で六、七枚、全部で百十枚ほどだが、各章に付けた老婆心の
解説の書き出しに二通りある。「此文の子細を
考見るに」というAグループが九章、「此文を考見るに」というBグループが八章と分かれているから、間を置いて十七章に仕上げたことがわかる。その前後は推量するしかないが、私はその町人物的題材・内容から見て、Aグループが先で、これだけでは大衆性が乏しく量的にも不足なので、説話的興味を主としたBグループを書き足したものと考えている。
ヨーロッパでは十八世紀の中頃に成立した英国のサムエル・リチャードソンの『パミラ』が書簡体小説の祖で、かつ近代小説の源流とされている。ところが日本では平安時代(十一世紀)から中世にかけて、書簡体小説の数々がある。十七世紀初めの江戸時代初期のベストセラー『薄雪物語』(往復の艶書二十九通)をはじめ、『文反古』成立の三、四年以前の元禄元年にも、『好色
文伝授』や『色欲
年八卦』などが出版されている。書簡体は大衆に馴染みの深いスタイルなのだが、それらはすべて艶書文学である。
ところが『文反古』のAグループ九章の大方は、艶書どころか経済的に追い詰められた中下層町人の悲喜劇を題材としている。西鶴自筆の自序に言う。見苦しくないのは世々の賢人が書き残した本箱の本だと兼好が書き残しているが、それを読めば人の助けになる。だが見苦しいのは今の世間の手紙だから、気をつけて捨てるべきだ。「かならずその身の恥を、人に
二度見さがされけるひとつなり」と述べている。
人間を失格したその身の恥をさらけ出し、現在の窮状をありのままに告白し、懺悔し、救いを求めるという設定は、主人公を極限状況に置いて物語性のない平凡で殺風景な現実を非凡化し、読者に緊迫感を与えるという、きわめて近代的な手法である。たとえば巻一の一「世帯の大事は正月仕舞」は、年間の収支決算日である大晦日を目前にして、
借銀に
二進も
三進も行かなくなった大坂の中流の商人の内情を暴露した手紙である。また巻一の三「百三十里の所を十匁の無心」は、酒でしくじって兄にも相談せずに江戸へ稼ぎに下った大坂の魚屋が、「今の世、金がかねをもうける時になった」(レジュメ)ので餓死寸前の身の上となり、江戸で一緒になった女房・子供も捨てて、大坂へ帰る旅費を兄に無心した手紙である。このようにAグループ九章の大方は、極限状況下の中下層町人の現状を描いており、近現代の鑑賞には十二分にたえうる作品群なのだが、これでは当時の本屋が質的にも量的にも受け取るはずはないと考えたのであろう。そこで書き足したBグループ八章は、同じく極限状況を設定しているが、大衆性を顧慮した説話性十分な作品である。巻三の二「明けて驚く
書置箱」や巻四の一「南部の人が見たも
真言」のように、旧作を改作した娯楽的な作品もあるのだが、西鶴も半ば予想していたように、このちぐはぐな書簡体の作品は、没後三年目に『西鶴文反古』と題し、第四遺稿として出版される破目になったのは、不幸中の幸いであった。
最晩年の奮起
その脱戯作的な精神や方法の故に、『万の文反古』は生前、出版を見送られたのであったが、五十歳の元禄四年、健康の一時的な回復とともに、西鶴は捲土重来を期した。それも失敗した『文反古』における〈極限状況〉の設定というユニークな方法をより強化して成功した、五巻二十章の『世間
胸算用』においてである。この『胸算用』における超時代的なテーマや方法、ならびにその近代性については、拙著『西鶴新論』
(昭和五十六年・中央公論社刊)の各章において詳説しているので、ここでは要点を述べることにしたい。
その一。未完の前作『文反古』では、主人公各自のまちまちな極限状況であった。それを西鶴は『胸算用』において、すべての庶民が「
銭銀なくては越されざる冬と春との峠」(巻一の一)である一年最後の収支決算日、大晦日という普遍的な経済的極限状況で二十の短編を掌握するという、世界の小説史上、類例を見ない効果的な時間設定をしている。しかもその大晦日は、「元朝に日蝕六十九年以前にありて、又元禄五年
壬 申みづのえさるほどにこの曙めづらし」などと、再三この大晦日は昨日昨夜のことなのだと、リアル・タイムであることを駄目押ししているのは凄い。
その二。さらに
瞠目すべき手法は、主人公を設定しなければ成り立たない隠居の婆のエゴイズムを描いた巻一の四「
鼠の文づかひ」や、絶望に耐える夫婦愛を描いた巻三の三「小判は寝姿の夢」などの特殊例を除いて(もっともこの二編も無名)、その他の作品では登場人物はすべて無名で集団描写を試みていることである。江戸時代においては、名字(姓)を名のることを公認されたのは士分以上で、農工商は屋号か通称(権兵衛・お夏・お七)だけで呼ばれていた。それさえ無視して無名の集団描写を試みたのは、商業資本主義の現代において、資本と無縁の町人大衆の貧困にもとづく悲喜劇は、無名の集団の運命として把握するよりほかはないと認識していたからである。このたぐい稀な悲喜劇が西鶴の意識的演出であったことは、プロレタリア作家・武田麟太郎の文壇へのデビュー作となった『ある除夜』(昭和五年)の原拠となった巻五の三「
平太郎殿」で、「哀れにも又をかし」と表明していることで明らかだ。
『胸算用』がめでたく元禄五年正月に三都版で出版された五十一歳の西鶴は、三月四日付の手紙に「今程目をいたみ、筆も覚え申さず候」と述べている。また同月二十四日には、盲目の娘(光含心照信女)が病没するという、弱り目に
祟目の有様で、小説を書くどころではなかった。名月の五日前の旧八月十日に没した翌元禄六年になると、遺書のつもりで最期の作品に取りかかり、五巻十五章を書いて序文まで書いたのだが、出版を待たず病没した。そこで京都高倉から駆けつけた門人の北条団水が、第一遺稿として同年冬に出版したのが『西鶴置土産』(原題は自序によると「色道大全」か)である。「難波西鶴」と署名した自序に言う。
世界の偽かたまつて、ひとつの美遊となれり。是をおもふに真言をかたり、揚屋に一日は暮しがたし。(中略)去程に女郎買、珊瑚珠の緒じめさげながら此里(廓)やめたるは独りもなし。(下略)
だから私は粋という虚妄の美意識のために身代を蕩尽したプレイボーイの成れの果て十五人の生き様を、右代表としてレポートしたのであると結んでいる。自序にいう「虚妄の美遊」とは、十年以前の処女作『好色一代男』において、町人的美意識として賛美した「粋」であることはいうまでもない。西鶴はもはや二の矢がつげない土壇場になって、それを虚妄の美遊と断じ、その避け難い無残な結果を暴いて、創造者としての責任を果たしたのである。
極限状況下の彼等は、目から鱗が落ちたように本来の自己を取り戻し、どん底ながら気楽に、たくましく、誇り高く、それぞれのペースで生きつつある現状を淡々と描いている。それについて『古典文学論』の著者・正宗白鳥は、「『胸算用』まではわたしでも書けるかもしれないと思うので、帽子を脱ぐ気にならなかったが、『置土産』を読んだら初めて帽子を脱ぐ気になった」と言い、「これはテクニックで書けない小説だ。『置土産』の世界は自分がそういう境地にたどり着かないと書けないからだ。西鶴も置土産に至って、あれほどこだわった現実を捨て、本当にどん底に安心立命してゐる。だからわたくしは尊敬せざるを得ない」と絶賛している。
翌七年初冬十月、同じ大坂で病没した五十一歳の芭蕉は、辞世となった病中吟、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
について、門人の
支考に「是を仏の妄執といましめ給へる。ただちは今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふは」と言い残している。
この元禄文芸復興を代表する小説家と詩人が、死に臨んでそれまでこだわり続けた現実(人生と自然)から解脱する境地を
披瀝したことは、さすが絶世の芸術家の
箴言として、白鳥ではないが脱帽せざるを得ない。
*西鶴文学の近代的評価については、『西鶴への招待』(岩波セミナーブックス・一九九五年)と、竹野静雄著『近代文学と西鶴』(新典社・一九八〇年)を御覧ください。
(暉峻康隆)