西鶴が四十一歳の天和二年(一六八二)に発表した処女作『好色一代男』を書く必然性は、その直前に敢行した風俗詩的な独吟千六百句の『
大句数』と独吟四千句の『
大矢数』を見ればわかる。だがそれは西鶴自身の内部事情で、俳諧師としていくら有名であっても、大坂の板元が当時はまだ仮名草子と称していた得体の知れない小説の処女作を引き受けるはずもなく、奥付に「荒砥屋孫兵衛可心板」とある、後にも先にもこれっ切りのインスタント板元の私家版であった。
ところがこの破天荒の
悪漢小説が大当り、翌天和三年には江戸で当時全盛の浮世絵師・
菱河師宣の挿絵で、江戸版『一代男』の出版
(翌貞享元年三月刊)の話が持ち込まれたので、西鶴もやる気を出して第二作『
諸艶大鑑』
(好色二代男・貞享元年四月刊)を書くと、地元大坂の板元・池田屋(岡田三郎右衛門)が飛びついて、忽ち西鶴は上方のローカル作家となった。
第三作『西鶴諸国ばなし』(貞享二年一月、大坂池田屋版)
第四作『椀 久 わんきゆう一世の物語』(同年二月、大坂森田版)
第五作『好色五人女』(同三年二月、大坂森田版)
第六作『好色一代女』(同三年六月、大坂池田屋版)
一六八二年に私家版作家として出発した西鶴は、まもなく地元大坂の板元がスポンサーとなって、ローカル作家となったのであった。しかし五年間に六作とはいかにも寡作である。もっともその間に、貞享元年六月には住吉社前で一昼夜独吟二万三千五百句の
荒行を敢行したり、翌貞享二年一月には京都の宇治
加賀掾のために浄瑠璃『
暦』を新作刊行し、道頓堀で上演したり、かなり我儘に浮気をしている。だから小説の方も「好色」というテーマを興のおもむくままに拡大解釈して体験領域内に取材し、悠々と書いているので、寡作ではあるが生き生きとしている。
ところが『一代女』に続く第七作は、「好色」とはまったく関係のない『本朝二十不孝』
(同貞享三年十一月刊)で、この作品には地元の岡田三郎右衛門(池田屋)と
千種五兵衛のほかに、江戸青物町の
万谷清兵衛(万屋の誤り)がはじめて参加している。この二都版の『二十不孝』をきっかけとして、翌貞享四年から西鶴は大坂・江戸、または大坂・京都、大坂・京都・江戸の板元が参加する二都または三都版の作者となった。例えば、
貞享四年(一六八七)
一月、『
男 色 大鑑』(大坂・京都。再版は三都版)
四月、『武道伝来記』(大坂・江戸)
元禄元年(一六八八)
一月、『日本永代蔵』(三都版)
二月、『武家義理物語』(三都版)
十一月、『新可笑記』(大坂・江戸)
元禄二年(一六八九)
一月、『
本朝桜陰比事』(大坂・江戸。流行作家時代の最後の作品)
以上を要約すると、大坂のローカル作家であった西鶴が京都や江戸の板元にも、その斬新な文体や娯楽性を認知されて三都版作家、つまり全国で通用する流行作家にのし上がったということである。こうなると注文殺到、五年間に六作という自主的創作でお茶を濁しているわけにはいかない。
江戸の万屋が参加して三都版作品の第一号となった『本朝二十不孝』
(貞享三年十一月刊)は、『一代男』から始まって翌貞享四年一月刊の『男色大鑑』へと続く好色本シリーズの流れの中で、突然割り込んできた異質の作品である。だが作者にとって一連の好色本の登場人物たちは、封建社会のモラルや制度をまるで無視した悪党たちだったのだから、中国の『二十四孝』ならぬ本朝の『二十不孝』を書く必然性は十分にあった。そこへ持ってきて五代将軍綱吉は、忠孝を目玉とする儒教の信奉者で、『一代男』が出版された天和二年には、諸国に「忠孝札」を建てさせ、不忠不孝の輩は重罪に処すべき旨を令している(『徳川実記』)。その当局の方針に迎合した京儒・藤井
懶斎が、貞享元年に漢文体の『本朝孝子伝』(三冊)を出版した。これが時流に乗って翌二年に再版、さらに三年八月に三版が出た。この文部省推薦まがいの教訓的な『孝子伝』の流行に便乗し、大坂と江戸の板元が相談して急遽、西鶴ならではの反面教師をよそおった娯楽的な
悪漢小説を注文し、大急ぎで出版に漕ぎつけたのが、このいかにもジャーナリスティックな『二十不孝』であった。
しかしさすがに西鶴である。割り込んできた急作の『二十不孝』とほとんど同時の貞享四年一月刊の『男色大鑑』は、当代の好色の一面である「男色」(
衆道)をテーマとして、「好色物シリーズ」の掉尾の作品として、『二十不孝』より先に脱稿していたのである(『西鶴新論』男色大鑑の成立)。もちろん『大鑑』の板元は大坂と京都で、江戸の板元は加わっていない。だが何しろ人口の半分は衆道愛好の本家の武家で、すでに江戸の板元の声が掛かっていたので、西鶴は『大鑑』の巻一の一で江戸の読者へのサービスに努めている。
とかくは男世帯にして、住み所を武蔵の江府に極めて、浅草のかた陰にかり地をして、世の愁喜、人の治乱をもかまはず、不断は門をとぢて、朝飯前に若道根元記の口談、見聞覚知の四つの二の年まで諸国をたづね、一切衆道のありがたき事、残らず書き集め、男女のわかちを沙汰する。
もちろんフィクションではあるが、精一杯のサービスをしている。その甲斐あって『大鑑』の再版には江戸の万屋が参加して、まさしく三都版作家になっている。
三都版の流行作家になるということは、いつの時代でも作家の本懐であるに相違ない。しかし昨貞享三年までの五年間に、わずか六作三十四冊であった彼が、貞享四年から翌元禄元年までの二年間に、十作五十四冊の大量生産作家に変貌したのである。しかもその大部分は『男色大鑑』に引き続き、「諸国敵討」と傍題した『武道伝来記』(八冊)や『武家義理物語』(六冊)、『新可笑記』(五冊)、『本朝桜陰比事』(五冊)など、町人出身の西鶴にとっては体験領域外の、伝来の写本によるか聞き書きするよりほかはない、武家物シリーズである。
これだけの外注による量産をこなすには、ローカル作家時代のように、問題意識を持ってリアルタイムで取材し、文体や構成に意を用いた作風では処理できない。どうしても題材本意で文章も記述体の説話文学に移行せざるをえない。しかもその世界に対してアウトサイダーであった西鶴は、武士道というモラルに支配された悲劇を、痛みを感ずることなく、新しい娯楽文学としてリアルに描いている。それについて、『武道伝来記』についての論難書『日本武士鑑』
(元禄九年刊)が序においていう。
ここに近年、武道伝来記と名付けて世に弘むるあり。これをうかがひ見るに、一として実なることなし。猥りがはしき虚亡の説のみなれば、人の教になるべき物にしも非ず。
返り討ちにされたり、せっかく敵を討ちながら、たまたまその敵の家に奉公していたばっかりに、
主殺しの罪で獄門にかけられたりという、武家としては触れられたくない『伝来記』の冷静非情な敵討ちの裏話を、虚妄の説として非難しているのである。だがそれ故にこそ『伝来記』は、正義化された敵討ちの正体を暴いたユニークな作品たりえたのである。
アウトサイダーの西鶴が、こういう大量の武家説話シリーズを書き続けるには、ローカル作家時代の『西鶴諸国ばなし』の序文で、「世間の広き事、国々を見めぐりて、はなしの種をもとめぬ」という、取材旅行などしていては間に合う道理がない。もうこの頃は、推理作家の松本清張さんが取材や必要事項の蒐集・整理のために複数の助手を抱えておられたように、その種の西鶴工房が形成されていたようである。そしてそのニュースソースは、貞享・元禄当時九十五軒に達していた諸藩の
蔵屋敷しきの社交性ゆたかな蔵役人たちであった。その蔵屋敷の
蔵物(年貢米や物産)の売買を代行する「
蔵元」も、その代金を預かる「銀
掛屋」(掛屋)も、多くは有力な両替商で、
談林俳諧を嗜む連中であった。両者は
新町廓などで饗応し合っていた(宮本又次『大坂町人』)。武家説話の取材に出向く必要はなかったのである。
だが武家物シリーズはテーマ・題材ともに行き詰まることを見越した西鶴は、同じ説話でも新生面を開くべく、武家物とは打って変った町人階級の盛衰をテーマとした説話集『
日本永代蔵』(六冊三十章・三都版)を、『武道伝来記』
(貞享四年四月刊)と『武家義理物語』
(翌元禄元年二月刊)との間の同元年一月に発表している。かつて現役の町人であった西鶴にとって、サブタイトルを「大福新長者教」というこの『永代蔵』は、目先の変った町人説話として執筆したとはいえ、アウトサイダーであった武家説話と違って、その世界は明暗を百も承知の運命共同体であった。はからずもこの一作が、武家物シリーズの衰退を尻目に、元禄三年以後、没する同六年までに、説話性から脱却して独自な方法を擁するに至ったシビアな町人物の晩年を迎えることになったのである。
最後に、この流行作家時代に西鶴は、自分の俳諧師としての体験や素質に適応した方法を確立していることを指摘しておきたい。何しろ彼は小説を書くまでの二十数年、俳諧(連句)という短詩型をもっぱらとしていたので、人生の断面をとらえて簡潔に描くコント作家的な方法が身についていた。けれども作家を志したからには、一定のテーマや題材を総合的に描くという意欲を持ったのは当然である。だからローカル作家時代の西鶴は、処女作の『一代男』や『一代女』『五人女』などのように、長編・中編を目ざしているのだが、主人公を設けているとはいえコントの集合体で、建築的な構成とは無縁である。
ところが『男色大鑑』を起点とする武家物シリーズになると、一定のテーマと題材によって統一した短編集という、短歌における連作と同様の、独特の方法を擁するに至っている。これによって、例えば貞享二年刊の『西鶴諸国ばなし』のような、素朴で無構想の中世的説話文学や、長編めかした短編集というスタンスの不安定な方法から脱出し、彼の素質にフィットした方法に落ち着いたのであった。『日本永代蔵』を起点とする晩年の町人物も、テーマや題材は違ってもこの方法を堅持しているから、まさに西鶴が作家として確立した基本的方法というべきである。(暉峻康隆)