中世日記紀行文学の諸相
第48巻 中世日記紀行集より
旅の足跡を記したものを紀行文と名称するようになったのは、江戸時代の初め頃からである。それまでは、紀行文も月日を追って出来事を綴った日記の一種と認識していたようで、室町時代の紀行文である宗祇の『筑紫道記』や宗碩の『佐野のわたり』でも、その末尾に自己の作品を「この旅の日記」と呼んでいる。日記と紀行文は、日々の体験を時間に即して叙述する点で本質的に共通するが、その体験が固定した日常空間でのものか、旅に出て移動する異空間でのものかの相違があるといえる。
日本の文学史を俯瞰すると、平安時代はいわゆる女性の日記文学が盛んに創出されているが、中世になると紀行文学の方が圧倒的に多く現存している。それは、中世という時代には、平安時代に比較し、各階層にわたり、旅が盛行したことに起因する。旅が頻繁に行われたのは、鎌倉幕府の設立により、政治・文化の中心が東西に分離、その間を往復する機会が増えたこと、それにともない道路や宿場の整備・充実が施行されて旅が容易になったこと、地方都市の武将が高次の文化を志向し、京洛の文化人を招待したこと、戦乱の頻発した時代で、武士の出陣や文化人の地方への疎開が多かったこと、さらに寺社参詣の流行、廻国修行など、宗教的な問題などといった、種々な現象が原因になっているだろう。
中世の日記紀行文学作品は、現存するだけでも七、八十編の多数にのぼるが、この「中世日記紀行集」では、そのなかから、種々な観点を考慮して十三編を選択し、日記や旅の諸相を味読してもらうことを企図した。
収録した十三編の作品は、十三世紀、いわゆる鎌倉時代に成立したものと、十四世紀後半から十六世紀後半、すなわち南北朝期から室町時代を経て安土桃山時代までに成立したものとの、二つの大枠を設定して選択している。前者には、『海道記』『信生法師日記』『東関紀行』『弁内侍日記』『十六夜日記』『春の深山路』の六作品を選んだが、このうち『弁内侍日記』以外は、京都から東海道を下って鎌倉に向う旅の記が中心であるか、その道の記を含んだ作品ということで共通面を有する。
『海道記』の作者は未詳だが、その冒頭に「白川の渡、中山の麓に、閑素幽栖の侘士あり」と自己紹介をしているように、隠遁生活を送る遁世者である。貞応二年(一二二三)四月四日の暁に都を旅立ち、鈴鹿越えの道筋で東海道を下り、同月十八日に鎌倉に到着、寺社巡拝の後、五月初めに帰途につくまでの旅を記す。旅の目的は不透明だが、道中の名所旧跡などの景物と対峙した感慨を、仏教思想や作者の人生観と絡めながら吐露する叙述姿勢と、張りのある漢文訓読体に近い和漢混淆文の文章とが、この作品の魅力である。
この『海道記』と相似形をなす作品に『東関紀行』がある。この作者も未詳だが、「身は朝市にありて、心は隠遁にある」と自己の精神構造を表明しているように、なにかの生計の道に携わりながらも、隠遁者の心境を希求する人物である。仁治三年(一二四二)八月に都を出発、十日余りの後に鎌倉に到着、社寺参詣や名所遊覧などで、約二か月ほど滞在の後に鎌倉を後にするが、これまた旅の目的は不明瞭。『海道記』のような思想性・宗教性は稀薄だが、対句表現を駆使した流麗な文章で、道中の名所・歌枕などに対する感慨を、和漢の故事も絡めながら、静謐に綴っていて情趣深い。
この二作品に対し、『信生法師日記』の方は、作者も旅の目的も明確である。作者の信生法師は、宇都宮頼綱(蓮生法師)の弟、宇都宮朝業。彼は歌道愛好の故をもって将軍源実朝の寵愛を蒙ったが、将軍の横死を契機に、承久二年(一二二〇)頃、愛児たちを残したまま出家、仏道修行の生涯を送った人物である。
『信生法師日記』の旅は、元仁二年(一二二五)二月頃、「思ひ定むべき所」もないまま、「あくがるる心に誘はれ」て、修行のために京都から東国に旅立つところから開始される。旅は鎌倉到着後、遠く信州姥捨に旧友を訪ね、善光寺に参詣、最後、故郷の塩谷(栃木県)に帰省するという遙かな道程である。人間の老いと死を凝視、道々の旧跡への感慨を、我が身の罪、懺悔意識、懐旧などと絡めて叙述、全編が無常の悲涙に濡れた作品として読者の心をも揺さぶる。
これに対し、同じ京都から鎌倉に下向した紀行文『十六夜日記』は、作者阿仏尼が女性である点で特異である。この作品は阿仏尼が、細川庄の領有権をめぐる訴訟のため、弘安二年(一二七九)十月十六日に都を旅立ち、同月二十九日に鎌倉に到着、その十四日間の旅日記と翌年秋までの鎌倉滞在記とからなる。阿仏尼はその後、勝訴することもないまま帰洛したのか、鎌倉で客死したのかは不明。東海道の旅の記の方は、「定めなき命は知らぬ旅」を痛感しながらも、子供たちに歌枕の詠歌手法を自詠でもって教示する意図も込めて執筆した気配があり、また鎌倉滞在記の方は、都の友人たちとの文通や詠歌の上達してゆく子供たちへの慈愛に心を慰められる生活を記す。文章は修飾過多にならず簡素であり、その背後には子を思う親心が揺曳している。
鎌倉期の女性の日記として、『中務内侍日記』と併称される『弁内侍日記』を収めた。作者は藤原信実の女で、似絵の名手で歌人でもあった藤原隆信は彼女の祖父に当る。日記は寛元四年(一二四六)から建長四年(一二五二)までの、およそ七年間にわたる後深草天皇の宮中の出来事や人間模様を、女房の視点から断片的に綴っている。文章が淡泊で、内容も劇的な要素が少なく、一読、興趣の薄い感じも受ける。けれども、深く味読すると、人と人との交流場面を詠歌に収斂させてゆく過程には、繊細な感性に支えられた、彼女なりの諧謔性も窺えて興味深い。
さらに、阿仏尼が関東へ旅立ったと同じ頃の、男性の記した日記『春の深山路』を収録した。作者は蹴鞠と歌の家の人である飛鳥井雅有。この日記は弘安三年正月から十二月晦日までの一年間の記述であるが、正月から十一月十三日までは、東宮(後の伏見天皇)・後宇多天皇・亀山院などに出入りした在京の日次の日記、十一月十四日からは都から鎌倉への旅行記である。京都での生活は、蹴鞠、和歌会などの記事が多く、日を追って、聡明な東宮に魅力を感じてゆく、作者の心理過程も窺える。
以上が本書に収録した鎌倉時代の日記紀行文学の概説と特色だが、同じ時代に生を受けた人たちが、同じ京都から鎌倉への旅を、どのように記述しているか、あるいは宮廷に仕えた男性と女性の生活や感情の起伏などを相互に比較してみることは興味深い。そこには、旅の目的や作者の人生観、世界観の相違によって、種々な旅が、特色ある文章で綴られ、多様な旅の本質、旅の意味が改めて認識できるであろう。
もう一つの大枠として設定した、十四世紀後半から十六世紀後半にかけて成立した紀行文は夥しく現存し、旅した地域も、単に都から東国にとどまらず、全国に拡大している。そのなかから、旅の目的、旅した地域、作者層に配慮し、『道行きぶり』『なぐさみ草』『覧富士記』『東路のつと』『吉野詣記』『九州道の記』『九州の道の記』の七編を選んで収めた。このうち、『道行きぶり』『九州道の記』『九州の道の記』は、従軍や戦乱鎮圧などが旅立ちの契機になっており、しかも西国下向という点で共通する。『道行きぶり』は、今川了俊が南北朝の動乱で紊乱をきわめる九州を鎮定するため、応安四年(一三七一)二月、九州探題となって下向するときの紀行文である。ただし、九州に上陸してからの記事はなく、十一月末頃に周防の赤間の関に到着した所で擱筆している。実戦に向う武将らしく、生命の不安感を背景に、道中の景物を精確に描写、また寺社への参拝行為が随所に記されているところに特色がある。
『九州道の記』は、豊臣秀吉が島津・大友両氏の闘争鎮定を口実に、九州征服を企てた際、丹後国の田辺城にいた細川幽斎が、天正十五年(一五八七)四月、日本海を航行して九州博多の陣所で秀吉に謁見し、帰途は瀬戸内海を経て難波に着くまでの旅の記。その点で出陣紀行とみなされるが、すでに出家隠退の身であった作者は、実戦に加わる気持はなく、秀吉を陣中見舞いするという気軽な旅で、そこに悲愴感の流露は稀薄である。これと対照的な紀行文が、木下勝俊(長嘯子)の『九州の道の記』。これは、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄の役の先陣として、天正二十年(文禄元年)正月、都を出発し、四月頃、肥前国名護屋に到着するまでを記している。当時、二十四歳の青年武将だった作者は、故郷に妻子を残しての出陣であったため、作品全体には、生命の危機感や肉親との別離の悲傷が横溢している。これら三作品の旅は、政治的な圧力による受身的なもので、多人数を従えている点で共通するが、読み比べてみると、それぞれの旅情の内質は微妙に相違する。
受身的な旅といえば、この時代には天皇や将軍など、政治的権力者の旅に随行した人物の記した紀行文が多い。この種の紀行文は内容が平板で清新味に乏しい傾向があるが、これも時代の紀行文の特色ということで、堯孝の『覧富士記』を選んでみた。この旅は永享四年(一四三二)九月、将軍足利義教が、関東公方足利持氏を牽制する意図もあって、富士見物に出立したときの随行記である。所々に将軍に対する追従心が文学的に形象化されているところのあるのが特色である。
以上の四作品の旅が受身的で群行の旅であったのに対し、『なぐさみ草』『東路のつと』『吉野詣記』の旅は、自発的で、しかも一人ないし二、三人の旅の記である。
『なぐさみ草』は、正徹が応永二十五年(一四一八)三月末、都を旅立ち、美濃・尾張まで下向、尾張にしばらく滞在、『源氏物語』を講じた生活を記している。和歌の師であった今川了俊・冷泉為尹を亡くした後の寂しい感情が全体に流露しており、また、越の国へ行く童形との恋愛感情に苦悩する気持を吐露するなど、興味深い作品である。また宗長の『東路のつと』は、永正六年(一五〇九)七月、白河の関一見のため、駿河国の丸子宿を旅立ち関東に向うが、合戦や洪水のために白河行きを断念、その後関東の所々を経巡る、約半年にわたる大旅行の記である。宗長独特の無修飾無造作な文章の背後には、戦乱の世にあって人々の歓待を受けながら旅する連歌師の、冷静な眼と孤独な影も垣間見される。さらに、『吉野詣記』は、当時すでに六十七歳の老齢だった三条西公条が、天文二十二年(一五五三)二月、連歌師紹巴などを伴って、南都の諸社参詣と吉野観桜などを目的に旅したときの紀行文である。作者は出発の前年に愛妻を亡くしており、淡々とした文章の背後に、妻の冥福と自身の往生安楽の祈願が込められていることが窺える。
以上、本書に収録した十三編の作品を、いくつかの共通項で括りながら紹介してきたが、このうち、およそ半分は、初めて注釈が施された作品である。このことも、本書の意義の一つであろう。
三木清は『人生論ノート』(旅について)で、「旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかやうに解放されることの嬉しさである。……解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある」と、鋭く旅の本質をついている。が、これは近現代の旅を念頭にしたものであり、中世人の旅の様相のすべてに該当するわけではない。本書に収めた作品の範囲でも、種々な階層の中世人が、多様な目的でおこなった旅の諸相が鮮明に浮上するだろう。
古典文学を味読する意義は、そこに現代にも貫通する普遍的なものを認識するとともに、現代人が喪失したものの価値を再発見し、改めて現代社会に生を営む自己を反省、凝視する衝動を与えられる点にある。中世人の生活や旅の諸相を、現代社会のそれと真摯に対峙する姿勢こそ、古典文学を蘇生させることになるであろう。(稲田利徳)
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記(傍点を太字に変更)を用いた箇所があります。ご了承ください。