『今昔物語集』も巻二十七より最終巻にいたる五巻となるといちだんとおもしろい。多くの近現代の作家たちが、彼らの小説の素材をこれらの巻から取り上げた。それにはそれ相応の理由があった。
まず第一に、これらの巻の話はいわゆる
世俗の話であって、巻二十までの仏法にかかわる話でもなく、仏法的世界観をもって包み込もうとする姿勢でもない。かえって仏法よりも力のあるものの存在を肯定しようとする。巻二十七第三話は、
桃園の柱の穴より幼児の手が出て人を招くという怪異談であるが、その穴の上に経を結びつけたがその怪異はやまなかった。そこでその穴に
征箭をさし入れたところ、手が出て人を招くことはなくなった。これには『今昔』の編者(たぶん
僧侶であろう)も、「征箭ノ験当ニ仏経ニ増リ奉テ、恐ムヤハ」と所感を述べている。編者にとっては仏・経の力のほうが霊験あらたかであるべきはずであるのに、武のほうがまさっていたというのは心外であろうが、しかし無理な仏教的解釈を施そうとはしない。
第二に、
儒教思想もまだ現れていない。『今昔』では巻九を中国の孝養談に当て、巻十を中国の国史に当てているが、巻六・七は中国仏教の話であり、当時の日本にとって中国はどのような存在であったかがよくわかる。日本人の思想にもっとも大きな影響を与えたかと思われる
孝子説話にしても、本朝の部には中国孝子
譚に表れるような、われわれにとってはオーバーと思われる孝子譚の影響は表れていない。巻二十七第十三話に、かたく
物忌みをしている家に、その主人と同腹の弟で、母をともなって
陸奥へ行っていた男(じつは鬼の化けた姿)が訪ねてきて泊めろという話がある。兄は弟について行った母のことが気がかりでその話を聞こうとつい門を開けて弟を入れた。そのために兄は弟に化けた鬼のために殺されることになる。つまり兄は母親の消息を知りたいために
物忌みの禁を破って門を開けて殺されることになるが、この母親を思う心は自然のものである。
また、巻二十七第三十三話は、病気の母が僧になっている次男にどうしても会いたいと言うので、母を介抱していた兄は
闇夜の京の町を弟を迎えに行く。これも親を思う真情から出た行為である。巻三十第九話は、いわゆる
姨母捨山説話であるが、親に対しては、姨母以上の愛情を抱いていたはずであり、これは人情の自然であろう。ところが、これらは母親に対する愛情であって、父親に対しては何も言っていない。ただ、巻三十一第二十七話に亡父を思う兄弟の話が出てくるが、これは中国的
孝子譚の臭みがする。
巻二十七第二十三話では、子を食わんとして鬼になった老母があり、「人ノ祖ノ年痛ウ老タルハ必ズ鬼ニ成テ此ク子ヲモ食ハムト為ル也ケリ」と、とんでもないことを言っている。しかしこれもなんの粉飾もつけないで、話の奇異なるままに書き残してあることに、当時の思想を知るうえには貴重な資料であろう。
その他の中国思想でも、儒教の仁義礼智信などのしかつめらしい徳目は、まだ姿を現していないし、孔子さえもまじめには取り上げていない(巻十)。まして
宋儒の哲学などは、もちろん時代的に入ってきていない。
こうしてみると、これらの話にはまだ外来思想の影響と見るべきものはほとんどないといえるであろう。つまり、日本人の本来持っている自然的な性情がよく現れているというべきであろう。しかしまた、いわゆる神道的な思想の影もまったく見えない。もちろん、まだ神道がその思想上の論理を形づくる以前だからであるし、
本地垂迹説も一般的ではない。つまり古代より通底している日本人の姿が見えるのではないだろうか。
第三に、ここに現れてくる人々は、当時の
あらゆる階層にわたっていることである。ただし、上流貴族と最下層の人々はあまり取り上げられていない。上流貴族については、欠巻となっている巻二十一に語られていたかもしれないが、天皇についてさえ、ただ奇行をもって世上に話題を提供した、つまり庶民に親しみ深い、
花山院について二回、いかがわしい
噂のあった
陽成院について一回出るだけであり、しかもいずれも話の主役は名もなき庶民である。上流貴族についても同様であって、話のテーマは貴族階級についてのものではない。この点は、『源氏物語』などの作り物語といちじるしくちがう点である。『源氏物語』などは、当時の最高の階層の様態と、それに仕えていた女房たちのあこがれをつづったもので、『今昔』とは制作の基盤も目的も全然ちがうのである。つまり、『源氏物語』の世界は閉じられた社会の、狭い発想から作られた物語であるのに対して、『今昔』の世界は広い社会のあらゆる階層の人々の行動を写したものである。どちらが平安時代をよりよく写し出したものであるか、言わずと知れたことである。このことから、じつは『今昔』の情報源がどこにあって、どういう人物がこういうものを
編纂したか、探り出したいものであるが、これは今後の課題である。
第四に、したがって、そこに扱われている
テーマが多種多様であることである。このことは本全集『今昔』第二冊の「古典への招待」で述べたことで、そこではとくに貧困と欲望について述べた。本冊でも貧困と欲望の話はあまた出てくるが、ここでは紙面の関係で省略し、当時の人はどのようにして富を得たかという点と、当時の人々のユーモアについて述べておこう。
どうしたら富を得られるか。まず
受領になることである。そのよい例に、巻二十八第四話がある。
(この尾張守になった者は)年来、旧受領ニテ、官モ不成デ沈ミ居タリケル程ニ、辛クシ(テ)尾張ノ守ニ被成タリケレバ、喜ビ乍ラ任国ニ忩ギ下タリケルニ、国皆亡ビテ田畠作ル事モ露無カリケレバ、此ノ守ミ本ヨリ心直クシテ、身ノ弁ヘナドモ有ケレバ、前々ノ国ヲモ吉ク政ケレバ、此ノ国ニ始メテ下テ後、国ノ事ヲ吉ク政ケレバ、国只国ニシ福シテ、隣ノ国ノ百姓雲ノ如クニ集リ来テ、岳山トモ不云、田畠ニ崩シ作ケレバ、二年ガ内ニ吉キ国ニ成ニケリ。
とあるのがよく当時の実情を語っている。まさに『尾張国
解文』(永延二年〈九八八〉、尾張国の百姓らが、国守の非法を朝廷に訴え、その解任を要求した文書)にあるような国司の横暴は実在したのであろう。本話の主人公はよくその荒廃を立て直し、富裕になったために、
五節の
舞姫を出すほどの名誉を得たのではあったが。
巻二十八第三十八話には信濃守
藤原陳忠の話がある。彼は任終って京へ帰る途中、美濃の
御坂峠を越える時、乗った馬が懸け橋を踏みはずして谷底へ墜落した。幸い木の枝に引っかかって一命をとり止めたが、谷底から
籠を降せと叫ぶ。家来どもがさっそく籠を降したところ、はじめの籠には
平茸がいっぱい入っていて、二度目の籠には国守が平茸を三房ばかり持って引き上げられた。家来どもがどうして平茸なぞ持って上ってきたのか、と聞くと、「受領ハ倒ル所ニ土ヲ爴メ」というではないか、と答えたので、供の者ども、
唖然として憎み笑った、という。
こういう根性は受領一般であったらしく、讃岐国の国守は
満農池の魚を全部捕ろうとして堤に穴をあけたため、池の水が流れ出し、その国の人の生活に甚大な被害を与えた(巻三十一第二十二話)。肥後守
源章家(巻二十九第二十七話)、能登守藤原
通宗(巻三十一第二十一話)らの横暴・強欲をはじめ、受領やそれについて行くと経済的に豊かになる話(巻二十七第二十五話、巻二十九第六・七話、巻三十第六話)は数多い。しかし、こうした悪政はそのまま中央政府で容認するわけではない。国司・受領交替の時には後任の者に帳簿などの点検を受け事務引き継ぎをしなければならない。それをまともにやったら自分の悪行がばれてしまうことになる。そこで前国守は帳簿の
改竄をしてごまかそうとする。しかもそのことがばれてしまっては身の破滅となるであろう。そこでその帳簿等の改竄をさせた書生を殺してしまって口封じをしようとするような極悪非道の者まで現れることになった(巻二十九第二十六話)。
徳人(金持ち)になるもう一つの方法は地方に行かなくても、京やその付近にいて徳人になる蓄財の方法で、これには
大蔵の役人がたけていたらしく、話に出てくるのは皆大蔵の役人である。猫が大嫌いで、猫を脅しに使われて納税の約束書を書かされた藤原
清廉(巻二十八第三十一話)、大蔵の最下の
史生のくせに、西の京に広大な邸宅を構え、娘たちに貴族のような生活をさせて華美を誇った
宗岡高助(巻三十一第五話)、それに、
紀助延がいる。彼についての話(巻二十八第三十三話)の冒頭に次のごとくにある。
今昔、内舎人ヨリ大蔵ノ丞ニ成テ、後ニハ冠給リテ、大蔵ノ大夫トテ、紀ノ助延ト云フ者有キ。若カリケル時ヨリ、米ヲ人ニ借シテ、本ノ員ニ増テ返シ得ケレバ、年月ヲ経ルマヽニ、其ノ員多ク積リテ、四五万石ニ成テナム有ケレバ、世ノ人、此ノ助延ヲ万石ノ大夫トナム付タリシ。
要するに、いわゆる高利貸しである。当時は米が交易の具に使われていたから、その米を貸して(おそらく一年契約であろう)、倍にして返させれば、十割の利息ということになる。これはとんでもない高利である。おそらく大蔵の他の役人どもも同様な利殖の方法を行っていたのであろう。もちろん商売によって富裕になることも一部では始っていた(巻二十九第三十六話)。こうした現実的な話は、作り物語などには絶えて出てこないであろうし、日本文学史においても
西鶴の町人物まではあまり見ない話である。
第五に、数々の悪行の横行である。巻二十九はことに悪行談を集めた巻であるから、諸種の悪行の様態が見られる。当時の悪行の筆頭は、盗人の話で四十話中二十二話に及ぶ。これを取り締るために
検非違使庁が設けられたが、その検非違使からして盗みをたくらんだという(巻二十九第十五話)し、検非違使庁で使っていた
放免どもが強盗に入るという(巻二十九第六話)のだからお話にならないが、現代の世相に一脈通じるところがなくもない。要するに『今昔』の話は現代人にもよく理解できるということである。
しかし、現代人と大きく違うのは、
超自然的存在への盲信である。科学的にはほとんど解明されたかに思われる現代においても、心霊を信じ因果を信じる人々がいるように、人間というものは自然に対してじつに無力なもので、なにかにすがらなくては生きていけない。この世の中には怪異・奇異なことはいくらでも起る。それに対して平安時代の人々は、その背後に、
人智ではどうにもはかりしれないものの存在を想像する。まずそれは
物の霊である。水の霊(巻二十七第五話)、銅の霊(同第六話)、
提の霊(同第二十八話)であったりする。これらの霊はとくに人に危害を加えることはないが、しだいに人に危害を加えるものが出てきて、いかにも恐ろしい
容貌をもつ具体的な姿となる。それが鬼である。人々の恐怖心の具象化したものである(巻二十七第七~九・十三~十九・二十四)。しかし、人々はそういう怪異現象のあとでよく
狐の姿を見かける。狐は人家の近くにいくらでも見られた動物である。そうするとなんだいまの怪異は狐のしわざか、という解釈が出てくる。そこで狐は人を化かすということになる。
狸はこのころまだ出てこないが、
野猪というものがその代りをする。
これらの怪異に対抗するために、人々は
陰陽師や
法師に
除災を依頼する。陰陽師と法師との除災の力の差異はよくわからないが、陰陽師のほうが庶民的であり、法師は貴族の間で用いられたと思われる。
しかしこれらのなかで注意しておいてよいのは、人々の間で武力に対する信仰が絶大であったことである。巻二十七第十八話に、ある家に夜中に怪異が発生し、油断して刀も持たないで寝ていた五位の侍はとり殺され、刀を持って構えていた二人の若侍はなんともなかったという。巻二十九第五話では、陰陽師から「かたく
物忌みをせよ」と言われていた法師が、友人の
平貞盛のたっての頼みでその夜泊めたところ、十数人の強盗が押し入ったが、見事、貞盛のために全滅させられたという。当時の人々には絶対的と信じられていた物忌みも、武人によって打破されたのである。とかく武人に対する賞賛が目立つが、これも、やがて武家の世になる世相の一端を示すのであろう。
このように、平安時代の人々は内外から危難にさらされていたようであるが、人々は意外に明るい。それは巻二十八に載せられた諸話に表れている。その一は、彼らは
好奇心に富み、
いたずら好きであったことである(巻二十八第一・二・四・五・八・十九・二十一・二十二・二十四・二十五・三十・三十一・三十三・四十一・四十三話)。その二は、彼らのなかに「
世馴れたる物言い」がいたことである(巻二十八第五・六・八~十七・二十二・三十八話)。これらの話を読むと、案外人々の生活は楽しく、ユーモアがよく理解され、精神的にはのびのびしていたのではないかと思われるが、いかがであろうか。(馬淵和夫)