古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

物語はどのように読まれたか

第16巻 うつほ物語(3)より
 古代の物語が、どのような階層の人々に、どのような形式で読まれていたかということは、物語文学の価値やその本質にもかかわる重要な問題である。実際、物語文学が、文字どおりその本質に物語る要素を含むものならば、当然物語られる側からの考察も、積極的に押し進めるべきであろう。
物語享受の形式
さて、当時の読書形態がうかがわれる資料から推察すると、当時の物語の享受の形式として、およそ次の五とおりが考えられる。
 その第一は、第三者に物語を朗読させ、自身は絵を見てゆくという形である。
絵など取り出でさせて、右近にことば読ませて見たまふに、向かひてもの恥ぢもえしあへたまはず、心に入れて見たまへる火影ほかげ、さらにここと見ゆるところなく、こまかにをかしげなり。  (源氏物語・東屋)
 宇治の中の君が、傷心の浮舟を慰めるために、物語絵を取り出させて、侍女の右近に詞書を読ませながら、ともに見ている場面である。ここはちょうど国宝の『源氏物語絵巻』の「東屋」の一段として現存しており、それによれば浮舟が物語絵を見ている傍らで、侍女の右近が冊子本を手に持って読んでいる。つまり絵と物語が別々に仕立てられており、その物語のほうを第三者に朗読させて、自身はそれを聞きながら物語絵を見てゆく、という物語の享受形式が認められる。このような享受形態は、かなり後代にまで行われたらしく、鎌倉時代の『石清水いわしみず物語』にも、姫君が『うつほ物語』の絵を尼君の朗読によって鑑賞しているし、同じころの『しのびね物語』にも、女房たちが姫君を囲んで物語絵巻を広げ、尼君がその傍らで「絵のものがたり」を読み上げている場面がある。これらの場合、朗読している物語が、物語本文そのものかどうかなど細かい問題はあるが、いずれにせよ、絵と物語が別巻別冊に仕立てられた物語の享受と考えてよいであろう。
 物語享受の第二の形態は、やはり傍らの者に物語を朗読させて、それを耳で聞く享受の仕方で、その点第一の場合と類似しているが、その大きな異なりは、物語絵や絵巻が伴わない点にある。享受者は耳で第三者が物語を音読するのを聞くだけで、耳を通してのみの物語鑑賞である。
うちのうへの源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに…(紫式部日記)
たいには例のおはしまさぬ夜は宵居よひゐしたまひて、人々に物語など読ませて聞きたまふ。(源氏物語・若菜
前者は一条天皇、後者は紫の上が直接の享受者であるが、この場合、どちらも物語絵や絵巻は見ておらず、物語の朗読を聞くだけの享受である。
 物語享受の第三は、やはり享受者が物語を耳から受け入れることに変りはないが、物語る者がテキストを持たない場合である。つまり書物を朗読するのではなくて、物語る者自身が読み知っている物語を、そらで語って聞かせるのである。
世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母ままははなどやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらに、いかでかおぼえ語らむ。(更級日記)
 菅原孝標の娘の少女時代、上総かずさの国司の館で、姉や継母はいろいろな物語を彼女に語り聞かせてくれたけれども、それは物語の本を読んで聞かせたのではなく、姉や継母が読み知っている物語の所々を、思い出しては語って聞かせるものであった。このような記憶に頼る思い出し語りは、おのずから量的にも限度があり、内容も不正確になりがちなので、これを物語の正式な享受法として認めるべきかどうか異論もあろうが、物語のテキストの伝播が、書写によるほかはなかった時代においては、こうした簡便な享受法が、実際には案外多く行われていたのではないかと推量される。やはりこれも享受形態の一つとして看過すべきではないであろう。
 享受形態の第四としては、ほぼ現在の我々が読書するごとく、他人を介さずに自分自身で物語を手にして読むという場合である。これは他に読み聞かせるわけではないから、音読する必要はなく、おのずから黙読の形態をとったであろうが、仮に声を出して朗読したとしても、他人を意識してのことではないので、自読の享受法として黙読と同様に扱ってもよいであろう。さきの物語好きの孝標の娘は、待望の『源氏物語』を叔母から贈られると、独り几帳きちようの中にうち臥して、一心に読みふけっている。
 清少納言もかなり物語好きであったようで、『枕草子』の中にも、物語名を列挙した章段などが、見られるが、「虫は」の段に、
火近う取り寄せて物語など見るに、草子の上などにとびありく、いとをかし。
と記している所などは、灯火のもとで夜更けるまで物語に没頭している彼女の姿が想像されてほほえましい。
 物語享受の第五の形式は、書写という形である。物語が人から借用したものならば、いつまでも手もとにとどめておくわけにはいかないが、物語好きの者なら一度読み通しただけでは物足りないし、自分の所有にもしたくなる。そこで書き写すという作業が行われる。『枕草子』には、若女房や多忙な殿上人の奥方、受領の妻女たちなどが、日常の忙しいなかにも物語や歌集の書写を怠らないのは、まことにおもしろいと記しており、また別の段では、物語や集などを書き写すのに、墨で汚さないで写すことはなかなかむずかしいことだ、などと書写の実態を具体的に語っていて興味深い。
 このような書写は、自読による享受者たちの個人的な場合に限ったことではなく、中宮や姫君をとりまく女房サロンなどにおいても、行われたことであった。『紫式部日記』に、
御前には、御冊子みさうしつくりいとなませたまふとて、明けたてば、まづむかひさぶらひて、いろいろの紙りととのへて、物語のほんどもそへつつ、ところどころにふみ書きくばる。かつはぢ集めしたたむるをやくにて、明かし暮らす。
と見える冊子作りも、彰子中宮のサロンで行われた大規模な物語(おそらく『源氏物語』)の書写作業と認められるし、『大斎院さきの御集』によれば、大斎院の女房たちが物語司という擬似職掌まで設けて物語の書写作業を行っているさまがうかがわれる。
間接的享受と直接的享受
以上を要するに、物語の享受の形式として、いちおう、
(1)第三者に物語を読ませて、それを聞きながら、自身は絵を見ていくという形。
(2)第三者に物語を読ませて、それを聞いているという形。
(3)第三者がそらで物語るのを聞くという形。
(4)自分自身が直接目で読むという形。
(5)自分や人が物語を書き写すという形。
という五つの形式を挙げ得たわけである。この五形式を、物語と享受者との距離の面から見ると、(1)(2)(3)の三形式は、享受者自身が直接物語には触れず、享受に際していずれも第三者の音声の介入を必要としているところに共通性がある。その点いわば間接的な享受形式ともいえよう。これに対して(4)(5)の二形式は、享受者自身が直接物語に触れ、積極的に対処しており、直接的な享受形式といい得るものである。
 これをさらに享受層の面から見ると、間接的享受形式においては、帝・姫君・童・紫の上(権門の奥方)というような人々が対象であり、直接的享受形式は、清少納言・孝標の娘・殿上人や受領の北の方というような、ほぼ中流階級に属する人々が対象である。これを要するに物語の享受形式は、大略、子供や上流貴人による間接的享受と、女房階級や受領階層などの中流階級を主体とした直接享受の二つに分けることができよう。
 このうちのどちらが物語文学の隆盛を支える享受層であろうか。常識的には一見後者のように思えるがそう簡単には割り切れないようである。このことを考えるには、さらに具体的な享受の実態を見極める必要がある。
物語享受の実態
物語を他人に読ませ、自身はそれを聞くという間接的な享受形式においても、対象となる物語が絵を伴っているかどうか、また朗読される物語が物語本文そのものかどうかなどによって、さらにさまざまな形態が考えられよう。また自身が黙読したり書写したりする直接的な享受形式においても、対象となる物語が、全体的なものか部分的なものか、あるいはそれに絵が伴っていたかどうかなどによって、さまざまな場合が考えられる。そのなかで、具体的な実態として、ほとんど考慮外と思われるもの、例えば、長編物語全編についての聞き語りなどを除いて、いちおう整理して表示すると、次のようになるであろう。
 このうちのどの享受形態が物語の真の享受といえるだろうか。物語文学の盛行を支えているのは、いったいどの享受形態であろうか。上の表の下欄に示した物語享受の度合は、物語がほぼ原作の趣どおりに享受されうる形態を一次的、物語がなんらかの改変を受けて享受されている形態を二次的享受としたものである。しかし、これはあくまでも便宜的な判定で、例えばB、Hに共通な部分的享受なども、一部分ではあるが原物語に直接触れているとすれば一次的享受とも考えられるし、一部分だけでは所詮物語全体を享受したことにならないという見解に立てば、表示のごとく二次的享受ということになる。
 さて、この表を通覧してまず気づくことは、
(1)間接的享受形式においては、物語の趣をそのままに享受しうる一次的享受の形態(A、E、G)はあまり行われておらず、二次的享受形態(B、C、D、F、H、I、J、K)が行われていること。
(2)直接的享受形式においては、一次的享受形態(L、M、P、R、U)とともに、二次的享受形態(N、O、Q、S、T、V、W、X)も多く行われていること。
(3)全体の享受形態としては、二次的享受と考えられる形態のほうがずっと多く行われていたらしいこと。
などであろう。これはじつのところ予想外の結果であった。通常、間接的享受は二次的なもの、直接的享受は一次的なものと安易に考えがちであるが、直接的享受形式の中にも二次的享受形態がかなり多く見いだされるということは、物語の読者と物語支持層との問題を、改めて考えさせるものである。物語にとって理想的読者は、もちろん物語全篇を自分で読破したり書写したりする直接的な一次的享受者であろう。しかしこれらの熱意ある読者が、はじめから物語に意欲的であったとは限らない。物語をちょっと聞いたり、物語絵をのぞいて見たりしたことが、やがて物語への希求となるわけで、一次的な享受者も、二次的→一次的というように、じつは二次的享受から出発していることが多いことを見逃してはならない。また物語を読み聞かせる側にも、自分で全篇を読破した者も、一部分を読んだ者も、人からの又聞きした者もいるであろうから、一次的→二次的、二次的→二次的という享受関係が入り乱れて繰り返されていることになる。この享受関係の循環が活発になればなるほど、その渦中のエネルギーは増大することになろう。このエネルギーこそが、物語を生産し享受する原動力であると考えられる。
 物語の盛行を支えるエネルギー源としては、熱意ある一次的享受者ばかりでなく、二次的享受者も大いに参与していたことを、改めて確認しておきたい。
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記を用いた箇所があります。ご了承ください。
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