古典への招待

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連歌と俳諧と連句

第61巻 連歌集/俳諧集より
連歌
連歌は、長句(五七五)と短句(七七)との連続から成る韻文の一形態である。原則として二人以上で行ない、相互に創作と鑑賞とを即興的にくり返し、付き進めてゆく共同制作の文芸、つまり座の文芸であり、これには古く長い伝統がある。『日本書紀』に登場する日本武尊やまとたけるのみこと秉燭人ひともしびととの唱和や、『万葉集』巻八の尼と家持との唱和から端を発すると述べる説もある。前者は五七七と五七七の片歌による問答で、両方合わせて旋頭歌になる。また後者は二人で一首の和歌となる。連歌のことを「筑波の道」と称するのは、この『日本書紀』の「新治筑波にひはりつくばを過ぎて……」の問答によっている。後者のように二人で一首の歌をかけ合いのようにして即興的に唱和したものを単連歌というが、平安時代後期にはそれが盛んになり、さらに三句以上付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)へと進んでゆく。
 こうした鎖連歌が、鎌倉時代十三世紀初め頃には百句続ける百韻の形式に定着してゆき、以後南北朝・室町時代・江戸時代を通して連歌といえば、この百韻の形式が通例のものとなった。
 座の文芸である連歌には一定のルールがあり、それを式目という。また一座にはそれを統括する人物がおり、それを宗匠という。宗匠は連歌に熟達したベテランである。その宗匠を補佐し連歌の進行に気を配り、連歌を記録する者が執筆である。また一座の人々は連衆といっている。
 百韻の場合では、二つ折りにした懐紙を四枚用いる。初折しよおりの懐紙の表に八句、裏に十四句、二折にのおり三折さんのおりの懐紙にはそれぞれ表に十四句、裏に十四句、名残折なごりのおりの懐紙の表に十四句、裏に八句を記し、初折の巻初には、張行ちようぎよう年月日や場所や賦物ふしものを書く。賦物は、もともとは百韻すべての句に詠み込むものだったが、後には発句のみに「賦何人連歌」、「賦山何連歌」などと記し、発句の中から一字をとって「何」に当てはめ、名称とした。
 連歌で一番はじめの句を発句という。発句は五七五の長句で、季語を詠みこみ切字を入れることが必要だが、何よりも百韻一巻を率いる重要なものだから、一句が独立した風格を持ち、余意余情が豊かなことが求められた。また一座の主賓が詠むことが多い。脇句は発句をついで七七の短句で、発句に打ち添えるように付け、体言止めが多い。脇は会を催した亭主が付けることが多い。第三は五七五の長句で発句と脇の世界を転じてゆくのがよいとされ、宗匠が詠み、以下連衆が順に詠んでゆき、一順した後は、出勝ちで付けてゆく。最後の句は挙句あげく(揚句)といい、その挙句のあとに句上くあげといって連衆名と句数を誌すことが多い。これが百韻一巻の構成である。
 ところで連歌のルールである式目には、指合さしあい去嫌さりきらいなどのきまりがある。指合は式目の規定に違反している場合をいう。たとえば百韻に一句しか詠んではいけない鶯を二句詠んだりする場合である。また去嫌は連歌における詞と詞が指合にならぬように、同季や同字、あるいは類似した詞などが近づくのを去り嫌う規定である。
 連歌では月や花を詠みこむが、百韻では四花七月(八月)といい、花は各懐紙に一句ずつ、月は各折に一句ずつ詠まれる。また春・秋の句は三句から五句続けてよく、夏・冬の句は一句ないし二句を限度とする。季のない句は雑の句といい、適宜季の間に詠み、恋の句なども詠んで変化をもたせる。その他、光物ひかりもの夜分やぶん聳物そびきもの降物ふりもの山類さんるい水辺すいへん居所きよしよ衣裳いしよう植物うえもの動物うごきもの人倫じんりん・旅・名所・述懐じゆつかい神祇じんぎ釈教しやつきようなど多くの素材がつぎつぎに詠みこまれ、付合(前句と付句との関係)はたえず変化してゆく。はじめから一貫したテーマなどはなく、即興で予期せぬ付合が連続してゆくのである。
 連歌は鎌倉時代以降、南北朝の時代の救済きゆうせい良基よしもと、さらに室町初期の七賢時代を経て、応仁の乱(一四六七~七七)後に活躍する宗祇そうぎによって大きく高度なものとして完成される。それは座の文芸でありながら和歌の世界にきわめて近い、抒情に富んだ幽玄の境地を示したものであった。たとえば、宗祇とその門下肖柏しようはく宗長そうちようとの三吟による『水無瀬三吟百韻』(長享二年〈一四八八〉成立)などその純正連歌の典型と思われる。
 もっとも連歌は、このような高度なものばかりではなくきわめて庶民的なものでもあった。狂言『箕潜みかずき』『盗人ぬすびと連歌』『連歌毘沙門びしやもん』に登場する連歌好きの庶民たちの作品は、宗祇らのものとはよほど異なったものであったろう。連歌はそうした庶民たちをもまきこんで、国民的支持を得て隆盛したことは事実である。その後安土桃山時代にいたり紹巴じようはらのめざましい活躍をみるが、江戸時代には俳諧におされて形骸化してゆく。
 ところで連歌は現代でも行なわれている。九州の今井須佐すさ神社と大阪平野杭全くまた神社などのものがそれである。とくに唯一の連歌会所が現存する杭全神社では、昭和六十二年春研究者が中心となって連歌が再興され、現在に及んでいる。まず浜千代清宗匠の「平野連歌八則」を示してみよう。一、法楽の連歌を宗とすること。一、歌仙、世吉よよしのほか百韻もありたきこと。一、雅馴なる表現を基本とし、漢語・外来語もこれによって取捨あるべきこと。一、脇体言留、第三て留のこと。一、花は折に一、
但し、名残折は揚
句の前を定座とす
 月は面に一、
但し、名残折裏
はなくともよし
。一、同語五句去り、同季七句去りのこと。一、のの字、体言止め連続に配慮あるべきこと。一、春、秋、恋は三句を基準とすること、
但し、恋は二
句にてもよし
。以上八箇条だが、このうち歌仙は三十六句、世吉は四十四句で、後者は百韻のうち初折と名折の懐紙二枚を用いる形式である。現在杭全神社では世吉がもっとも多く作られている。三番目に示される「雅馴なる表現云々」は、連歌の特色で、風雅な和歌的世界の雅語があくまで重要視され、そこに現在行なわれている連句(後述)との極端な違いがある。具体的に「平成四年六月三十日」に張行された「賦朝何連歌」の十句までを示してみよう(杭全神社編『平野法楽連歌』和泉書院)。
かしこみてくぐる茅の輪の匂ひかな 紅夢
 風すがすがし梅雨のあとさき    正謹
立つ虹は峰を片へに彩なして    淑子
 入日ながむる内海の宿      隆志
大楠をねぐらの雀鎮まりし      佳
 落葉踏みしめ歩くつれづれ     勲
月見んとまだきに出でし路遥か   裕雄
 雁渡り来る空の深さよ       裕子
吹く風を秋と定めし人憶ふ     忠夫
 なほなほ書の尽くることなく    清
引用例からでも、現代の優美な連歌の世界が十分に堪能できよう。
俳諧
俳諧はいかい(「誹諧」とも書く)の語義は、中国の古辞書に「俳ハ也、諧ハ也」とあり、「戯れ和する」意である。平安末期の藤原清輔きよすけは、歌学書『奥義抄』で俳諧の本質を即興性や機知性に求め、反正統・非理を重んじ、それを逆手にとって真実に迫ろうとする文芸だとした。そうした考えは江戸時代にいたっても引き継がれている。
 ところで「俳諧」は、もともと「俳諧之連歌」の略称で、滑稽な連歌を意味している。連歌が純正になるに及んでその反措定として、法式もゆるめた俗なる「俳諧」が起ってくる。俳諧は、延文二年(一三五七)に完成をみた最初の連歌の准勅撰集『菟玖波つくば集』の「雑体連歌」の中に「俳諧」の部立があり、そのころから見られたものであろう。その俳諧が連歌から独立したジャンルになってくるのは十五世紀に入ってからで、俳諧の撰集として現在確認できるもっとも古いものは、明応八年(一四九九)成立の『竹馬狂吟集ちくばきようぎんしゆう』である。『竹馬狂吟集』は四季の発句と付合の部から成るが、縁語や掛詞を用い、卑猥な笑いや、おおらかな滑稽が中心をなしている。これよりほぼ四十年後の成立と思われる宗鑑編の『犬筑波いぬつくば集』(『誹諧連歌抄』ともいう)や、あるいは天文九年(一五四〇)成立の、伊勢の神官守武の俳諧の千句形式をはじめて確立させた『守武千句』なども、同様に室町時代のおおらかな笑いの精神にあふれている。
 俳諧は江戸時代に入ると、貞徳の指導による貞門時代を迎えるが、貞門時代には主として前句の事物(俳言)から、それに対応する事物(俳言)で応じて付ける「物付」の技法が中心となる。ついで宗因を中心とする談林時代には、前句の句意に応じて付句を付けてゆく「心付」の技法が多く用いられた。こうした俳諧の付方を、さらに前句から余情を感得して、余情で応ずるいわゆる「にほひ付」の技法によって高めたのが芭蕉である。貞門や談林の俳諧は、あくまでことばによる遊び、遊戯性を重視した。そうした言語遊戯的な俳諧を、和歌や連歌の高度な抒情性の豊かなものにまで高めたのが、芭蕉をはじめとする蕉門の人々である。もちろん俳諧では連歌とちがって日常卑近な用語や漢語、あるいは諺語など自由に用いている。そうした庶民的な素材を用いつつも、きわめて象徴的な完成度の高い韻文として、芭蕉らは俳諧を高めていったのである。
 ところで、貞門や談林の時代には、連歌時代と同じく百韻の形式が用いられた。それが芭蕉の時代になると三十六句連ねる歌仙の形式が一般化した。
 歌仙では懐紙二枚を用いる。初折の懐紙には表六句、裏に十二句書き、二枚目の名残の懐紙には表に十二句、裏に六句書くのを定法としている。発句・脇・第三はほとんど連歌の場合と変わらないが、賦物ふしものは普通には用いない。俳諧では月や花の句は出す場所が定められ、これを月花の定座じようざという。歌仙では二花三月で、初折の表五句目に月、裏八句目に月、同じく十一句目に花を出し、名残の折では表十一句目に月、裏五句目に花を詠みこむ。季を詠むのは連歌とほとんど同じだが、恋の句は蕉門ではかなり重視されている。俳諧の基本となるのは、連歌と同じ長短の前句と付句との関係で、次なる三句目は前々句(打越)とは全く関係がなく、すぐ前の付句に応じ二句を一つの結合単位として、次々に展開してゆく。はじめはおだやかに中頃は波瀾・曲節をもたせ、後半は軽快にさらりと終わる。いわゆる序・破・急の呼吸が求められる。俳諧のおもしろさは、連歌と同じく即興で予期せぬ出来ごとが連続することで、それを芭蕉は「たとえば歌仙は三十六歩なり。一歩もあとへ帰る心なし。ゆくにしたがひ、心のあらたまるはただ先へ行心なればなり」(『三冊子』)と明解に述べている。
連句
連句という名称は、江戸時代にも発句と区別するために使われていた。しかし江戸時代には、俳諧之連歌つまり俳諧が一般的な用語であった。その俳諧は、明治二十年代になって正岡子規の革新運動により発句が俳句と称され、それにつれて俳諧も連句という用語が一般化した。それゆえ連句は、江戸時代以来の「俳諧」と、それに明治以後現代につづく「連句」とを含みこんだ名称となった。それに対し連歌はあくまで連歌であって、連句ということはまずない。
 連句は江戸時代では百韻・五十韻・世吉・歌仙などの形式があったが、現代のものでは歌仙がスタンダードで、さらに短い形式の胡蝶(二十四句・一花二月)、ソネット(十四句・一花一月)・居待(十八句・一花二月)・二十韻(二十句・一花二月)・蜉蝣かげろうダブルソネット(二十八句・二花二月)などの短い種々の形式のものが試みられている。現代の連句から『浅酌歌仙』(石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信作、集英社)から十句、『おしゃべり連句講座』(矢崎藍、日本放送出版協会)からソネットのうち八句を例示してみよう。
岩かげに魚が澄みゐる紅葉かな  信
 笛をやめればすだく蟲の音    夷齋
一〇對〇以後は球場の月見にて 玩亭
 またも三里に灸すゑるべく   秀太郎
早立ちに關の手形を忘れたり    夷
 みぞれになつて痛む空き腹    信
一つ家に鎌とぐ音のおそろしく   秀
 米粒ほどの蚤に驚く       玩
金庫には後生だいじの血統書    信
 毛なみを撫でる指のしなやか   夷
ここには、文人が集まって一夕の歓をつくすといった清澄な世界が現代的な意識のもとに表現されているが、それは、先に示した杭全神社の伝統的な風雅をめざす連歌とは明らかに異なった世界のものだろう。
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり     芭蕉
 くしゃみひとつを落とす杉谷       藍
ピクニックおべんとひろげる人もいて  知里
 ファーストキッスきょうはあげよう    ときよ
麻の葉の赤い帯しめちとおきやん    敏女
 青いギヤマンすかす月光        里
ノンポリも革マルもいま五十過ぎ     と
 終身雇用揺れて崩れて         女
芭蕉の発句で脇起しをしたものだが、まさに自由自在で、現代の風俗の色こい反映がみられよう。談林の総帥そうすい宗因も「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれをわきまへず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻ユメマボロシ戯言ケゲンなり」(『阿蘭陀丸二番船』)といっている。けだし至言しげんというべきであろう。 (雲英 末雄)
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