馬琴「読本」の登場まで
第83巻 近世説美少年録(1)より
本巻に収められた『近世説美少年録』は、江戸時代の小説、すなわち近世小説の世界では「読本」と称されるジャンルに属する作品である。読本とは、文字どおり、文章を読むことを主とする小説をいう。こういうと、どんな小説でも文章を読むものであるから、読本だけにそのような定義を与えるのはおかしいではないか、という声が聞えてきそうである。しかし、近世小説には、仮名草子・浮世草子・通俗軍談・近世軍記・談義本・勧化本・咄本・滑稽本・洒落本・黄表紙・人情本・合巻・実録などと多様な分野があるが、それらの中で読本が、一葉に詰められた字数が最も多く、むずかしい漢語を多用し、挿絵が本文の内で占める比重が軽い、言い換えれば挿絵が比較的少ない小説なのである。本作の作者曲亭馬琴が読本と並行して執筆していた黄表紙や合巻は、ともに毎葉(全ページ)が絵で占められており、その間に文字が挿入されている、絵が主、文章が従という様式の小説であった。それに比べると、読本は文章が主、挿絵が従という小説なのである。これを要するに、読本は、近世小説の内でもいちばん文章をじっくりと読むことが求められる作品群であるといえる。
通俗軍談や近世軍記も、読本同様に字数が多く、じっくりと読むことが求められるジャンルである。これは、後述するように、読本と性質が相似た、というよりもむしろ、読本を生み出す母胎となったジャンルであるから、読む比重が大きいという性質が一致しているのは、当然なことなのである。
読本は、都賀庭鐘作『英草紙』(寛延二年〈一七四九〉刊)から始まる、とされている。この作品は、本全集第七十八巻に収められているから、それを見ていただきたいのだが、中国の白話小説を翻案したものである。
白話とは、中国の近世、すなわち宋・元・明・清の時代に民衆の間で話されていた口語(俗語)を大幅に導入した文章をいう。中国の小説は、大まかにいえば、唐代までは文語(文言)で記されているものがほとんどであったが、宋代以降は、汴京(今の開封)・臨安(今の杭州)などの都市の盛り場で活動していた講釈師の話し言葉が導入されて、口語を多く用いた文体の小説が流布するようになった。これを白話小説といい、日本においては、江戸時代の前期より長崎に来航する唐船が舶載してきたが、これを読解するためには従来の漢文訓読法によるだけでは不十分で、中国口語の知識を必要とするために、当初はあまり読む人がいなかった。ところが、中国から渡来した黄檗僧が幕府の権力者柳沢吉保に面会したり、長崎で中国の貿易船との交渉に従事していた唐通事(中国語の通訳)の岡嶋冠山が京坂や江戸の漢学者たちと交際したりするようになった宝永・正徳の交(一七一〇年ごろ)から、荻生徂徠や伊藤東涯門下の漢学者たちが唐話(中国語)を学習しはじめ、その教科書として白話小説を読むようになった。このような白話小説の訓訳や研究の流行が、本格的な翻案作品『英草紙』を出現させたのである。
『英草紙』は、明の馮夢竜が、宋代以来、民間に伝えられた話や講釈師が語っていた話に、自作をも幾つか加えて編集した『古今小説』(『喩世明言』とも)と『警世通言』、およびそれらから抱甕老人が精華を抜粋した『今古奇観』の中より話を選んで、これを翻案した作品である。翻案とは、翻訳とは異なって、中国の話を日本風の話に作り変える作業をいう。具体的にいえば、時代・人名・地名を日本のそれに変え、原の話の風俗習慣をもできるだけ日本のそれに直したうえで、原話の筋を改良し、原話の会話や情景描写・心理描写を省略したり増加したりする作業である。『英草紙』は、こうした作業を通して、一に原話の筋や構成の妙、二に性格や心理の描写の精細、三に知識や思想を筋の内に盛りこむ知識性、四に漢語や白話をたくさん用いた硬質の和漢混淆文、などの諸要素を導入し確立した歴史小説となった。いわば、近世小説中でも最も近代小説に近づいた小説性を備えるに至ったのである。
このような翻案作品の先蹤、早く近世前期から存在していた。ただし、それは、白話小説を翻案したのではなくて、明代の文言小説『剪灯新話』や『剪灯余話』の話を浅井了意が翻案したもので、書名を『伽婢子』(寛文六年〈一六六六〉刊)という。この作品は、前述のような作業を経て、異国の浪漫的な話を巧妙に日本風の物語に移し変えている。上田秋成の『雨月物語』(安永五年〈一七七六〉刊)など、この作品に影響を受けた後続作品が多いのは、そのこなれた日本化の技法によることが大きい。
また、宝永期よりも前の元禄期に、ごく少数ではあるが、中国の長編講史小説(歴史小説)に通じて、その翻訳を刊行した人があった。汴京や臨安など盛り場の講釈師たちは、市井の庶民の生活に取材した短い話とは別に、虚構をまじえながら王朝の盛衰を講じ、それらが成長し文字化されて『三国志演義』や『五代史平話』といった長編歴史小説が、元から明にかけて刊行されている。このような講史小説は、作品名に「演義」という語が付けられることが多いので、別に演義小説ともいう。「演義」とは、王朝や国家の興亡を虚構をまじえて語りながら、その間にいずれの王朝や人物が正統・正義であるか、いずれの王朝や人物が非正統・叛逆であるかとの判定を盛り込む、というほどの意味である。こうした講史小説の中でも、劉邦と項羽の覇権争いを記した『西漢演義』や、劉備・関羽・張飛主従と曹操や孫権の活躍を述べた『三国志演義』は、話が面白いうえに、白話を用いることが比較的少ないので、唐話学が興る以前の元禄期に翻訳されている。『西漢演義』の翻訳は『通俗漢楚軍談ぐんだん』(元禄八年〈一六九五〉刊)と題し、『三国志演義』は『通俗三国志』(元禄二~五年刊)と題して刊行された。この二作の翻訳者は、夢梅軒章峰・称好軒徽庵という兄弟で、京都天竜寺の僧侶と考えられる。両作は、原話の長大で建築的なストーリーの妙をよく伝え、文体も硬質な和漢混淆文で、のちの読本にはなはだ近いものであり、馬琴はもちろんのこと、数多くの読本作者も頻繁にその中の話を種としている。
馬琴が登場する前には、既にこのように、文言小説を巧妙に和風化した短編小説集である『伽婢子』、白話小説を見事に読本化した中編小説集『英草紙』、長大な講史小説を翻訳した長編小説たる『通俗漢楚軍談』『通俗三国志』等々が出現していたのであるが、これらから抽出される翻案(和風化)・読本・白話小説・長編講史小説というキーワードを統合すると、『水滸伝』を翻案した読本という作物が生れてくる。
『水滸伝』は、宋の徽宗の世に盗賊宋江が横行したという史実を核として、幾多の虚構を吸収して、長大な小説に結実したものであるから、講史小説の一種には違いない。その文章は、宋・元以来の口語をたくさんに用いた、代表的な白話体である。人情や社会の描写も精細であるし、宋朝が不正な官吏や異民族によって蹂躙されるのを憂えるという思想も貫かれている。だから、これを翻案することは、我が国に先例のない本格的な長編歴史小説をもたらすということであって、近世の文人や作家にとっては、いつか挑戦してみたい一大事業なのであった。この長大な小説の全訳は、既に『通俗忠義水滸伝』と題して、宝暦七年(一七五七)から寛政二年(一七九〇)にかけて刊行されており、翻案の試みが出現してくるのも必然の趨勢であった。明和五年(一七六八)には根本武夷の手に成るといわれる『湘中八雄伝』が刊行されたが、未完に終り、建部綾足の『本朝水滸伝』(安永二年〈一七七二〉刊)も、世界を日本の上代に移して、雄大な構想を示して書き進めたが、刊行は前編のみに終り、写本で伝わる後編も未完であった。のちに馬琴は、「本朝水滸伝を読む幷に批評」を著して、その大衆から遊離した雅文体は批判しているが、『水滸伝』の雄大な構想を導入しようとした点は高く評価した。その後にも、伊丹椿園の『女水滸伝』(天明三年〈一七八三〉刊)、仇鼎散人佐々木天元の『日本水滸伝』(安永六年成立、享和元年〈一八〇一〉刊)などの試みが出たが、『本朝水滸伝』と並んで、馬琴の創作意欲を最も刺激した作品は、彼の兄貴分であった山東京伝の『忠臣水滸伝』(前編、寛政十一年〈一七九九〉刊。後編、享和元年刊)であった。
江戸において、『水滸伝』の翻案であることを書名に正面きって標榜した長編は、この作品が初めてであったから、世評を呼んだ。しかし、その作意は、演劇に名高い『仮名手本忠臣蔵』と『忠義水滸伝』との間に類似した場面や趣向をことさらに見出し、その発見にもとづいて本来何の影響関係もない両者を取り合せてみせ、その意外な着想に読者を感嘆させるという、はなはだ黄表紙風なものだった。『水滸伝』に学んで、全編の緊密な筋立てを無理なく発展させるとか、官僚の腐敗と異民族の蹂躙とを憂うるという思想を導入するとかの、本格的な長編小説を確立するための方法については配慮が及ばないものであった。
馬琴は京伝に先んじて、寛政七年(一七九五)に刊行された『高尾船字文』の中で、似たような試みを行っている。この作品は、歌舞伎・浄瑠璃でよく知られた『伽羅先代萩』に世界を取り、『水滸伝』の構成や趣向を借りて筋立てしたのであるが、比較的短いものであったため、大した評判は呼ばなかった。
右のような『水滸伝』受容の流れに棹さし、幾多の読本で訓練したうえで、『水滸伝』に匹敵する雄大な長編歴史小説を我が日本にもたらそうと意図して、馬琴が二十八年の歳月を費して完成させた作品が『南総里見八犬伝』(文化十一年〈一八一四〉~天保十三年〈一八四三〉刊)である。
もちろん、読本というものは、中国小説のみを栄養にして成り立っているものではない。馬琴の本格的な読本の処女作たる『月氷奇縁』(文化二年刊)第六回の愁嘆場が、近松門左衛門の浄瑠璃『津国女夫池おといけ』(享保六年〈一七二一〉初演)第三段「旅の腹帯」を下敷にしていることに見られるように、彼は演劇の筋および口説の描写を取り入れることが多い。また、江戸時代には、実際に起った事件を小説化した、実録と称する写本が大量に存在していたが、『開巻驚奇侠客伝』第三集(天保五年〈一八三四〉刊)、第四集(天保六年刊)の姑摩姫の話が『明智光秀養女盛姫之伝』を粉本としていることが示すように、実録から筋を借用することもままある。また源為朝の伝を小説化した『椿説弓張月』(文化四~八年刊)は、その一代記的構想を、僧侶が大衆を教化する際の話を小説化した勧化本(仏教長編説話)の一代記物にも学んだ、といわれている。周知のように、馬琴の全作品を通じて『太平記』から世界や文辞を取り入れた痕跡が目立つが、『俊寛僧都嶋物語』(文化五年刊)や『頼豪阿闍梨恠鼠伝』(同年刊)などは、『平家物語』や『源平盛衰記』に取材する。さらに、その趣向の摂取は、仮名草子や浮世草子、溯っては平安朝物語にまで及んでおり、要するに筋や話が面白いものは、時代やジャンルの相違を問わずに取り入れていることが判明しよう。読本とは、そのように和漢の多種多様の作品と文献から筋立て・趣向・知識・思想・文章を借り来きたって、一つの坩堝つぼの中で融合させた小説、ともいえる。とりわけ馬琴のような博識の作家の場合には、そうした傾向が顕著である。
しかし、彼の長編小説においては、何といっても、その建築的で雄大な構想と緊密な筋立てを長編白話小説から借りることが多く、『朝夷巡島記』(文化十二年~文政十年〈一八二七〉刊)では『快心編』、『開巻驚奇侠客伝』では『平妖伝』や『女仙外史』を参照している。この『近世説美少年録』で、『応仁後記』『続応仁後記』および『陰徳太平記』という近世軍記に世界を取りながらも、根本的な筋立ては『檮杌閑評』という長編白話小説のそれを利用しているのも、そのような読本の作風の典型的な例なのである。