物語本文の不整合について
第23巻 源氏物語(4)より
戦後半世紀を経て、『源氏物語』の研究にかかわる者にとってあざやかに思い出されることのひとつは、一九四〇年代の半ばから六〇年代末ごろまで、『源氏物語』の成立論がはなやかに闘わされたことであった。早く戦前の阿部秋生氏の執筆順序論に端を発して、それに続く戦後の武田宗俊・風巻景次郎・池田亀鑑各氏によるいわゆる玉鬘系後記説に代表される諸説をめぐって、学界を老いも若きも賛否両論に二分して、はなやかな論争が十数年にわたって繰り広げられた末に、確かな結論も得ないまま、しだいに沈静化したが、その余波は現在もまだ残っている。確かにこの問題は長い年月にわたって生き残るだけの問題性をもっており、学界にしばしば見受けられる一過性の流行現象ではなかったというべきであろう。
しかし、この問題のそもそもの契機が、物語本文の記述に見受けられる前後の矛盾・不整合をどう解釈するかという点にあったことは動かない。
そして、今にして思えば、この矛盾・不整合などが、『源氏物語』と同類の、いわゆる当時の物語類にも共通する現象かどうか、という点が必ずしも十分には検証されなかったという事実があったように思われる。たとえば、周知のことだが、かぐや姫は不思議なことに竹の中で見つかったときには「三寸ばかり」で、三か月経つと「よきほどなる人」になる。これは古代信仰につながる異類誕生譚だと説明されれば、今日の読者も納得せざるを得ないけれど、記述から受ける印象としては奇妙な話にはちがいない。神怪とか不可思議の要素はいたって乏しい『落窪物語』でも、阿漕という侍女は、結末では二百歳まで生きたとある。『宇津保物語』でも、俊蔭巻や楼の上巻の音楽の奇跡は中国譲りの霊琴譚として鵜呑にできようし、嵯峨の院巻と菊の宴巻との両巻に同文の記述が重複する事実については、なんらかの成立上の問題を推定するほかないけれども、吹上浜の神南備種松の壮大で豪奢な邸宅の様子などは、彼が紀伊国の掾という設定からは想像もつかない荒唐無稽な記事というほかない。これは「歌物語」といわれる『伊勢物語』でも、業平の東下りの途中の七段から九段まで、尾張国から信濃国に回って、再び三河国に戻るという道筋をたどる。九段の富士山に合せて八段に浅間山を出そうとしたのだという解釈もあるけれど、つじつまの合わない話にはちがいない。
これらの奇妙な記述については、おおむね当時の信仰とか、中国文学に学んだ誇張だとかで説明され、それがむずかしければ、『宇津保物語』の重複記事のように、成立事情を想定するということでいわば合理的に解決するというのが、研究者の採る一般的方法である。
しかし、「合理的」な解釈がどこまで有効なのか、その点について考慮することも、相手が「物語」であるかぎり、かなり重要と思われる。
たとえば、鎌倉中期成立の『苔の衣』は当時としては長編といえる作品で、編年体形式を忠実に守っている。年が暮れて次の年に移るごとに、その旨をことわり、一年の春夏秋冬の推移も、「八月」とか「三月」とか、月を数え、元服・裳着、出産・死去などにも、時にはまことしやかに具体的な月日までも記述する。その形式はあるいは『栄花物語』などに学んでいるのかもしれない。モチーフや文章表現にも、前述のとおり、超自然とか神怪、誇張とみられるものは四度にわたる夢告や再度の物の怪の出現を除けば、比較的乏しい。にもかかわらず、作品全体としてみれば、構想上破綻だらけである。右のような編年体の記述に従って作った年立によって推定される年齢と、本文中の具体的な個々の年数的記述とを照合すると、両者の食い違う箇所は十三箇所に及ぶ。たとえば年立からすれば、二十四、五歳のはずの人が、本文では三十六歳となっており、極端な場合には一世代に及ぶ年数差を無視する結果になっている。つまり、編年体の形式も、それに従って年立を作成するのに役立たず、構想上少なくとも年数的には意味がない。その個々の記述にしても、双子の兄弟のことを出産時には「兄君」「弟君」と呼び、男兄弟と思われるのが、次の巻以後は一貫して姉妹となる。登場人物の官職・呼称の不統一や混乱のために人物を特定するのも容易でない場合があり、成立上の問題とか、本文の伝承過程とか損壊とかで解決できる範囲を遥かに越えている。
おそらく、作者は、各巻ごとの主題らしいものは明らかに意識しながらも、作品全体としての前後の統一性を確保することはさして念頭になく、本文記述にあたっては主として個々の場面の表現効果のみが考量されたのだろう。たとえば、死ぬときに二十四、五歳のはずの女性が、本文では三十六歳となっているのは、『源氏物語』の紫の上が危篤に陥った条を思い出させる。紫の上は年立から計算すれば、若菜下巻では三十九歳のはずだが、作者は女の重厄に合せて三十七歳としたとは玉上琢彌氏の卓説である。『苔の衣』もそれに倣ったのであろう。中世の物語が、特に『源氏物語』『狭衣物語』などの影響を強く受け、その模倣に終始しがちであることは常識であり、それらの「物語取り」の跡は、あらゆる場面にわたっていて、数え立てればきりがない。場面の圧倒的な優越性が、全体の構想の統一性を破壊し、あらわな矛盾や不合理を無視させたのである。
そして、このような一般的な物語の性格から、『源氏物語』が無縁であったという証拠はまったくない。鎌倉と平安とは時代がちがうという事実はもちろん無視できないけれど、もともと、たわいのない女子供の玩弄物として生れた物語の本質は時代差を越えて一貫していたように思われる。『竹取物語』や『宇津保物語』のような神変不可思議な要素も、『源氏物語』には、住吉明神の神助・夢告、長谷観音の霊験譚などないこともないが、それは別にしても、右に引いた紫の上の年齢の問題もその証拠の一つである。本巻以前でも、明石の君の年齢(明石[2]二四五ページ 頭注)の問題があり、本巻でも、右の若菜下巻の紫の上の年齢記述(二〇五ページ)、次の第五冊では、竹河巻の夕霧の「左大臣」叙任の記事などがある。夕霧左大臣のことは、竹河巻のみに見えて、その後の宇治十帖には一切見えず、すべて夕霧右大臣とあるので、その理由が論議を呼んでいるけれど、私は作者が、宇治十帖における夕霧像の造形と絡んで、時の左大臣道長の目をはばかって、いったん左大臣に昇進させた夕霧の職を、その後黙って撤回したものと推定している(「竹河巻は紫式部の作であろう」、『紫林照径』所収)。そのような部分的な変更あるいは進路の修正は、本来物語作者にとって比較的気軽にできることで、当時の読者など他人からさほど非難されることではなかったのではあるまいか。
人物論のうえで、巻々による主題の変化に応じて人物の性格付けに微妙な変化がみられるという事実が、森一郎氏などによってつとに指摘され、末摘花巻と蓬生巻との常陸宮の姫君の変貌がその好例として引かれる(蓬生[2]三四二ページ 頭注)。それに通底する現象は、ほかにも少なくないであろう。むしろ、数多い王朝物語のなかでは、『源氏物語』は、その厖大な量に比して全体としての統一がよく保たれており、年数的な矛盾なども少ないのであるが、かといって、以上のような、いわばルーズな「物語」の普遍的本質から遊離するものでもあるまい。現代の作家とはちがって、形のうえの整合性を軽く見て、個々の場面構成に趣向をこらし、その場の表現効果を高めることに最大の力を注いだと思われる、当時のおおらかな物語作者の心情を理解することが、今日の読者にも求められているだろう。
本巻では、34若菜上、35若菜下、36柏木、37横笛、38鈴虫、39夕霧、40御法、41幻の八帖(さらにもし巻名のみあって記事のない雲隠巻を数えれば、九帖)を含む。各巻の梗概は、それぞれ巻ごとに記されているので、詳しいことはそれに委ねて、以下には物語の大体の流れについて述べるにとどめる。
発端の桐壺巻から前巻藤裏葉巻までは、光源氏の誕生からその三十九歳の冬までのことが語られていた。それに対して、本巻では光源氏四十歳から、その死去の近いことを暗示して舞台を去ってゆく五十二歳の歳暮までのことが語られる。古来藤裏葉巻以前と連続して主人公の生涯を語ったものとして、特別に区切りを付けてよぶことはなかった。しかし、昭和初期に池田亀鑑氏が、源氏の生涯のなかでも藤裏葉巻以前と若菜上巻以後との間には、その基調や内容・思想あるいは文体などに著しい相違が認められることを理由に、藤裏葉巻以前を「第一部」とよび、若菜上巻以後雲隠巻までを「第二部」とよんだ。その主張には今も異論がないわけではないが、それに従う人々が多く、ほぼ通説化しているといえる。
事実、若菜上巻に入ると、初老に達した光源氏は、幼く、万事に未熟で思慮の足らない女三の宮と結婚することによって、その身辺には薄暗い影がたちこめはじめる。源氏は、最愛の妻、紫の上の信頼を失うことによって、理想の夫婦とみえた二人の間には大きく亀裂が入り、紫の上には傷心の日々が続く。〈若菜上〉
そのあげく彼女は病に倒れ、危篤状態に陥る。源氏の心痛は甚だしい。その間に、ふとしたことから女三の宮の姿を一目かいま見て以来彼女を恋慕していた青年柏木は、ついに宮の寝所に入り込み、彼女を犯してしまう。しかし、その後柏木は犯した罪の恐ろしさに外出もしなくなる。まもなく源氏はこの秘密を察知し、一日、宴席に柏木を招くと、痛烈な皮肉を浴びせかける。逃げるように自邸に帰った柏木は、そのまま病床に臥す身となる。〈若菜下〉
柏木の病がつのるなかで、女三の宮は罪の子の男児を産んだあと、源氏の冷たい目に堪えきれず出家する。男児は薫と名付けられたが、その誕生五十日の祝宴に、薫をわが子として腕に抱く源氏の目には、無心にほほえむ幼子と死を急いだ青年柏木への哀憐の涙が溢れた。〈柏木〉
源氏の子息夕霧は、親友柏木の遺言のままに、柏木の未亡人の女二の宮(「落葉の宮」とも)を弔問し、その母の一条御息所から柏木遺愛の横笛を形見として贈られるが、その夜、夢枕に柏木が立ち、笛の贈与先をまちがったと告げる。夕霧は柏木が死の床で、「源氏のお気をわるくしたことについて、よろしくとりなしてほしい」と言い遺していったことや、この夢の謎を源氏に質そうとするが、源氏は言葉少なに答えず、「自分が預る」と言って笛を取り上げる。〈横笛〉
出家した女三の宮はなお六条院に住んで、翌年夏には持仏開眼の供養を営み、秋には庭先に鈴虫を放って、はかない尼の日々を送る。冷泉院は隠遁の身の閑雅を楽しみ、秋好中宮は今も妄執に苦しむ母六条御息所の菩提を弔う日々であった。〈鈴虫〉
夕霧は、弔問が重なるにつれて、しだいに女二の宮への恋心が高じていった。中秋のころ、一条御息所の病気見舞を口実に、小野の山荘を訪れた夕霧は、その夜、落葉の宮に接近しながらも、情交には至らず夜明しをする。翌朝早く山荘を出た夕霧の姿を祈祷僧が見つけて、母御息所に伝え、ふしだらだとなじる。二人が契りを交したと信じこんだ御息所は、苦慮の末、重病に震える手で夕霧に結婚を許す旨の文を書き送る。自邸に帰っていた夕霧がその文を受け取って読もうとすると、雲居雁がいきなり横から奪い取って返さない。返事も出せぬまま一日が経ち、ようやく文を見つけて、御息所の誤解を知った夕霧はあわてて山荘に使者を出すが、御息所は心痛のあまり急死した。夕霧は葬儀などに尽力するが、母の死は夕霧ゆえと恨む落葉の宮は彼を許さない。てこずった夕霧は、女房たちを味方につけて、強引に宮をもとの一条邸に迎え取り、妻とした。雲居雁は腹を立てて実家に帰ってしまう。夕霧の子供は雲居雁腹と藤典侍腹に合計十二人、みな出来のいい子ばかりであった。〈夕霧〉
大病以来紫の上は健康がすぐれない。かねての出家の望みも源氏に許されぬまま、後世のために、晩春、法華経千部の供養を二条院で行い、それとなく人々に別れを告げた。夏になると、彼女の衰弱は加わり、見舞に訪れた明石中宮に、死後を頼み、幼い匂宮にも大好きな紅梅をあげると約束した。八月十四日の明け方、ついに紫の上は秋草に置く露のように、はかなくこの世を去った。〈御法〉
年は改まったが、源氏の悲傷は、いよいよ深く、彼は簾の中に閉じこもったまま、ごく内輪の者以外には誰とも会わず、亡き紫の上の思い出にふけるが、なかでも、彼女を苦しめた自分の所業がいまさらに悔まれた。今はほかの女性に逢うこともなく、四季折々の風物も行事も、すべてが亡き妻をしのぶ涙の種であった。年末、源氏は涙ながらに紫の上の残した文殻を焼き、御仏名の日に紫の上の死後はじめて人前に顔を見せ、大晦日には愛孫匂宮の鬼やらいにはしゃぐ姿を目にしながら、「年もわが世も今日や尽きぬる」と告別の和歌を詠じた。〈幻〉
これに次ぐ雲隠巻は、巻名のみあって内容が一字もない奇妙な巻として知られるが、もともと紫式部自身とは無関係であって、平安末期に後人の手によって作為された物と思われるのである。(今井源衛)