古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

枕草子を読むたのしさ

第18巻 枕草子より
 平安時代は、日本の文学史の上で女流文学の時代といわれる。その中で最も鮮烈なきらめきを放つ二作品が、『枕草子』と『源氏物語』である。作者は清少納言と紫式部という二つの際立った存在であり、この二人は、十世紀の終りから十一世紀の初めというほぼ同時代を、一条天皇の二人の妃、定子と彰子、にそれぞれ仕える女房として生きた。作品としての『枕草子』と『源氏物語』の印象はかなり異なるのだが、この二人の持ち味に少し立ち入ってみても、人間の二原型とも考えられるほどの違いがあろう。大まかに言えば『枕草子』の、現象や時間をいきいきと自在に切り裂いて行く鋭い感性をとるか。『源氏物語』という、虚構世界の中で深く厳しい人間への洞察を示した、高い精神の達成度を評価するか。ここには、客観的な把握とは別に、好きか、否か、という読み手の感性が関わってきそうである。
『枕草子』は、初めての出会いの時に、心の中にまっすぐに入り込んでくる古典の一つであろう。それが多感な年ごろであるとすれば、現代の感覚に近い新鮮で明るいきびきびした精神の躍動や、日本の言葉のおもしろさや美しさを如実に伝えるにちがいない。と同時に、作品自体が挑発的な揺れを内在させていて、なにやら得体の知れぬ反発を呼び起こす、ということがあるかもしれない。『枕草子』に関しては、あらゆる事が、不思議に不確定なのである。
 いわゆる文学作品とよばれるものは、決して安全無害なものではなかろう。心を動かす力を持つということは、危ういほどの領域に人を強く誘うということに他ならない。『枕草子』もその意味の危なさを当然持っているが、それにしてはいかにも晴朗の気に満ち、屈託がなくて明るい。よいと思うものをよいと言って感激し、おもしろいと思ったものをおもしろいと言って笑う。この作品は読み手に対し、ほとんど何も説明しない。そこで、いささか不安になって、更に一歩進もうとするのだが、実は進もうにもその手だてがほとんどないことに改めて気づき、また困惑するのである。おそらくこの作品は、その「進もう」という気持を喚起する、まさにその一瞬に動的な、文字通り「心を動かす」魅力があるのであって、散文ではあるものの、説明抜きで直接に歌い上げる、自在な詩的世界や、思いがけない深淵を抱え込んでいるのだろう。『枕草子』の全体像を思い描こうとする時初めて、この作品は、言うべきこと、言うべきではないことを識別した、選択と決断、という案外大きな秤の上に成り立っていて、そこに意外なほどの厳しさと心意気ととまどいとを抱え込んでいることにも気がつく。身近な現実に立ちながら、現実そのままではなく、ある世界を結果的に構築している作品なのである。その基準は、一口に言えば、本物の美しさ、とでも言えようか。
 
『枕草子』は、注釈や現代語訳を気にせずに、本文を手にして、どこからでも、気軽に、自分の目で読むのが一番たのしい。ところで、現在出版されている『枕草子』(活字になったものを以下、「書物」という)を読む場合の、ある種の「不便さ」をいくつか。
 まずいろいろな本文があるということについて。清少納言が書いたままのものは残念ながら現存していない。最も古いものでも鎌倉中期の書写である。そもそも何度かに分けて書かれたものであるらしいし、書き直しや増減もあったと考えられる。さらに、長い間にわたって手から手へと書き写されてきたために、さまざまな伝本が現在存在している。伝本によって、章段の有無や長短があったり、配列が前後していたり、文章自体が異なっていたり、いろいろの相違があるが、先人たちの研究の成果として、三巻本系統・能因本系統・前田家本・堺本系統、の四つの系統に大別分類されている。現在のところ、このうち三巻本系統が、ついで能因本系統の本がやや原型に近いかと考えられており、このどちらかの本文を用いる書物が大部分である。しかもどの系統とも、決して完全でも純粋でもない。こうした『枕草子』の本文に関して、ここに二つの方向がある。一つは特定の底本を選び、それをなるべくそのまま尊重しようとする方法であり、いま一つは、現在考えられる限りの厳密な校訂を施すことによって、原型を再現しようとするものである。本書は基本的には前者の立場をとるが、それにしてもいくつかの伝本をつきあわせて、補ったり、推測を巡らしたりする、といった最小限の校訂作業を伴わざるを得ない。一つの伝本では自立できず、お互いに支え合う、というのが現状だからである。もっと細かいことを言えば、例えばある文字が「は(ハ)」なのか「い」なのか、変体仮名の上ではきわめて似ているために、書写した人自身が意味の上からも判断しかねて、どちらにでも読める形に書くことがままある、ということや、本文の傍らに記された注記や訂正・補入を、どのように扱うか、といった問題もあるので、それを一つ一つ解決していく必要がある。従って、原文というものは、活字の上からは存在しないといってよい。しかも、同じ本文系統のうちでも、それぞれの伝本の性格があるから、ある書物がこのうちのどの本をとるかによって、耳慣れた、あるいは目慣れた、懐かしい文章とは異なった響きを伝えることも度々ある。『枕草子』に限らず、一般論としても、当時の筆による書記形態は現在の活字の書物では絶対に再現できない情報を内蔵している。「仮名」の表記自体が漢字としては確定できぬ微妙な要素を含み持つものであるし、句読点も濁点もない文章であるから、現代の表記に直すこと自体が、著者(編者)の『枕草子』の読み方そのものを示すことになる。このような意味で、それぞれの書物の本文にはすでに解釈が施されている。
『枕草子』には、なぜこうした多様な伝本があるのか。その一つとして、人それぞれの読み取り方が『枕草子』のそれぞれの伝本を作ったのではないか、ということが考えられる。読み手はだれも、この作品は鋭敏にして繊細な言語感覚によって成り立っていることを知っている。書写する人、伝える人、あるいは作者自身も含まれるかもしれないが、それぞれの人が、意識的無意識的に『枕草子』にあるイメージを抱き、そのイメージに従って書き写し、伝えたのではないだろうか。そこには単なる機械的なコピーとは異なる、原型に対するいきいきとした夢や、読み手の参加を誘発する創造的な編集作業の楽しさといった、享受の歴史がありそうである。この姿勢は現在の書物についても受け継がれていよう。このように、さまざまな本文があることが『枕草子』独特の現象の一つである。もし必要なら、その書物はどのような伝本を基とした本文であるかを確認されたい。本書は三巻本を底本としている。
 章段の「第n段」という言い方では、内容を特定できないことに関して。一段、二段という章段の切り方も書物によってまちまちである。ここにもいかに読むか、という読み手の意見が示されているわけで、おなじ「何段」といっても別の書物では別の章段をさすことがほとんどである。従って、「何」という文章で始まる章段であるかを目安にした方が間違いは少ない(例えば「七六段」ではなく「心地よげなるもの、の段」といった言い方をする)。
 注釈のむつかしさについて。この作品の語句の意味を把握することに関しては、先達の精魂を傾けた長い挑戦の歴史がある。しかし作品が解釈や説明を拒否している以上、解決にはほど遠く、どの注釈にも、絶望という苦みが隠し味としていささか含まれている。しかし当時の一般と同化するのではなく、作者の鋭い言葉の選び方や文体には独特のものがあって、その表現にはかなりのメッセージが内蔵されていることがしだいに明らかになりつつある現在、こうした面からの解明も今後進展して行くことであろう。また、当時の文化そのものを反映した部分に関しては、他の領域との多元的な研究が見込まれる。いかなる注釈も絶対的なものではないが、注釈者の読み取り方や姿勢という感性的なものを含めて、注釈の流れと現在の到達点を示す指標となる。
 終りに、現代語訳について。いくつか独特の訳があり、作品の精神や言葉の弾みをよく伝えている。しかし、『枕草子』はたかが約千年前の日本語であるから、基本的には本文をおそれることはない。断絶より、連続が実感できるはずである。時代が進むにつれて、現代の活きた言葉の訳はどんどん変化して行くだろうが、本文は、前述のような問題はともかくとして、それほど変らないだろう。『枕草子』のような作品の現代語訳はむつかしく、限界がある。本書では独立した現代語訳というより、本文を読むための一助となるように直訳に近い方法をとった。従っていささか煩瑣な面があるかもしれない。現在、諸外国語の翻訳も多い。最も一般的なアイヴァン・モリスの英訳を「春はあけぼの」の初めの部分からあげておく。意味を確定する決断を必要とすることがよく読みとれよう。
(翻訳の底本は能因本系統であるため、本書とは小異がある)
 In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills, their outlines are dyed a faint red and wisps of purplish cloud trail over them.
 In summer the nights. Not only when the moon shines, but on dark nights too, as the fire flies flit to and fro, and even when it rains, how beautiful it is!
(The Pillow Book of Sei Shonagon, Penguin Classics 1971)
 アイヴァン・モリスからもう一つ、これは本書のどの章段の翻訳だろうか。
 Things that are distant thoughnear. Festivals celebrated near the Palace. Relations between brothers, sisters, and other members of a family who do not love each other. The zigzag path leading up to the temple at Kurama. The last day of the Twelfth Month and the first of the First.
 『枕草子』の成立時、「物語」「歌」「日記」などの形態にはある程度の約束事があった。しかし「随筆」というジャンルのもとに『枕草子』が執筆されたのではなく、内外の文学の影響を受けつつも、そうした形から自由な作品としてこの作品は存在した。もともと女性の用いた「仮名」は男性の「漢字」の領域からの逸脱であり、その言語が、人間の持つ微妙な世界を捉えることを可能にしたのであった。その「仮名」を「漢字」とともに文字として書き記した際の、英知に満ちた自在な機能も、現在あらためて再評価されつつある。
 清少納言は『枕草子』によって定子という高貴な妃をとりまく世界をひらいた。何故、どのようにして、閉じられたものをひらくことが可能であったのか、あるいは必然性があったのか、ということについては、まだよくわかってはいない。ここには、「語り」という概念と、それがほとばしって流れ出す瞬間にかかわる、抜き差しならぬきっかけがありそうである。跋文の問題や史実とのかかわりは別として、私個人としては、清少納言が、晩年には零落した老女となり果てた、とするさまざまな伝承と無関係ではなさそうだと考えている。老女は伝統的におどけてものを語る存在として仮託されることが多いものであるから。
『枕草子』において言葉の力を駆使して活躍した一人が清少納言であり、同時にそれを外部に語り告げる人が清少納言であるのだから、そこで一人二役を担う清少納言は、自分をどのように語り、表現したらよいのか。そのあたりの屈折のおもしろさも見所の一つであろう。清少納言が、定子に仕えていたその間に、政治情勢は大きく変転した。このことと、『枕草子』の持つ誇り高い美しさの原則とはどう関わるのか。関わらないのか。作品という言葉を用いてきたが、『枕草子』ははたして「文学」であるのか、「文体」という概念は適用できるのかという意見もある。作品とその作者、作品と表現、あるいは、読者と作品、の関係はいかなるものか、という点も現代の課題である。研究の長い真摯な積み重ねを経ながら、謎はまだ多い。そのあたりに自在に思いを広げる楽しさを、本文から直接に感じ取っていただきたい。(永井和子)
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