古典への招待

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軍記物語について

第45巻 平家物語(1)より
 平安時代の末期に内乱が続けて二度起った。保元ほうげん元年(一一五六)の保元の乱と三年後の平治へいじの乱である。これが公家の後退と武家の興起とをもたらした重要な契機をなしたこと、いいかえると中世の出発点であることは、慈円じえんの史論書『愚管抄ぐかんしよう』に早く指摘しているとおりである。この二乱を経て、中央政界の第一線に躍り出たのは、まず桓武平氏かんむへいしであった。
 平氏は長く地方官の生活を続けていた。忠盛ただもりに至って、四十余歳にして初めて昇殿、公家から排斥されながらも刑部卿ぎようぶきようにまで成り上がったが、彼が死んで四年目に勃発した保元の乱その他によって、嫡子清盛きよもりは昇進を重ね、仁安二年(一一六七)にはついに太政大臣になる。さらに治承四年(一一八〇)には、娘の建礼門院けんれいもんいんから生れた安徳天皇が即位し、天皇の外戚がいせきという光栄をにない、栄華を極めるが、その直後に諸国の源氏が蜂起し、源平の合戦を経て、文治元年(一一八五)に平氏は滅びてしまう。鎌倉に幕府が設けられ、鎌倉時代にはいるが、前出の三回にわたってひき起された内乱は、おそらく人々の口のに上り、さまざまに語り伝えられたことであろう。
 そのような内乱の物語が、いつ、どのようにしてまとめられていったのか、その経緯については、ほとんどるべき文献資料がないため、はっきりしないけれども、十三世紀にはいって、比較的早い時期に、それぞれが物語・合戦状として成立していたであろうと想像される。『保元物語ほうげんものがたり』『平治物語へいじものがたり』『平家物語』がそれであり、これらに、幕府成立後三十年を経ない承久三年(一二二一)に起った承久の乱を描いた『承久記じようきゆうき』(承久軍物語)を加えて、四部合戦状しぶかつせんじようとよんだこともあった。以上四編に、南北朝の戦乱を記した『太平記たいへいき』をあわせたのが、軍記物語あるいは戦記物語の主要作品なのである。
 軍記物語という名称は、江戸時代にはなかったようで、明治になってから用いはじめられたものらしい。日本文学史の嚆矢こうしとされている明治二十三年刊、三上参次・高津鍬三郎著『日本文学史』(金港堂)には、まだこの名は見えず、『平家物語』『源平盛衰記』などを歴史体の文として『水鏡みずかがみ』『古今著聞集ここんちよもんじゆう』などと並べてあげ、あるいは「戦記軍記といはるヽもの」と記している。同書より六か月前に出た芳賀矢一・立花銑三郎著『国文学読本』(冨山房)でも、「源平盛衰記・平家物語・保元・平治物語等の諸戦記相踵いで世にいでたり」と述べているだけである。明治二十五年刊、小中村義象・増田于信著『中等教育日本文学史』(博文館)でもほぼ同様である。同年刊行の大和田建樹著『和文学史』(博文館)には、「軍物語いくさものがたり」という名称を用い、同じ著者の明治三十二年刊、『日本大文学史』(博文館)でも同じことばを用いている。これは注目すべき称呼であったが、その後の文学史では、ほとんど採り上げられなかった。こうして、管見の範囲では、明治三十二年に刊行された芳賀矢一著『国文学史十講』(冨山房)に軍記物語といい軍記物とも記しているのが、最も早いようである。なお藤岡作太郎は『国文学史講話』(大阪開成館 明治四十一年刊)でも『鎌倉室町時代文学史』(大倉書店 大正四年刊)でも、『平家物語』などを軍記といい、時に軍記物と記しているが、軍記物語という語は全く用いていない。大正以後に一般に多く使われるようになった術語だといってよかろう。明治四十五年刊、五十嵐力著『新国文学史』(早稲田大学出版部)には軍記物語としている。このように軍記物語は比較的新しくつくられたことばであるが、歴史物語(この語も芳賀矢一の造語か)に対して考えられたもので、軍記(軍史)の物語であり、物語風に書いた軍記という意味であろう。そうして物語には、物語る、語り物という意を含めて考えるとよいと思うのである。
 要するに、軍記物語は戦争を中心に、ある一時期の歴史を描いた語り物の文学であるが、戦争は社会における異常な事件であるから、これを記録することは、古くから行われていた。『古事記こじき』などにもすでに軍記物の萌芽が見いだされるが、平安時代にはいると、平将門たいらのまさかどの反乱を描いた『将門記しようもんき』や源義家が安倍貞任あべのさだとう宗任むねとうらを討つ前九年の役を述べた『陸奥話記むつわき』などが出ている。これらは漢文体の軍記であって、中世の軍記物語の先駆と認めるべきものであった。『醍醐雑抄だいござつしよう』の「平家作者事」に「将門保元平治已上四部……」とある将門は、現存する『将門記』のようなものをさすのであろうが、これによると、『平家物語』や『保元物語』『平治物語』と同列に考えられていたことになる。『宝物集ほうぶつしゆう』には、『将門之合戦状』が引用されているが、『吾妻鏡あずまかがみ』にも寛元三年(一二四五)十月十一日条に、「かねて京都で平将門合戦状を書かせていたが、それが昨夜到着した。そこで頼経よりつね(将軍)がそれを見、清原教隆がその詞を読み申した」とある。この『平将門合戦状』も、『将門記』の一種であろう。なお元久元年(一二〇四)十一月二十六日条には、三代将軍実朝さねともが京都の画工に『将門合戦絵』二十巻を描かせ、これを珍重したことが記されている。『将門記』は東国の人々に衝撃を与えた戦乱の記録、つまり関東の軍記物であり、関東武士の関心もひとしお深かったに違いない。後の『曾我物語そがものがたり』と同様に関東人士の間に語り伝えられた話材であり、かつ鎮魂の意味をも併せもって、作られ語られていたのである。
 また『吾妻鏡』の承元四年(一二一〇)十一月二十三日条には、『奥州十二年合戦絵』を京都から召し下し、実朝がこれを観賞し、中原仲業なかなりが仰せによってその詞を読んだことが出ている。『前九年合戦絵巻』は今日伝存しているが、これは『陸奥話記』と同様な内容を絵巻物に仕立てたものらしい。右の『奥州十二年合戦絵』について、黒川真頼は『考古画譜こうこがふ』で前九年・後三年を合わせたものかと記しているが、むしろ『前九年合戦絵巻』のことではないかと思われる。時代が下るけれども、『看聞御記かんもんぎよき』永享三年(一四三一)三月二十三日条に、『十二年合戦絵』五巻、『後三年合戦絵』六巻その他を勧修寺門跡かんじゆじもんぜきから借りたとある記事などが、そう考えさせるのである。
 後三年合戦の絵巻も、平安末期には作られていた。『康富記やすとみき』の文安元年(一四四四)閏六月二十三日条に、承安元年(一一七一)静賢じようけんが絵師明実に図せしめた『後三年絵』四巻のことが記されているし、『吉記きつき』の承安四年(一一七四)三月十七日条によると、源義家が陸奥守だった時、国人武衡たけひららと戦った際のことを描いた合戦絵についての記事があり、静賢法印が先年、後白河院の院宣を奉じて始めて「令画進也」とある。これが『康富記』に記す『後三年絵』と同じものであろう。そして、画者は明実、詞書は静賢と考えてもよさそうである。
 今日伝わっている『奥州後三年記』は、貞和三年(一三四七)の玄恵げんえ法印の序によると、当時、絵巻三巻を比叡山の衆議によって制作したもののようであるが、これは平安末期にすでに成っていたものに多少の修正を加えて、新しく描いたのではないかと思われる。
 以上述べてきた中で、特に注意しておきたいことは、第一に保元の乱以前の戦乱の記が書かれていたこと、その制作はあるいはその乱が終って間もない頃であったとしても(この点はすこぶる疑問であるが)、それが人々の関心をひくようになったのは、保元・平治の乱以後、すなわち広義の中世になってからであり、特に鎌倉時代にはいってからだということである。承安の頃に後白河院の仰せによって静賢法印が書き、画かせたという記事は、宮中においてもそういう合戦絵を見ようとした風潮を物語っているし、またその制作の主役をなしたかと推測される静賢は、保元の乱で活躍し平治の乱でみじめな最期を遂げた信西しんせいの子であり、『平家物語』では院の信任をかちえ、平清盛も一目おいた賢者として描かれている僧である。後述のように、いったいに信西の子孫には『平家物語』の成立に関与したと思われる者が多いが、その一人である静賢が合戦記の制作に携わっていたことは、非常に興味深いことである。とにかく京都でも鎌倉でも、合戦譚は中世の人士の好むところであった。そういう風潮が『平家物語』の成立に大いに関係していると思うのである。
 次にはこれらの平安時代の軍記が、絵巻物になり、かつそれがしばしば人々の前で朗読されたということである。『将門記』については、「いくさがたりの民間伝承と戦死者供養の民間信仰がい合った地盤においてつくりあげられたもの」であり、「世俗的史伝文学と仏教的唱導文学との二つの系統を融合したところに創作されたもの」(川口久雄著『平安朝日本漢文学史の研究』上 明治書院 昭和三十四年刊)であるといわれているが、唱導文学的な面はたしかに認められるし、絵説きにも似たものをもっていたといえよう。前述した信西の子孫には、説教唱導の名人として天下に喧伝された澄憲ちようけん聖覚せいかくがいた。そういう緇流しりゆう願文がんもん表白ひようびやくが『平家物語』のある種の文章に近いことは、すでに指摘されていることであるが、唱導文学とのかかわりは今後いっそう探究する必要があろう。何にしても、中世の語り物の文学は、こういうものから展開していったと考えられるのである。
 もちろん一方では歴史を物語風に記すという試みが、平安時代の後期には現れており、『大鏡おおかがみ』や『栄花物語えいがものがたり』などの歴史物語も書かれていた。また一一〇〇年前後にできた『今昔物語集こんじやくものがたりしゆう』には、巻二十五その他に武家の争いが取り上げられていた。そういう和文体の歴史物語や和漢混淆文わかんこんこうぶんの説話文学も、軍記物語の成立に何がしかの寄与をなしたであろうが、語り物である軍記物語の主たる母胎は、何といっても上に述べたような軍記であったと思うのである。
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