古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

西鶴の武家物

第69巻 井原西鶴集(4)より
 本巻に収録する『武道伝来記』『武家義理物語』『新可笑記』は、いずれも武家社会に取材し、それぞれ敵討かたきうち・道義・智略ちりやくなどを中心に、武士の生き方の諸相を描いたものなので、武家物という。
 作者井原西鶴いはらさいかく(一六四二~一六九三)は、初め談林だんりん派の俳諧師はいかいしとして活躍した。特に矢数俳諧やかずはいかいといって、一昼夜に詠む独吟俳諧の数を競う催しでは、延宝えんぽう八年(一六八〇)に四千句の独吟を成就し、さらに貞享じよう きよう元年(一六八四)には二万三千五百句の独吟を成し遂げて、世間を仰天させたほど、激しい表現意欲の持主である。小説作者としては、天和てんな二年(一六八二)に『好色一代男』を刊行し、元禄げんろく六年(一六九三)に死去するまでに、好色物の小説十二点、武家物三点、町人物三点、以上の分野に入らない作品群、雑話物の小説を七点、総計二十五点の小説を出版している。西鶴の小説活動は、四十一歳から五十二歳で死去するまでの約十一年余であるが、概して前期に好色物、中期に武家物、後期に町人物が刊行され、雑話物はこれらと並行して全期にわたって刊行された。
 西鶴は、大坂おおざか(大阪市)に生まれ、大坂で没した町人作者であり、武家物の世界はいわば領域外のことではあるが、しかし当代小説、浮世草子の題材収集には絶好の地であったのである。西鶴の『日本永代蔵』巻一の三冒頭から、大坂の繁昌ぶりを描く場面を要約して例示する。ぜひ原文を読んでほしいところである。
我々庶民と違い、大名は幸せで、一年に百二十万石の方もいる。ところで大坂は諸藩の米を始め、色々な物産が取り引きされる。米は一時いつとき(二時間)に銀五万貫目、量では百二十万石相当の米が取り引きされる。大坂の淀川に架かる難波橋から西の方を見渡すと、「数千軒の問丸」や蔵屋敷がいらかを並べ、白壁造りの白さといっては、雪の降ったあけぼのの景のように眺められる。山のように積み上げた俵物を、馬に積んで送り出すと、大道がとどろき地雷のようだ。
 右の舌足らずの要約からも大坂の活況がうかがわれよう。大坂には諸藩の蔵屋敷が置かれ、勤務の武士のほか、諸国から様々な商人が集った。また、瀬戸内海や淀川よどがわの水路を始め、陸路から各階層の旅人が集散した。卑近な例では、京・江戸・大坂三都の官許の遊廓ゆうかくのうち、格式や洗練さはともかく、くるわの規模や遊女の数では、大坂が群を抜いて大きかった。西鶴は大坂の遊女の数を「千三百余人」(諸艶大鑑八の五)という。要するに、諸国の人々から様々な情報や、珍談奇聞が大坂の人々に届いたと思われる。
 ところで西鶴は、壮年時代の矢数俳諧やかずはいかいの下準備にも、多種多様な俳諧の素材を集めていたようであるが、日常生活でも話し上手・聞き上手な人であったらしく、多くの俳諧師が集まり、世間話などにも興じたことが、『西鶴名残の友』や俳書類から知られる。西鶴の伝記資料は、意外に少ししか残存しないが、伊藤梅宇いとうばいうの『見聞談叢けんもんだんそう』(岩波文庫にも所収)から紹介しておきたい。(原文は漢字片仮名交り文。表記は一部改めた)。
貞享元禄の頃、せつ)の大坂津に平山藤五と言ふ町人あり。有徳うとくなるものなれるが、妻もはやく死し、一女あれども盲目、それも死せり。名跡みようせきを手代にゆづりて、僧にもならず、世間を自由にくらし、行脚あんぎや同事にて頭陀づだをかけ、半年程諸方を巡りては宿へ帰り、はなはだ俳諧をこのみて、一晶いつしやうをしたひ、後には又流儀も自己の流儀になり、名を西鶴とあらため、永代蔵えいたいぐら、又は西の海、又は世上四民雛形せじようしみんひながたなど言ふ書を作れるものなり。世間の吉凶、悔吝くわいりん、 患難くわんなん、 予奪よだつの気味よくあじわひ、人情にさとく生れつきたるものなり。又老荘ともみえず、別種のいき方とみゆ。黒田侯御帰国の時、大坂の御屋敷へ召して、次(の間)にてはなさせ聞きたまひ、世上へいだし、使番・聞番ききばん留守居るすゐの役にいひつけはべらば、かゆき所へ手のとヾくやうにあらん人がらと称し給ふよし。 (注)「悔吝」=後悔と恥。「患難」=災難と心配。「予奪」=財産の遺贈。
 上の記事から、西鶴は平山藤五ともいうらしいが、他の傍証はない。彼は裕福な商人であったらしいが、家族運には恵まれなかったようで、この点の傍証はある。西鶴は店を手代に譲って、出家したわけではないが、他の俳諧師同様に、雲水の僧の姿で頭陀袋ずだぶくろを首に掛け、諸国を自由に旅をしたらしい。西鶴は『一目玉鉾ひとめたまぼこ』という歌枕うたまくらを中心とした鳥瞰図ちようかんず入りの地誌を著す。「一晶」は芳賀一晶という貞門の俳諧師で、西鶴の画像を残しているが、弟子ではない。『永代蔵』は『日本永代蔵』だが、以下の作品はなく、『世間胸算用せけんむねざんよう』のことかといわれる。筆者は西鶴の作品に感銘を覚えたらしく、本記事の後に、『西鶴織留』巻三の二「芸者は人をそしりの種」の又写しを載せている。後文の「黒田侯」とは、福岡藩主黒田光之みつゆきで、参勤交代の帰途、西鶴を大坂の蔵屋敷に呼び寄せ、世情のことを話させたらしい。「使番~留守居の役」とは、「藩の使者・伝奏役・蔵屋敷などの家老」をいう。
 『見聞談叢』の記事から、西鶴が旅好きで諸国の風土や情勢に詳しいこと、また大変な話し上手で、大名を感心させたほどであることが分る。さらに容貌ようぼうや押し出しもよく、世知にたけて、口上さわやかに述べられる人物であったことも分る。
 そうして先の旅好きであった点が反映したのであろうか、西鶴の小説は諸国話的な珍談奇聞に富む内容となっている。また、話し上手・聞き上手な点が反映したのか、西鶴の小説は概して短編小説であり、時には小説の構成自体が、話の“まくら”のような前置きや、時には伏線ともなる主題提示が初めにあり、そうして本論が展開し、最後に“落ち”のようなユーモラスな結末を迎えることが多い。そうしてこの二点が渾然こんぜんと一体化して、個々の作品自体が主題に則した諸国話の要素の濃い短編小説集となったといえる。
 
 西鶴の初期の作品中、中期の武家物執筆につながるような傾向の話をいくつか紹介しておこう。
 一 『諸艶大鑑しよえんおおかがみ』巻七の一「惜しや姿は隠れ里」では、遊女の敵討かたきうちを描く。江戸の元吉原時代の遊女長山ちようざんが、商売気を離れて好きになった仙台の客角弥かくやが、返り討ちに遭ったと聞くや、抱え主に頼み、仙台の遊里に移籍させてもらい、角弥の敵をねらう。助太刀もあり敵を討つことができると、首尾よく姿を隠し、尼となって角弥を供養したという。長山は武家の出と書かれていないが、武家の妻同様の気丈な振舞いをしている。
 二 『西鶴諸国ばなし』巻四の二「忍びあふぎ長歌ながうた」では、大名の姪に当る姫君が、大名の家督相続権の順位のためか、二十はたち余りまで独身でいた。その姫が自分を一途に慕う下級武士と示し合せて、駆け落ちをした。しかし見付け出されて、男は処刑され、姫も自害するようにすすめられたが、姫は、相手と身分は違っても、自分は一生に一人の男と一緒になったわけで、決して不義をしたのではないと、堂々と主張し、尼となって男の供養をしたという話である。
 以上二つの女性の、珍しい身の処し方の執筆から、やがて『武道伝来記』の女の敵討(二の一・二の四・六の一)や、『武家義理物語』巻五の一の遊女に関する敵討や、巻四の四「丸綿まるわたかづきて偽りの世渡り」の、武士の娘がだまされて遊女となったことを知ると、恥じて餓死した話、などへと展開したものと思われる。
 三 『西鶴諸国ばなし』巻一の三「大晦日おおつごもりはあはぬ算用」では、江戸の貧乏浪人原田内助はらだないすけが、家内の兄から年の暮れに十両の援助を受けたので、大晦日に親しい浪人仲間を宴に招き、その折十両の金包みに面白い趣向がこらされていることを披露した。しかし片付ける際に一両足らないことが分った。そこでたまたま一両持っていた侍は、疑われては心外だと自害しようとする。するとここに一両あったと自分の金をそっと出して助けようとする侍が出たり、武家の義理堅い話を描いている。この話は目録見出しに「義理」と標榜ひようぼうするもので、『武家義理物語』の主題の萌芽を示すものである。
 四 『西鶴諸国ばなし』巻三の七「因果のぬけ穴」では、目録見出しに「敵討」と明示するように、敵討の異聞を描くが、『武道伝来記』の副題「諸国敵討」につながる問題を扱っている。
 五 『男色大鑑なんしよくおおかがみ』巻一の五「墨絵につらき剣菱けんびしもん」。
 六 同じく巻二の一「形見は二尺三寸にしやくさんずん」。
 七 同じく巻二の二「かさ持つてもぬるる身」。
 この『男色大鑑』とは、『武道伝来記』刊行の三か月前、貞享四年(一六八七)正月刊。八巻八冊、全四十話の短編小説集である。副題を「本朝若風俗」というが、「若風俗」とは若衆道の風俗の意である。兄分を念者、弟分を若衆というのと関係がある。前巻四巻は武士の衆道を扱い、後半四巻は歌舞伎若衆の男色を扱う。
 武家物の第一作『武道伝来記』は、武士の衆道の関連する話が六話(一の一・三の四・五の二・六の四・七の二・八の二)もあるので、『男色大鑑』の前半から触発されて、執筆を企図したものと思われる。ただし、『男色大鑑』は「本朝若風俗」という主題、他方『武道伝来記』は「諸国敵討」という主題に基づく内容となっている。
 最後に、西鶴の武家物に影響したと思われる仮名草子を挙げておく。
 仮名草子の随筆類、如儡子によらいし(斎藤親盛ちかもり)の『可笑記かしようき(寛永十九年〈一六四二〉刊)がある。全二八〇段の中で、武家における主君への批判、武道への感懐、あるいは処世訓などが、著者の浪人としての立場からの悲憤に満ちた口調で語られる。西鶴の『新可笑記』の題名は本書に基づく。詳しくは本巻末の「解説」を参照されたい。
 次に浅井了意あさいりよういの『可笑記評判』(万治三年〈一六六〇〉刊)がある。この作品は、前述の『可笑記』を基にして、大概の段を批判、反論している。
 また、仮名草子の翻訳物では、北村季吟きたむらきぎんの『仮名列女伝』(明暦元年〈一六五五〉刊)がある。これは前漢の劉向りゆうきようの『古列女伝これつじよでん』が舶来し、その和刻本の『劉向列女伝』(承応二年〈一六五三〉刊)が世に出た後に、翻訳書として世に出た。この『仮名列女伝』は、『武家義理物語』に影響を与えたと思われる。
 さらに仮名草子の遍歴物、浅井了意の『浮世物語』(寛文五年〈一六六五〉ごろ刊)も、巻三の二「侍の善悪批判の事」や、巻三の十「侍は常に武勇ぶようを心がくべき事」などが影響したかと思われる。いずれも『可笑記』などの評言を、主人公浮世坊うきよぼうが語るのであるが、小説の中に大量に警世の言が織り込められているのが特色である。
 以上の仮名草子に西鶴が共感したと思われるのは、主君の機嫌を取るのが巧みな家臣が出頭人になると、権威をかさに着て邪険になると非難しているところなどであろう。ただし『武道伝来記』では、仮名草子のように直接的な楊言はせず、小説の文脈の中で自然に察知できるように書き込んでいる。(冨士昭雄)
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