人の集うところ常に争いあり――平安中期、
平将門が、
下総国を中心に一族抗争の果て叛乱にまで発展、自ら
新皇と称するも遂に討たれたという
天慶の乱の
顛末を描いた『
将門記』。平安後期、
陸奥で起こった
叛乱で、追討将軍
源頼義・
義家が乱の首謀者
安倍頼時を討つも、その子
貞任・
宗任の抗争は続き、これを鎮圧するに長期を要した、いわゆる前九年の役を描いた『
陸奥話記』。あるいは、平安末期、天皇家・摂関家の内紛に武力を頼まれて介入、次第に武家の勢力が伸張するなかで、最後は源
義朝と平
清盛の対決、結局は清盛の勝利に終るという、
保元の乱と
平治の乱の顛末を描いた『保元物語』『平治物語』、これらが、
治承・
寿永の源平争乱を描いた『
平家物語』に先立つ、主要な軍記物語である。
ところで、江戸後期の国学者
塙保己一の大
編纂事業の一つ『
群書類従』、及び後世これを受け継いだ『続群書類従』には、〈合戦部〉の部類のもと、『将門記』『
純友追討記』『陸奥話記』『
奥州後三年記』以下総計一九一種の合戦にかかわる文献が収められている。もちろん、なかには文学の範疇には属さないものもあろうが、他に、『群書類従』等には収められていない『保元物語』『平治物語』『平家物語』『
太平記』など、個別に出版された物語もあるなど、それにしても多くの作品が残されているものと思う。
しかし、学校の古典教科書教材で、原文が収められているもの――文学史とは別に、作品鑑賞にまで踏み込んで取り上げられているのは、ほとんどが『平家物語』だけではなかろうか。『平家物語』の一人勝ち、こう刷り込まれてきたことは確かである。さすが『平家物語』だ、『太平記』の持ち合わせない〈月〉がうかがえるとの意も込めた、〈平家
也太平記には月も見ず〉(江戸前期の俳人
榎本其角の句)が成り立つゆえん――実在した合戦に取材することの多い歴史物語でありながら、戦況の生々しさを如実に伝えることを志向せず、むしろ抒情に流れることの多い『平家物語』の特質が、この〈月〉という語にたくみに集約されていると言えよう。
ところで、『平家物語』をして軍記物語の頂点に据える物語観が刷り込まれているゆえ深く考えることもなかったが、『日本文学の歴史』
(中央公論社)刊行に当たり、著者ドナルド・キーンは、〈一番楽しかったのは、これまでいわれているのとはちがった再評価ができたこと。たとえば、軍記物語は平家物語が一番いいといわれる。けれど低くみられている保元物語、平治物語、そして
明徳記など実に面白い。こんな発見をして、自分の特徴が出たと思います〉
(「朝日新聞」大阪本社版、平成6年5月30日夕刊)と述べたことがあり、その率直な物言いは面白い。
もっとも、ドナルド・キーンは、『日本文学の歴史4』(平成6年)「軍記物語」の章で、〈『平家物語』は、間違いなく軍記物語の最高傑作である〉と称えており、新聞談話でも、これまでの『平家物語』評価に異論を唱えているわけではなかったことに気付く。ちなみに、この「軍記物語」の章では、〈戦記物〉として〈将門記〉を立項、〈戦記物自体は文学性に乏しい作品だが、軍記物語の先駆けとしての意義がある。このあと十三世紀に現れる軍記物語は、十二世紀戦乱の時代を描いて、文学的にもきわめて重要な作品である〉と結んでいる。なお、『陸奥話記』は〈将門記〉の末尾に、〈これは「前九年の役」に、源頼義が奥羽地方に安倍父子を征討したときの記録である。無味乾燥な漢文云々〉と素っ気ない扱い、〈戦記物〉には、〈文学性に乏しい〉など手厳しい評が目に立つ。〈文学性〉とは何かが問われることになろう。
ところで、ドナルド・キーンが〈軍記物語〉と呼びうる最初の作品とした『保元物語』と『平治物語』評の要点を摘記してみると次の通り。〈重要な特徴は文学性の高さ、西洋的叙事詩の世界に近い源
為朝の武勇伝〉〈流刑地の
崇徳院の描写にも捨てがたい魅力〉〈強い劇的緊張を与える崇徳院と為朝の存在〉〈文学的興味を抱かせる義朝の痛ましい物語〉〈悲劇的な素材を巧みに展開、荒々しい武士の世界が出現〉
(以上『保元物語』)、〈劇的な構造を与える場面配置と絵画的部分もある構成〉〈臆病で節度のない
信頼や勇猛果敢な
悪源太義平など巧みな人物描写〉
(以上『平治物語』)など、讚辞は『保元物語』に集中していると見て取れる。
ドナルド・キーンが〈無味乾燥な漢文〉と酷評したはずの『陸奥話記』にして、小西甚一は、〈かなり本格的な漢文で書かれている。かなり本格的とは、語辞や句法のうえでたいして
和習がなく、対句の使いかたも手慣れていることをさす〉
(「漢詩の残照」、『日本文藝史 III 』、講談社、昭和61年)と称えている。同じく漢文体の『将門記』は和習があり、この「漢詩文の残照」では取り上げられることもなく、こと文体では、『将門記』『陸奥話記』の評価は逆転していると言えよう。
ところで、小西甚一はこれまでの軍記物語を〈治乱の物語〉と呼びかえ、その意味するところを、
治乱の物語に見られる重要な特性のひとつは、軍事行動で代表される「乱」を平和志向の「治」が包みこむという点に在る。いちばん戦闘場面の多い『太平記』が「太平」を題名とするのはアイロニイでなく、作品としての主題が天下太平であることを反映するものにほかならない。これは『太平記』が突然に考え出したことではなく、十世紀の『将門記』において、すでにその態度が見られる。その作主は、反逆者将門が滅亡したのを「天罰」だとしながらも、争乱の起ったのが地方行政の欠陥に基づくことを指摘しており、全体として「乱」は「治」に収束すべきものだという史観から書かれている。その百二十年ぐらい後に書かれた『陸奥話記』も、同じく「治」の立場から「乱」を観察する。このような態度が、十三世紀の『保元物語』や『平治物語』などにも承け継がれたのである。史観をもつのは、作主が理性的な立場から作中事実を述べてゆくことにほかならないので、そこには英雄詩ふうの物語が生まれにくいことになる。(「治乱の物語 ― その一 ―」、『日本文藝史 III 』)
と規定している。『将門記』以下軍記物語が〈治乱の物語〉で括られているわけだが、〈語り手がそうとう自由に創作できたとしても、実際には理想化された英雄像が『将門記』や『陸奥話記』に現れることはなかった。これが『保元物語』や『平治物語』になると、作中人物の理想化はある程度まで意識されたようである〉
(同)と、『将門記』『陸奥話記』と『保元物語』『平治物語』の間には隔たりがあるということなのであろう。ちなみに『保元物語』『平治物語』は
和漢混淆文である。「治乱の物語」が収録されている章は、「和漢混淆文の進出」という題であった。
小西甚一によれば、『平家物語』の定本とされることの多い
覚一本には、死に伴う血の描写はひとつもないとのことである
(「治乱の物語 ― その二 ―」、『日本文藝史 III 』)。先に引いた、〈平家
也太平記には月も見ず〉にも相通う情趣と見なすことが出来よう。
ところで、『保元物語』や『平治物語』には、血の描写の見出される個所がある。
成澄、矢を抜き奉る。血の流れ出づる事、竹の筒より水を出すがごとし。(『保元物語』巻中「新院左大臣殿落ちたまふ事」)
鼻の先突き欠き、血朱に流れて、実におめかへりてぞ見えし。(『平治物語』巻上「待賢門の軍の事」)
戦場とあらば、血が飛び散るなど当然のこと、生々しくリアリティに富んだ表現――血の描写のない覚一本『平家物語』のパターン化した様式美とはまた異質の世界と言うべく、あのドナルド・キーンの発言〈保元物語、平治物語、そして明徳記など実に面白い〉が何を示しているかは興味深い。ちなみに、『日本文学の歴史』には、『保元物語』や『平治物語』の死に伴う血の描写について言及するところはない。
日本文学の翻訳は可能か――ドナルド・キーンは、その難しさを、〈外国人が『平家物語』を読む場合、翻訳では必然的に音楽的効果が失われ、いかに正確に翻訳されていても、原作の調子とリズムになじんだものには不十分に思われる〉
(「軍記物語」、『日本文学の歴史 4』)と語っている。
ことは外国語訳にとどまらない。すっかりなじみの薄くなった古典の普及をはかるためには現代語訳でなどの企画がたてられるのも無理からぬこと、ただし、原典ににじむ
風韻もろとも伝えるとなると至難のことであろう。なかで、韻律美を基調にする和歌等短詩型文芸の場合の苦心のほどはとなると、語調そのままに整えた、村木清一郎による全訳『古典日本文学全集 萬葉集』
(筑摩書房。上巻、昭和34年。下巻、昭和37年)〈初春だ/年の初めだ/しあわせよ/積れ重なれ/今日の雪のごとくに〉や、部分訳ではあるが、榎克朗校注『新潮古典集成
梁塵秘抄』
(新潮社、昭和54年)〈
暁闇の静けさに、寝覚めてものを思うとき、
枕に眼冴えかえり、とどめもあえぬ涙やな。仏の道に身も入れず、ただいたずらにこの世をば、過し過して、いつの日に、浄土へ参り着けようぞ〉などの工夫が
喧伝されている。
もちろん、散文の場合でも、文体から感動が抜けてしまってはならぬ、原文をただ分かりやすい現代語に置き換えたのでは訳にならないと熱っぽく説いて、木下順二は模範訳を示したことがある。
大音声をあげて名乗ったには、「日ごろわが名は聞きおったか、今こそその眼でよっく見ろ。三井寺でその名を知らぬ者ない荒法師、筒井の浄妙明秀という、一人当千の猛者なるぞ。われと思わんやつばらは掛かってこいや、相手になろう」と背中のえびらに二十四本差した矢を、息も継がせず次から次へさんざんに射る。(『平家物語』巻四「橋合戦」の一節)
ただし、続けて、〈ほんとうは、“日ごろは音にも聞きつらん、今は眼にも見給え”だとか、“われと思わん人々は寄り合えや、見参せん”などいう言葉は訳したりしないほうがいいかもしれない。原文のままにしておいて、前後の訳した部分を、それと調和のとれるようなふうに訳すのが、いちばんいい訳しかたなのかもしれないのである〉
(『古典を訳す』「はじめに」、『木下順二集』13所収、岩波書店、昭和63年)と言っているあたり、古典を訳すことのただならぬ決意が見てとれる。
ところで、『保元・平治物語』の現代語訳につき、早く、その
要諦を〈原典の持つ行文の歩速の妙〉と覚悟した、井伏鱒二の短文が目についた。その全文を引く。
はじめ私はこの仕事を引き受けたとき、原作が現代文にかなり近いから大して難しい課業でもないだろうと思っていた。ところが実際に取りかかってみると、和文邦訳(あるいは邦文和訳)の仕事は甚だ厄介なものだということがわかった。原文に忠実になろうと努めながら書いたり消したりしていると、結局のところ原文通りの文章でなくてはおさまりがつかないことになって来る。もっともこれには少し誇張があるが、いくら努力しても原文にまさるものはないのだから口惜しいようなものであった。
『保元・平治』の現代語訳は、すでに完璧だと言われている前田晁氏の労作がある。それでも私はあえてこの仕事を引き受け、しかもページの関係から、ある箇所によっては抄訳したり、割愛したりした。読物ふうにしたい下ごころがあった次第だが、私はこの仕事をしている間じゅう、原典の持つ行文の歩速の妙に絶えず触れることができた。(「訳者の言葉」、『日本国民文学全集 平家物語 附保元・平治物語』河出書房新社、昭和33年)
原文の調子を生かすべく行った現代語訳の推敲の果てが、何のことはない、元の原文に近付いた――文庫本の帯の
惹句等で目にする、井伏鱒二の持ち味と称えられる
飄逸そのまま、それはともかく、木下順二の主張の先駆けをなす。ちなみに、井伏鱒二訳『保元物語』巻中「義朝、
白河殿を
夜討する」の冒頭は次の通り。
上皇方の白河殿にいる人たちは、そんなこととも知らないで、左大臣頼長が、武者所の親久を呼んで、/「内裏の様子をさぐってまいれ」/と言いつけた。親久は承わって出ていったが、あわただしくはせ帰って、/「すでに、官軍が攻め寄せてまいりました」/と報告した。もうそのときには、まぎれもなく官軍の先鋒が押し寄せているところであった。鎮西八郎為朝は、/「私が、口をすっぱくして申し上げたのは、このことです。残念ながら、このことです」/そう言ったが、いまさらなんともしかたがない。
井伏訳『保元物語』が依拠した伝本は、巻頭序相当箇所を欠いているが
流布本に違いない。
金刀比羅神社蔵本に
拠る現代語訳の試みもあるが
(永積安明編『鑑賞日本古典文学 保元物語 平治物語』角川書店 昭和51年)、底本の違いもあり、井伏鱒二の際立つ
鏤刻の跡を見分けることは容易ではない。それだけに現代語訳に取り組む心構えを
披瀝した「訳者の言葉」は当然と言えば当然のことであるが貴重である。なお、文中、〈前田晁氏の労作〉とあるのは、前田晁訳『現代語訳国文学全集 保元物語・平治物語』(非凡閣、昭和13年)をさす。(信太 周)