ベランダ越しのお隣さんに、
「ちょっとお
醤油をかしてくださらない。うっかり切らしてしまったものだから―」
そんなほほえましい光景が王朝の御代にもあったのだろうかと、ふと考えることがある。もっとも、「しょうゆ」という言葉の文献上の初出は室町中期らしいから、それはあまりにも現代的な想像かもしれない。
しかし、隣家に、「紙を切らしたから、ちょっと都合して」と漢詩でいってやった人はいた。
島田忠臣という、十一歳の
菅原道真に作詩指導をし、のちに道真の岳父(妻の父)となった、その人である。
島田忠臣といえば、当代一流の文人で、宮廷貴紳の間に詩匠と仰がれた人物である。また、
鴻臚館において外国の使節と詩を唱和し合うなど、外交の表舞台でも活躍した人だ。有能な官吏としても知られた島田忠臣の若き日のある日の光景が「紙かして」であった。
臆に満つる秋懐蓄みて雲に似たり (胸一杯に秋のもの悲しさがつのって、まるで雲のようにたまってしまう)
唯だ紙無きに因りて鬱として紛紛たり (その思いを書きつける紙がないので、憂鬱さはたまるばかりだ)
多少の相嫌ふ意を為すこと莫かれ (そのような私を多少なりとも、厭わないでください)
詩章を写着して続いで君に送らん (詩文を書いて次々とあなたに送りますから)
これがその時、隣家に贈った詩である。「
紙を
乞ひて
隣舎に贈る」と題して、『
田氏家集』巻之上に載っている
(→本文一二二ページ)。具体的な制作年時はわからないが、恐らく若いころであったろう。
この時の、作者のもっともらしい表情や、秋の日差しの中に垣根ごしに見える隣家のたたずまいまでもが、目に浮かぶようである。詩をよくみると、作者の心の中だけを述べているに過ぎないのだが、生活感のある写生的な表現が千百数十年の時を超えて、読む者に現実的な実感をいだかせる。
嬉しいことに、これには次のような落ちがついている。
隣家からは、早速四十九枚もの紙が、
鄭重な手紙とともに贈られて来た。忠臣は深い感謝の意を込めて、「紙は薄くても恩は厚く、一紙は千金に値する」と、次のような返礼の詩を贈った。これも『田氏家集』に先の詩に続いて載っている。
隣舎の紙書を贈らるるに答ふ (隣家から紙と書簡とを贈られたのに答える)
且く裁つ四十九帳の深きを (とりあえず裁断し届けてくれた四十九枚の紙にこもるお心の深さに感謝します)
更に得たり別枚に徳音を付するを (その上、別に一枚を添えてお手紙をくださいました)
薄葉は軽きに似るも恩は是れ厚し (薄い紙は軽いようですが、御恩は厚いものがあります)
況んや一紙は直千金なるをや (まして貴翰の一紙には、千金の価値があるのですから)
隣家の人も、手紙をつけて寄こしたり、忠臣の方も
貰いっぱなしにしないで、しゃれた礼状を詩で返したり、人間関係の良さがかいまみえる話である。さらに想像をたくましくすれば、忠臣の勉強家ぶりは近所でも評判であったのだろうか、「お役に立つのでしたら、何時でもどうぞ」という隣人の言葉が聞えてくるようだ。それにしても、四十九枚とはきりが悪い。贈り主としては、大きな紙から五十枚を裁ち切って一
揃えとし、その中の一枚に手紙を
認めたのだろうか。一方、
几帳面な忠臣は、
書翰の
紙背をリサイクルするにしても「五十枚を有難う」とも書けないから、「四十九帳」(「張」は紙などを数える接尾語。枚に同じ)という表現になったのだろうか。紙を入手できた喜びをかくしきれずに、枚数を数えている忠臣の姿が目に見えるようである。
華麗典雅であるはずの王朝人が、現代人と全く同じ感覚で生きていたことに、なぜかほっとするのは私だけであろうか。典雅華麗であるはずの…という思いこみ自体が、極めて一方的で怪しいのかもしれない。
島田忠臣のこの詩からは、いろいろなことを考えさせられる。
まず第一に、紙はそんなにも貴重だったのかという改めての思いである。少し落ち着いて考えれば、それはそうだったに違いない、とは思うのだが、観念ではわかってもなかなか実感できない。現今では、シュレッダーにかけたりして処分に困るほど身辺にあふれている紙のことである。
ゆくりなくも、数十年前の欠乏時代を思い起こした。トイレットペーパー、当時はそんな言葉もなく「落とし紙」といった時代だったが、新聞紙にお習字をして、そのあと「落とし紙」にしたものだった。それでも、文字を書いたものをそのように使うことに、いくばくかの抵抗を感じたことを覚えている。新聞や書籍など文字が書かれたものをまたいでさえ
叱られる、学問尊重の精神論が盛んな時代であった。
島田忠臣やそのころの知識人たちが、紙をいかに大切にしたかは想像に難くない。筆、
硯、
墨とともに、紙が
文房四宝の一つに数えられるようになったのは、いつのころからかわからない。しかし、
古の文人が紙をまさしく宝のように思っていただろうことを、忠臣の身辺スケッチ風なこの詩は今更のように私たちに教えてくれる。
第二に考えさせられることは、というよりも感心させられるのは、というべきなのだが、忠臣は自らの身辺雑事をよく見ているということである。隣家への紙の無心などは、まさに
瑣事に類することであろう。しかし、それを返礼の詩も含め、二首構成で日常生活の一こまとしてリアルに生き生きと描写している。これは、細かな観察眼がなければできないことだ。
この、現実を確かな眼で鋭く
観るという、忠臣のそれは、どのようにして養われたのだろうかと思う。恐らくそれは、中国の典籍を学ぶことによって培われたのではなかったか。まぎれもなく、学問のおかげである。
中国の学問には、事実を見つめ現実を重視し、そして将来を鋭く見通す英知を尊重する気風が、とてつもなく大きな潮流となっていつの時代にも流れている。人は精神の
拠り
所をそこに置いて生きることが大切なのだ。特に指導者としての資質には、そこが問われる。「一葉落ちて天下の秋を知る」(『
淮南子』
説山訓の「
一葉の
落つるを
見て、
歳の
将に
暮れんとするを
知る」に基づく言葉)のである。
先述したように、島田忠臣の
薫陶を十一歳にして受け、父祖伝来の
菅家の学を受け継いで文章(紀伝)道をきわめた菅原道真にも、現実を厳しく直視する作品がある。
人生や社会の現実をさまざまな場面で厳しく
見据えた道真であったが、その最も良い例を挙げれば、
讃岐守としての任地で初めて見聞した悲惨な庶民の姿をうたった名作「
寒早十首」であろう。社会的弱者に寒さはいち早く訪れるという、この十首の連作のうち、一例を挙げるなら、「みなしご」について道真は次のようにうたっている
(→一四六ページ)。
何人か寒気早き (誰のところに寒さは早く来るのだろう)
寒は早し夙孤の人 (寒さはいち早くやって来る。早く親を亡くした人に)
父母は空しく聞くのみにして (父母のことは空しく話に聞くだけで)
調庸は未だ身に免かれず (貢物と労役は、未だ免除にならぬ身の上)
葛衣冬服薄く (夏の葛衣は冬服としては寒すぎるし)
蔬食日資貧し (粗末な食事で、日々の予算も貧乏暮らし)
毎に風霜の苦しみを被りて (いつも風霜の苦しみをまともに受けて)
親を思ひては夜に夢みること頻りなり (親を思って毎晩のように夢に見る)
道真にしてみれば、初めて見る地方政治の実状であった。当時流行した『
白氏文集』における
諷諭詩と同様な視点で、社会の底辺にあえぐ庶民の姿を生き生きとえがいている。寒い冬空に
一張羅の夏服一枚とは、よく見ているものだ。それはまた、為政者としての
目ざしでもあったのである。
忠臣の詩で第三に思うことは、隣家に紙の無心までして、書きたかったその内容はいったい何だったのだろうか、ということである。それは、彼自身が詩の中で「
臆に
満つる秋懐
蓄みて雲に似たり」といっているのだから、「秋の思い」を書きたかったのはいうまでもない。しかし、ではそれは秋のどんな思いかと一歩つっこむと怪しく
曖昧になってくる。
今日では、秋はもの悲しい季節だと相場がきまっているようなものだが、当時は現代人が考えるほど一般的な季節感とはなっていなかったらしい。というのは、悲秋の感覚は万葉人にとってまだそれほど普遍的ではなかったようであるからだ。
それが、中国戦国時代、
楚の
屈原(前三四三~前二七七)の弟子
宋玉(生没年不詳)の、
悲しいかな秋の気たるや。蕭瑟として草木揺落して変衰す… (『楚辞』九弁)。
や、
晋の
潘岳(二四七~三〇〇)の、「
秋興の
賦」に、
善いかな宋玉の言に曰はく、、悲しいかな秋の気たるや(中略)。嗟秋の日の哀しむべき、諒に愁へて尽きざる無し… (『文選』巻一三)。
などとある中国文学の影響のもとに、日本人の季節感や美意識にも微妙な変化が訪れた。本書の中にも、それらの影響下にある作品が少なからず見られる。
ただ、注意しなければならない大切なことは、それらは
凋落の季節における単純な感傷ではなかったということである。彼らの悲秋の感覚の深奥には、単なる個人的な感傷を
超えた、人生や社会における普遍的な問題についての深い思索や鋭い洞察があった。例えば
宋玉の場合、
楚の王族の一人でありながら
讒言に
遭い非業の最期を遂げざるを得なかった憂国の詩人屈原を悼み、さらに祖国の将来を憂える
溢れんばかりの真情がその基底にあっての悲しみであった。国を憂えてもどうにもならない焦燥感や絶望感、屈原の魂に「魂よ帰り来たれ」(『楚辞』招魂〈屈原作の説もある〉)と呼びかけて、その安からんことを祈る気持などもあったであろう。それは、秋の自然的景物に基づく感傷にとどまるはずもない。
島田忠臣は、中国の典籍を学ぶことによって身についた、当時としては清新でおしゃれな悲秋の情緒が、
彷彿として胸中にわいてくるのを押えがたく、何とかそれを表現しようとしたが紙がなかった。お隣さんから紙を借りてでも書きとめておかねば忘れてしまう、というのが本当のところであったかもしれない。まさしく、文人の本領発揮といったところであった。
さりげない日常の写生詩でも、味わってみると思わず深みにはまってしまうものである。日本漢詩を読む楽しみの一つには、中国の古典と重ね合わせて、
汲めども尽きせぬ味わいにひたるという悦びもあったのである。
煩瑣に見えるかもしれない注も、スルメのように味わっていると、そこからいろんなものが見えてくる。『
文選』
李善注をはじめとして、内外の先賢の訓注における格調の高さには及ぶべくもないが、本書が古典の世界に遊ぶためのよすがともなればと願っている。(菅野禮行)