『奥の細道』の底本について
第71巻 松尾芭蕉集(2)より
――芭蕉自筆本の出現にふれて 平成八年十一月末『奥の細道』の芭蕉自筆本が出現したことが櫻井武次郎、上野洋三両氏によって報ぜられ、世間の注目を浴びた。
そこで本書収載の奥の細道には、新しく出現した自筆本と従来知られている曾良本との異同を詳細に記した一覧表(久富哲雄編)を補説として添えたが、その対照表の意義を考え、これを十分に利用する上で参考になるように、奥の細道の成立や同書の主な諸本について略述することから始めたい。
芭蕉の紀行については、解説でそれぞれ述べてあるからここでは繰り返さないが、芭蕉は旅に出ると道中で人々に乞われて発句を入れた俳文をしばしば書いている。発句を欠くものもあり、旅中でなく旅のあとの執筆のものもある。もちろんそれらは紀行を書く準備として書かれたものではないが、結果として紀行を書く材料になったことであろう。中には紀行中にほとんどそのまま使われているものもある。それは芭蕉の紀行の『野ざらし紀行』『笈の小文』(未完成紀行であるから他の紀行と同列には論ぜられないが)、『更科紀行』『奥の細道』もみな同様である。例えば『奥の細道』の旅前・旅中・旅後に書かれた俳文には、まず「草の戸も住かはる世や雛の家」の句入り俳文があり、奥の細道本文中には直接出ないが「秣負ふ人を枝折の夏野哉」の句文、「山も庭にうごきいるヽや夏ざしき」の句文があり、ついで「木啄も庵は破らず夏木立」の句文、白河の関の句文、那須野が原の句文、高久の宿のほととぎすの句文、「風流のはじめや奥の田植歌」の句文、「隠れ家や目だヽぬ花を軒の栗」の句文、石河の滝の句文、「早苗つかむ手もとやむかししのぶ摺」の句文、「かさしまやいづこ五月のぬかり道」の句文、松島の文、羽黒山天宥法印追悼の句文、象潟の句文、「あら海や佐渡によこたふ天河」と「文月や六日も常の夜には似ず」の句文、高田棟雪亭での句文、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句文、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句文、「やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ」の句文、曾良と離別の句文、浅水の橋の句文、敦賀・色の浜の句文、等々がある。つまり芭蕉は紀行執筆前に句を含む俳文(短文)をいくつも書き、これらを材料の一つにして紀行執筆を計っていたのではあるまいか。
今度出現した『自筆本奥の細道』を書く前にも、芭蕉は旅中・旅後に認めた句や俳文を材料にして草稿奥の細道を書いたかと推察される。いかに芭蕉が天才であっても、草稿のようなものなしに『自筆本奥の細道』を書き出したとは考えられない。草稿にも第一次草稿、第二次草稿があったかもしれない。第一次草稿の前には前記発句俳文等が材料になったであろう。そうして草稿を元に清書のつもりで書いたのが、今回出現した自筆本であろう。しかし清書したのち読み直すと(清書完了前にもそういう気付きはあったかもしれないが)、推敲したいところが出て来て、始めのうちは小補訂にとどめようとしたかもしれないが、だんだん大補訂を施したくなり、一旦「芦野の条(清水流るるの柳)」のような大補訂をしたのちは、清書本としての完成を諦めて、貼紙をして書き直したり、貼紙の上に更に貼紙をして訂誤するなど縦横に推敲を重ねるようになったかと推測される。
芭蕉という作者は自作の推敲に執心する作者である。例えば「さむき田や馬上にすくむ影法師」(真蹟詠草)を「冬の田の馬上にすくむ影法師」(如行子)と直し、更に「すくみ行や馬上に氷る影法師」(笈日記)と直し、更に「冬の日や馬上に氷る影法師」(笈の小文)と推敲するごときである。「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」(武蔵曲)は天和元年(一六八一)の作であるが、ずっと後年(多分元禄期)になってから「芭蕉野分盥に雨を聞く夜哉」(蕉翁句集)と直している。こういう推敲は芭蕉の全発句の一割を上回るのではあるまいか。
作者によっては一度世に発表した作品には手を加えない人がある。近代作家で言えば、夏目漱石は改作をしない側であり、その弟子の鈴木三重吉は改作をしないと気のすまない側であろう。最近で言えば、井伏鱒二氏は改作をする側であろう。作家としての芸術的良心が推敲や改作を迫って、旧作に手を入れずにはいられないのだと思われる。芭蕉は発句にも連句にも、紀行や俳文にもこの傾向が顕著である。
今回出現した自筆本奥の細道も、芭蕉は当初は清書本にするつもりだったであろうが、書き終えて読み返すうちに芸術的衝迫に突き上げられて推敲を重ねるようになり、折角清書本を意図して書かれたものを草稿本にしてしまった。
奥の細道に限らず、芭蕉の作品は、発句・連句・散文とも推敲によって格段とよくなる。多少の例外はあるが九分どおりは飛躍的に輝きを増すのが芭蕉の推敲である。奥の細道についても同様で、芭蕉は折角自筆で清書したものを、読み返すうちに縦横に推敲して清書本を草稿本にしてしまったが、しかしこの推敲改作によって奥の細道が一段とすぐれた作品になったことは疑いない。
これまで奥の細道の拠るべき本文としては、曾良本・西村本(素龍本)・柿衛本が知られていた。曾良本は、今回出現した自筆本を芭蕉が門人(上野洋三氏は蕉門の野坡の仲間で同じく蕉門の利牛と推定する)に依頼して清書させた本(のちに曾良に与えられて伝来)で、自筆本と較べてみても非常に忠実な書写であることが解る。芭蕉の書体・書風についてまでもかなりよく模写している。芭蕉はこれを自分用の清書本(定稿)にするつもりだったと思われるが、読み返しているうちにまた推敲を加えたくなったらしい。それは前述のような芭蕉の生来の性向であって、芭蕉にとって止むに止まれぬ内心の衝迫だったのではあるまいか。
まず芭蕉自身による第一次清書本(自筆本)に大きな推敲が施されたことは前述のとおりであるが、その推敲の成果を丁寧に写した第二次清書本(利牛筆写かと推定)に対し、芭蕉は重ねて推敲を施したことになる。それによって奥の細道は一層磨きがかけられたが、結果として第二次清書本(曾良本)も一種の草稿本となった。そこで芭蕉は第三次清書本を作ろうと、蕉門の能書家である素龍に書写を依頼した。素龍は書家として美麗な書写を意図し、必ずしも原本に忠実な書写にこだわらず、例えば原本の漢字を仮名書きに改め、逆に仮名を漢字に改め、送り仮名を補ったり省いたり、その他書家としてある程度自由に裁量して書写した。今日解っている素龍筆写本の二本のうち最初に素龍が写した本は仮名書きを多くした本で、これが柿衛本である。多分芭蕉に注意され再度の書写を要請されたのであろう、のちに漢字を多くした本を別に書いた。芭蕉はこの写本に自分で書名を書いた題簽を貼って自家用とした。これが素龍筆芭蕉所持本(素龍本)とか西村本とか呼ばれる本である。この写本に付した素龍の跋文のあとに「元禄七年初夏」とあり、素龍は四月に泊りがけで芭蕉庵を訪れているから、多分その折持参したものであろう。その時芭蕉が詠んだ「卯の花やくらき柳の及ごし」やその頃の素龍の動静から、前記「元禄七年初夏」は、初夏といっても四月下旬かと推定される(全発句四六三ページ参照)。ついでに言えば元禄七年の立夏は四月十四日であるが、芭蕉は暦の上の四季区分に必ずしも従わず、四・五・六月を夏季としている(拙著『芭蕉と俳諧史の研究』所収「芭蕉の四季区分」参照)。
その頃四月から五月初旬まで芭蕉はずっと持病に悩んでいた(四月七日付乙州宛書簡・五月二日付推定杉風宛書簡)。そうして五月十一日に江戸を立って帰京の途につくのである。当然出立前は雑用が多かったであろう。例えば、旅に同行させた次郎兵衛の母寿貞の身の振り方も考えねばならなかったであろうし、餞別句会もあった(子珊亭句会・山店両吟歌仙)。そこで私が思うには、芭蕉は出立前に素龍本を丁寧に読み返す暇はなかったのではないか。丁寧に読めば素龍の明らかな誤写などはきっと訂正したくなったはずである。芭蕉は素龍本に手を入れることなく、そのまま旅に携帯し、同書は郷里伊賀上野の兄半左衛門の閲覧に供されて同家に遺こり、芭蕉は十月十二日大坂に客死する。遺言によって同書は去来に贈られた。
もし芭蕉が自筆本を書写した曾良本に推敲を加えたように、素龍本に対しても多少でも推敲を加えたならばそれを奥の細道の定稿としたいのであるが、素龍本は前述のとおり原本に忠実な書写とは言えず、芭蕉の推敲の跡は全く見られない。そこで翻刻の底本としては、自筆本の忠実な写しである曾良本に芭蕉が更に丁寧な推敲を施した芭蕉推敲曾良本を当てることにし、同書と自筆本との異同の対照一覧表を付載したのである。
とは言え自筆本の出現によって奥の細道研究が今後飛躍的に進展することは疑いがない。今までの通説が覆えされることは枚挙に暇がないであろう。私自身も過去に述べたことを自筆本の出現で正さなければならないことが多い。例えば、「蚤虱馬の尿する枕もと」の「尿」を曾はシトと読むのが通説であった。もっとも芭蕉の発句を集めた最初の句集である『泊船集』には「馬のはりこく」とあり、支考の『俳諧古今抄』には「馬の尿つく」と読み仮名があり、曾良本にも「ハリ」と読み仮名がある。バリは馬や獣の小便で、バリコクまたはバリツクと言うことを前田金五郎氏は詳説された(「連歌俳諧研究」第二十号、昭和三十五年十月)。それでも私は馬など獣にはバリコク、バリツクといってバリスルとは使わないし、バリといっては穢いばかりだから、ここは言わば「馬がおしっこをする」とでもいうような言い方であろうとし、シト説に加担した。
しかし新出の自筆本には「尿前の関」にシト、「尿する」にバリと読み仮名がつけてある。シト説の誤りは明らかである。ただ芭蕉が「尿こく」とか「尿つく」とかしなかったのは、卑穢化を多少はばかったためとすれば、私の説も多少生かされていると言えるかもしれないが。その外にも私の旧説の正すべきことは多いが紙白が尽きたので、次の機会に詳説して訂正したい。(井本農一)