和学とは、漢学に対する語で、日本の歴史、文学、法制、
有職故実その他のことを対象とする学問である。この和学の語が見える早い資料として知られているのは
林鵞峰が
寛文年間に定めた「
忍岡家塾規式」(『
鵞峰林学士文集』五一)におけるもので、そこでは経科、読書科、文科、詩科の四科と共に、倭学(和学)が堂々一科として立てられている。このことを受けて、のちに
荻生徂徠は、
林家が大学頭を務める
昌平黌の学問のあり方について述べた『
学寮了見書』の中で、「
春斎(鵞峰)時分学寮の教方大抵全備仕候而、尤なる事共道春より伝来の家法に相見候」と述べ、基本的に賛同の意を表しながら、同時に「和学は春斎も中々及不
レ申程の者にて御座候」と、こと和学に関しては、鵞峰もなかなか手が及ばなかったことを言う。実際、昌平黌において和学が行われたことはあまり聞かれない。和学に関しては、漢学者によるよりも、和学を専門とする人々によって行われたというのが実状であろう。もちろん日本の歴史、法制などの方面に顕著な学績を残した漢学者も少なくないが、彼らにとって厄介だったのは、和歌や物語など文学に対する知見の浅薄さであり、この方面では、めったに専門の和学者、歌人に太刀打ちできるものではなかった。それでも鵞峰も徂徠も、和学はあくまで漢学の一科として学ぶべきとしたのであるが、それは漢学者も日本の学問を修得すべきと考えたほかに、もう一つ理由がある。すなわち和学が、道徳を
旨とする
経学などから切り離れて、単独で行われることをよしとしなかったのである。
さて、和学者ことに和歌の詠作や歌書、物語の注釈を担った人々としては、まずは朝廷および
堂上の諸家を挙げなければなるまい。とくに
古今伝授(受)が
細川幽斎を通じて朝廷に伝えられ、
後水尾天皇がその伝授を受けると共に、歌学をはじめとする学問、諸芸の普及、発展に努めたため、廷臣の堂上諸家にも優れた人材が輩出し、そのことが堂上歌学の権威化に拍車をかけることになる。そしてもとよりそのことは、かの『
禁中並公家諸法度』の「和歌自
二光孝天皇
一未
レ絶、雖
レ為
二綺語
一我国習俗也。不
レ可
二棄置
一」という、朝廷および公家に対する、幕府の基本的政策と合致するものであった。またそれは、『
武家諸法度』に「文武弓馬之道専可
二相嗜
一事」とされた武家が、和歌を
嗜むことを妨げるものでは決してなかったし、公家の門人となって歌詠に
勤しむ武家も多く、それが堂上歌壇を支える基盤ともなったのである。
公家で有力な歌人、和学者を出したのは、
三条西、
中院、
烏丸、
日野、
冷泉などの諸家であるが、
地下にも幽斎に学んだ
木下長嘯子や
松永貞徳およびその門流がいて、民間でも歌詠、和学が盛んに行われた。その中心はもちろん京都であったが、山本
春正、
清水宗川、
岡本宗好らの歌人を
水戸の
徳川光圀が招き、ついで
北村季吟を将軍徳川
綱吉が召し寄せるなど、時の為政者が進んで歌学の振興に意を用いたために、江戸にも次第に
歌壇、
文苑らしきものが形成されるに至った。その一端は、春正等の編になる私撰集『
正木のかつら』やその続編を意図した
戸田茂睡編の同じく『
鳥之迹』などによって知られる。もっとも茂睡は、堂上歌壇の急先鋒として有名であり、現にその歌学書『
梨本集』では、堂上歌学の祖師藤原定家に対する批判も容赦ないものがあり、宗川らの「定家のいはれたとなれば、あしくても用来る也」(『清水宗川聞書』)という定家崇拝の姿勢とは、とても相容れないものがあったはずである。しかし、『鳥之迹』には宗川、宗好らの東下の歌人の作品も少なからず入っており、かつ『
紫の
一本』所収の
了然尼の
聞書歌(『若むらさき』とも)によれば、茂睡の叔父
山名光豊、号
玉山の邸宅で宗川、茂睡らが八月十五日の月見会を開いており、交渉も確実にあったことがわかる。
ところで、茂睡の『梨本集』は歌学書でありながら、その中に、「慶長
子の年、上杉景勝御退治として宇都宮まで御出陣の時、我等父忠、祖父山城守名代として組の大御番衆五十人をつれ、…」と、徳川家康の譜代の臣である祖父渡辺茂、駿河大納言忠長の付人である父渡辺忠が、関ケ原の戦前後に立てた武功について誇らしげに述べるくだりがある。同様に『紫の一本』においても、渡辺氏、
得船入道なる人物を通じて先祖の手柄を語らしめるくだりがある。かつ『紫の一本』の浅草艸菴記では、明らかに茂睡自身を思わせる庵主について「
主もと
禄に
居ること年あり。
故に
兵器を
嗜み、
凜然として
膚撓せず。これを
丈夫と
謂ひつべし」
(本文二二五~六ページ)と、「丈夫」であることを強調する。
彼様のことが、先祖書および自伝としての性格を持つ『
戸田家系図
并ニ高名物語』に語られるのは当然としても、『紫の一本』『梨本集』といった、
武辺譚とは縁違いはずの書物の中にまで持ち出す茂睡の性癖は、いささか問題視すべきものがある。
そもそも茂睡に兵学者の一面があったことは、その著『梨本書』を
繙けば明らかであるが、その茂睡が親しんだであろう書物の一つに、雑史、
浄瑠璃、
絵草子など多彩な形態で読まれた『
北条五代記』があり、その「
早雲寺殿廿一ケ条」には、「歌道なき人は無手に
賤き事也。学ぶべし」とある。つまり、歌道は、戦国の世にあっても弓馬の道と同様、武家の大事な嗜みの一つと見られていたのであり、そのため当時の武家は「連歌師などの浪々して京より下りたるを師として」(『梨本集』二)歌を学ぶことに励んだという。しかしながら、武家にとっての和歌は、表芸である武辺を離れてはありえず、あくまで武道あっての歌道という意識が強かったことはいうまでもあるまい。茂睡は武士の気象を人一倍、重んじた人であるだけに、歌学書を著すにおいても、どこかで武張った男らしい一面を表現しておきたかったのではなかろうか。
一方、公家の歌人、和学者は、なかば家業として公認されていたこともあり、安閑として歌詠を事としていたかというと、決してそうではない。近世前期の代表的堂上歌人の一人
日野資慶の『資慶
卿消息』には、
猶精神にしてまこと有れば、天地をうごかし、鬼神を感ぜしめ、人民を和す。これ和歌の徳といへり。…殊に偽りかざりことやうならんは、狂言妄語の罪のがれかたし。しからば大夫の吟詠とてもてあそぶにたらんや。
とある。この資慶の口勿は、まったく『古今和歌集』
真名序の表現を踏まえたもので、とくに「大夫の吟詠」云々は、同真名序の、
好色の家、此を以ちて花島の使と為し、乞食の客、此を以ちて活計の謀を為すこと有るに至る。故に半ば婦人の右と為り、大夫の前に進むること難し、
と、和歌の衰退、
澆季を述べたくだりを強く意識したものである。すなわち、当時の公家にとって、『古今和歌集』は絶対的な
規範でありながら、同時にそれが好色、活計の手段に成り下り、「婦人の右」にはなっても「大夫の前」には進めがたいという、女性的性格を持つに至ったことを、それなりに深刻に受け止めざるを得なかった。そして資慶は、「まこと」による歌詠であれば、その女性的性格を
免がれ、大夫の吟詠たりうることを論じたのであるが、この「まこと」という語には、心の邪正、真偽を問う、道徳的な価値感がはっきりと持ち込まれていた。
しかしそれでも、
熊沢蕃山の『
三輪物語』二のように、道徳性を欠いた当時の公家歌人を「歌よみの芸者」と非難し、「歌と
有職とにて公家の道は亡び
侍る事也」と断言して
憚らないような苛烈な意見も存した。徂徠も『徂徠先生答問書』の中で、詩と和歌を比較して、「此方之和歌
抔も同趣に候得共、何となく
只風俗之女らしく候は、聖人なき国故と被
レ存候」と、やはり和歌の女性的性格を、道徳感の欠如に求めている。こうした見方は、漢学者にはある程度、一般的なものであったと見るべきで、伊藤東涯門の篠崎東海著『和学弁』のように、「
其衰は
延喜の頃より、あまり和歌にふけられて、一条帝の頃は女の如く
惰弱になり」云々と、日本の国情を惰弱なものに
陥れたのも、もっぱら朝廷が和歌を
翫んだせいであるとする、たいそうな批判も存した。ともかく『古今和歌集』以来の和歌における非道徳性、女性的で惰弱な性格をいかに克服するかは、近世の和学者、歌人にとって、いわば
喉元に突きつけられた刃物のように、等しく避けて通ることのできない問題であった。
万葉研究の大成者として知られる
契沖などは、『
万葉代匠記』初撰本の惣釈で、
心のいつはりなくまめやかなるをば、まごころといひ、言のいつはりなきをまことといふ。真心真言なり。さるを心にいつはりなきをも、まこととのみいふは、いつはりなき人は、こころとことばとあひかなふうへに、いふことはあらはにて、知やすければなり。
と述べ、歌のあるべき姿として、心、
言に偽りのない「まこと」による歌を積極的に論じていた。しかるに契沖は、なぜか同書の精撰本においては、「まこと」について論及するのをやめている。他の著書においても「まこと」の記述が見えないうえは、契沖は、詠歌に「まこと」という道徳的な価値感を持ち込むことを放棄したように思う。この契沖の姿勢が、いかに本居宣長に影響を与えたかについては「解説」を参照されたい。
さて契沖の跡を追うように現れた和学者として知られるのが
荷田春満である。春満は『創学校啓』で、「万葉集は国風の純粋」「古今集は、
謌詠の精選」として両集を学ぶべきことを述べながら、同時に「格律の書
氓滅せば、
復古の学誰か
云に問はん。
詠謌の道
敗闕せば、
大雅の風何ぞ能く奪はん」と、律令の学と合わせて詠歌をさかんに推奨する。ただし、その春満の家集『春葉集』に添えられた
荷田信美の序文に、
をとこ女のなからひ、何くれのものによせ、心にもあらぬあだし言をいひいだせるは、まことを述る歌のほいならずとて、恋の題をふつによまず
とあるように、恋の題詠をしなかったことはつとに有名である。
春満が、恋の題を詠むことを忌避したのは、一方で律令の大事を説きながら、他方で『古今和歌集』に見られるような
姦淫、
猥褻の歌を詠むのは自家撞着にほかならないと考え、自制したことによる。そして春満の恋歌論は、『春葉集』の出版に
係わった
伴蒿蹊、
上田秋成といった人々に意外に深い傷跡を残した。すなわち蒿蹊は『恋歌論』などで春満に理解を示し、秋成は家集『
藤蔞冊子』はもとより、『春雨物語』の「海賊」にまで『古今和歌集』の非道徳性の問題を引き摺ったのである。
また春満の弟子である
賀茂真淵は、『にひまなび』で、
今その調の状をも見るに、大和国は丈夫国にして、古は女も丈夫に習へり。故万葉集の歌は、凡そ丈夫の手振なり。山背国は手弱女国にして、丈夫も手弱女を習ひぬ。故、古今歌集の歌は、専ら手弱女の姿なり。
と、男は丈夫風を目指して『万葉集』を見習うべきとし、『古今和歌集』の読み人知らず歌を理想とする女とは、区別すべきとする独得な歌論を主張した。これによって真淵は、和歌の惰弱な性格を克服しようとしたわけであるが、その主張は必ずしも門弟らの積極的に受け容れるところとはならなかった。その一人
村田春海は、『歌がたり』の中で『古今和歌集』を宗と学ぶべきことを説く一方、親しい漢学者が「丈夫の心をのばへむはただ
唐歌こそあれ、
手弱女のすさみに似たらむ事は、我はえせじ」と言ったという漢詩(唐歌)優位論に理解を示し、和歌惰弱説には手を
拱いているばかりである。しかも春海は『
和学大概』の中で「
林春斎が諸生を教る五科のうち、和学科をたてけるはこころある事なり」とし、
鵞峰の「忍岡家塾規式」を支持しており、この辺りに儒者を自称して
憚らなかった春海の本音が表れているように見える。(鈴木 淳)