古典への招待

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『栄花物語』と古記録小一条院の東宮退位事件をめぐって

第32巻 栄花物語(2)より
 三 条さんじよう天皇の皇子敦明あつあきら親王は、長和五年(一〇一六)正月二十九日、三条天皇が譲位し後一条ごいちじよう天皇が即位すると、父帝の強い意志で東宮となった。道長としては後一条天皇の弟敦良あつなが親王を東宮に立てたかったのであろうが、やはり天皇の意向に従わざるをえなかったのである。後一条天皇九歳。敦明親王二十三歳であった。翌寛仁元年(一〇一七)五月九日、三条上皇が崩御する。その八月、敦明親王は東宮退位の意思を表明、九日には敦良親王が東宮に立ち、敦明親王は上皇に準じて院号を得、小一条院こいちじよういんとなったのであった。当然のことながらこの事件は衆人の注視するところとなり、複数のかなり詳しい事件記録が残っている。
 敦明親王東宮退位事件を伝える史料は大きく二つに分けることができる。歴史物語と古記録である。前者はいうまでもなく『栄花物語』と『大鏡』、後者には『御堂関白記みどうかんぱくき』『小右記しようゆうき』『権記ごんき』『左経記さけいき』がある(ただし『権記』は『立坊部類記りつぼうぶるいき』に引かれた逸文)。古記録とは当時の男性貴族によって書かれた漢文の日記で、女流の仮名日記と異なり、日々に記される日次記であることを特徴とする。これらの古記録を本書の頭注にもしばしば引用したのは、時を置かずに出来事の現場を記した史料であり、信頼性が高いと考えられるからである。それぞれの日記の記主は、『御堂関白記』が藤原道長ふじわらのみちなが、『小右記』が同実資さねすけ、『権記』が同行成ゆきなり、『左経記』が 源経頼 みなもとのつねよりである。道長はこの事件の一方の当事者であり、実資と行成は公卿くぎようとして政治の中枢にあった。彼らの事件直後の証言が貴重なものであることは言をたない。しかし当事者であるがゆえの偏りや自己の正当化は当然考慮されねばならないだろう。以下ではこれらの史料を比較検討しながら、敦明親王東宮退位事件の真相、さらには『栄花物語』の特徴を考えることにしたい。
『栄花物語』のいう敦明親王東宮退位の理由と事情は巻十三〔一一〕〔一二〕にみえる。「などの御心のもよほしにかおはしますらん、かくてかぎりなき御身を何とも思されず、昔の御忍びありきのみ恋しく思されて、時々につけての花も紅葉もみぢも、御心にまかせて御覧ぜしのみ恋しく、いかでさやうにてもありにしがなとのみ思しめさるる御心、夜昼急よるひるきふに思さるるもわりなくて」。東宮の地位がもたらす窮屈さが親王には堪えられなかったというのである。そして、再び自由な身の上に戻ることを考え始めると、もうそのことしか念頭になくなり、自制がきかなくなるとするところに『栄花物語』の敦明親王把握がよく表れている。退位の意思を固めた親王は道長を呼び、その旨を伝える。しかし道長は、故三条院の皇統が絶えてもよいとお考えかといさめ、それは親王の本心ではなく取りいたもののせいだと言って、聞き入れない。実はこの道長の言は、親王が最初に心中を打ち明けた母后娍子の反応と同じである。さらに道長は多忙にかまけて親王の世話を十分にできなかったことを詫び、自分の孫禎子内親王のためにも退位を思い止まるようにと説得を続ける。母親以上に親王を思い遣るのがこの場面の道長といってよい。結局、願いがかなわなければ出家もという敦明親王に押し切られ、退位が決定するが、道長は一貫して受け身に回っている。親王自らの意志による退位とするのが『栄花物語』の主張であった。
『大鏡』は『栄花物語』以上にこの事件を大きく扱う。師尹伝もろまさでんに載せるその記事は二部構成になっている。まず大宅世継おおやけのよつぎが語るのだが、その部分は『栄花物語』の叙述と酷似する。「宮たちと申しし折、よろづに遊びならはせたまひて、うるはしき御有様いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思しなられて」とある敦明親王の心中が先の『栄花物語』と重なることは明らかである。続いて、母后娍子の反応、道長の諫めが記され、「さらば、ただ本意ほいある出家すけにこそはあなれ」という親王の言葉により、退位が決定したとあり、筋の運びまでが同じである。世継の語りはおそらく『栄花物語』を要約したものであろう。ただ「小一条院、わが御心と、かく退かせたまへる」と、自らの把握を明確にしている点は、いかにも『大鏡』らしい。
 ところが、ここで、聞き手に甘んじていたさぶらいが異説を展開する。三条院崩御後は敦明親王のもとに参る人もいなくなり、とても東宮御所とは思えないような有様であった。まれに訪れる人があるかと思えば、道長は東宮の地位を奪う心積りだなどといううわさを伝えたりした。そのため親王の心は次第に落ち着かなくなり、ついには退位を決意するに至った。これが侍が語る退位の真相である。そこには道長はどのように描かれているか。露骨な退位工作はみえないが、「おしておろしたてまつらむこと、はばかり思し召しつるに、かかることのぬる御よろこびなほ尽きせず」とあり、退位を願う心中が明らかにされている。そして、退位後の敦明親王を道長が婿に迎えた場面に「かく責めおろしたてまつりたまひては」とあるのが、侍によるこの事件の総括であった。敦明親王自らの辞退であるという点では『栄花物語』や世継の話と一致するものの、それは結果に過ぎず、裏に道長の、東宮を孤立させ揺さぶる策謀があったのであり、事情はまったく異なるというのである。
『大鏡』にはこの相反する二説が記されているわけだが、それでは作品全体としてはいかなる立場を取るのであろうか。実はそれはわからない。そもそも侍は世継の話に対し、まず「それもさるべきなり」と一応肯定してから自説を開陳かいちんする。そして、道長が敦明親王を「責めおろし」とまで言った侍の言葉に対し、世継は何も異論を唱えることなく、次の話題に移っていく。侍の批判は議論に進むことなく、いわば両論併記のかたちで終るのである。『大鏡』は序において極めて意欲的な設定をしていた。万寿二年(一〇二五)の雲林院うりんいん菩提講ぼだいこうに集まった老人大宅世継、夏山繁樹なつやましげきとその妻、彼らの話に興味を持ち、盛んにあどうつ侍。こうなれば聞き手は当然、複数の視点により史実をえぐり出し、議論により歴史認識が深まっていくような展開を期待するだろう。しかし、『大鏡』の実態はほとんどが大宅世継の一人語りのかたちを取る。異説が提出される場面は少なく、議論と呼ぶに値するものにはなかなか発展していかない。結局、世継は特権的な語り手として『大鏡』に君臨することになる。そのなかで唯一世継の語りが危うくなるのが、敦明親王東宮退位事件なのである。侍の話は東宮御所に参上した能信と親王の対面の場から、道長への報告、道長と親王の対面と進むが、極めて詳細で生彩に富む。語りの量においても世継は圧倒されている。二人の議論と結論が聞けないのは残念だが、こうした特別な方法を取ることで『大鏡』のこの事件に対する関心の深さは十分に示されている。また、両論の併記はおそらく後述するような事件自体の二面性に見合ったものともいえるだろう。
 古記録ではどうなっているか。『御堂関白記』の記述で注目されるのは、道長が直接関与する前に敦明親王の東宮退位が決っていたことである。寛仁元年八月四日、道長男能信のもとへ親王から東宮退位の意向が伝えられた。道長に早くに参上せよと命じられた能信は四日、五日と東宮御所に行き、すでに五日には道長に「彼ノ事、一定いちぢやうをはンヌ」と報告している。道長が敦明親王と対面するのは翌六日であり、いちおう「ク思シ定メテ仰セラルベキ者ナリ」と言い、母后娍子や しゆうと藤原顕光の意向を尋ねているが、むしろその場では退位後の待遇が問題だったようで、親王の要求通り受領給ずりようきゆう随身ずいじんを約して、会見は簡単に終った。もちろん、これ以前に道長による東宮退位工作など少しもみえない。敦明親王の東宮退位が道長にとり大変な喜びであったことは当然で、それは何より、六日退出後すぐの敦良親王母后彰子への報告、翌七日の立太子定りつたいしさだめ、九日の敦良親王立太子と、当時としては異例のスピードで事を進めたことに表れている。しかし、道長自身の喜びの言葉は『御堂関白記』に記載されていない。彰子の喜ぶさまを「気色云けしきいフベキニあらズ」とするのが、唯一道長側の反応をうかがわせる記述である。『御堂関白記』は淡々と事実を記載する体裁の裏で、道長の不関与と、あくまで敦明親王の意向に従い諸事を進めたことを言外に主張している。
『小右記』ではまず六日条に、東宮辞退の噂を聞いた実資の思いが「奇ナリくわいナリ。希有希有」とみえる。実資にとって寝耳に水だったようである。翌七日条には道長からの伝聞として、敦明親王が語った退位に至る理由が記されている。補佐する人もなく、邸内は荒れ放題、東宮傅とうぐうふ顕光と大夫だいぶ斉信は仲が悪く、まったく自分のためになっていない。よって「辞遁じとんシ心閑カニ休息スルニカズ」と思うようになったというのである。『大鏡』の侍の話と重なるわけだが、しかしこれはほかならぬ道長が語ったことなのである。道長としては、東宮の世話は顕光、斉信、さらには親王の叔父通任が担うべきことであり、何ら責任を感じる必要はないということであろう。
『小右記』で注目されるのは壺切つぼきり太刀たちに関する記述である。この東宮の地位の象徴とされる剣は八月二十三日に新東宮敦良親王のもとに遣わされたのだが、実は敦明親王には渡されず、内裏に置かれたままであった。『御堂関白記』はそのあたりを「くだんノ御剣ハ代々ノ物ナリ。しかシテいま前坊ぜんぼうニ渡ラズ、大内おほうちニ候スルナリ」と書き流している。ところが『小右記』には「 すべからク前ノ太子ニ奉ラルベシ。而シテ前摂政(道長)をしミテ奉ラズ」とある。道長の敦明親王圧迫の一環ということになろう(この逸話は流布本系の『大鏡』にもみえる。世継が「しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃、内の納殿にさぶらひつるぞかし」としたのに対し、侍はそれを「僻事ひがごと」とし、「故三条院度々たびたび申させたまひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞きはべりしか」と言っている)。道長が東宮としての敦明親王に圧力を加え続けたことは他の事実からも明らかである。立太子時に子弟を宮司にみやづかさすることを拒んだし(小右記・長和五年正月二十六日)、何をいても考えるはずのむすめの参入もなかった。倫子腹の三女威子は敦明親王と年齢的にちょうど釣り合うわけで、道長が敦明親王を東宮として認めるならば当然すぐに結婚ということになったであろう。
 しかし、道長が敦明親王に対してなしたことは、結局いやがらせの域を越えるものではなかった。もちろん道長の政治感覚からすれば東宮退位という結果は見通されていたであろう。上に立つ者の意向が下の者たちによって拡大され定着していく政治力学を道長は知り尽していた。また、敦明親王が地位に固執し続けた場合には別の対応がなされたであろう。だが、この事件の表面に出た部分は当の道長が実資に素知らぬ顔で話せるものに過ぎなかったのである。敦明親王退位をめぐる証言の差異はそもそもの事件の質に由来している。
『権記』七日条には面白い記事がみえる。行成は立太子以前に敦明親王を見た際、「容体例人ようだいれいひとニ異ナラズ。龍顔りゆうがん無シ」と感じたという。それが東宮に立ったので、自分は人相を見る力はないと思っていたところ、果して今回の事態が生じたというのである。貴族たちの敦明親王に対する低い評価が読み取れよう。立太子直前の長和五年(一〇一六)正月二十四日条の『小右記』にも「ノ宮ノ御ていヘテフベキニアラズ」「式部卿宮ノしきぶきやうのみや御心例人ニ似給ハズ」などとみえていた。『栄花物語』の記述に通じるものであることはいうまでもない。
『左経記』では六日条に「東宮、故一条院ノ三ノ宮ニノ職ヲ譲リ奉リ給フ、ト云々」という噂がみえることに注意したい。六日の時点でもう敦良親王の名が出ているのである。驚くべきはやさで情報が伝わり、それが拡大解釈されていく様相を垣間見ることができる。
 敦明親王東宮退位に関しては複数の史料が残る。それらは重なり合いながら、一方で独自の事実、解釈を示している。事件の真相は、結局のところ、これら複数の史料の堆積たいせきの中にあるといわざるをえない。『大鏡』と『小右記』の符合がとくに眼に付くが、『栄花物語』もまた『大鏡』や古記録の記述と重なる部分が大きい。『栄花物語』の作者は女性と考えられ、古記録類を資料として使用したとは考えにくい。それでありながら『栄花物語』は敦明親王退位の真相を伝える史料群の一角に確かな座を占めているのであり、『栄花物語』が蒐集しゆうしゆうした資料、およびその編纂へんさん方法の信頼性は意外に高いというべきであろう。軽々に史実離れを云々することは許されない。意図的な改変や虚構を含む道長讃美の物語とする「常識」が再検討される必要があることを『栄花物語』の敦明親王東宮退位事件の記事は教えるのである。
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