『源氏物語』から『栄花物語』へ
第31巻 栄花物語(1)より
平安時代に発生した一ジャンルである仮名文の国史に「歴史物語」という名称が与えられているが、その嚆矢としての『栄花物語』四十巻の面目は、まさに日本の文学史のうえに銘記されてしかるべきだろう。
いったい、この『栄花物語』が宇多天皇(八八七―九七在位)から堀河天皇(一〇八六―一一〇七在位)まで十五代、二百年間の編年史であるということは、『日本書紀』にはじまる官撰の六国史の最後、清和天皇(八五八―七六在位)、陽成天皇(八七六―八四在位)、光孝天皇(八八四―八七在位)、三代の編年史『日本三代実録』を明らかに継承するものである。しかも本格的な編年史としては村上天皇(九四六―八七在位)にはじまり、それ以前の宇多、醍醐、朱雀三代が、皇子・皇女・大臣らの極めて簡略な系譜的記事であるにすぎないのは、『日本三代実録』をうける『新国史』が、未定稿ながらその三代の編年史として編纂されていたことを意識してのことであっただろう。
『新国史』は散逸して今に伝わらないが、その編纂のための撰国史所が設置され、最初に藤原恒佐、平伊望、次いで大江朝綱・大江維時などの別当に任ぜられたことが知られる。しかしながら、『栄花物語』がそうした歴とした官撰国史に後続する大作であるにもかかわらず、その編纂事情についてはまったく明らかにしえないのである。作者としては、国史編纂に深く関与した大江家に嫁して匡衡の妻となり、藤原道長の室倫子に仕えて宮廷事情にも明るく、晩年出家した赤染衛門によって正篇三十巻が執筆されたとするのがほぼ定説となっているが、しかし確かな外証があるわけではなく、そうした伝承がいかにも妥当であるというだけの話である。続篇十巻の作者説も内証による推定であるにすぎない。詳しくは本書巻末の解説によられたいが、どのような作者を推定するにしても、この二百年にわたる編年史が一個人単独の営為とは考えがたかろう。さまざまに想像される編纂機構があってこその制作であるにちがいないのだが、その件についていかなる記録をも見出しがたいのは、『栄花物語』がいかに六国史を継承するものとして書かれたとはいえ、それら官撰の国史に伍しえぬ仮名文の「物語」にほかならなかったからだと考えるほかないだろう。じつはそうであることによって、正統の国史の命脈の断たれた歴史的社会的状況のなかで、この前代未聞の「歴史物語」を紡ぐことができたのではなかったか。以下、その間の機微の一端について述べてみたいが、いうまでもなく、この「物語」の生誕を誘発したのは紫式部によって書かれた『源氏物語』であった。
『紫式部日記』によれば、一条天皇が『源氏物語』を「人に読ませたまひつつ聞しめしけるに、この人(紫式部)は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と仰せられた、そのために紫式部は「日本紀の局」とまであだ名されたとある。「人に読ませ」とある「人」は女房であろう。中宮彰子のために女房が音読するのを天皇が傍聴していたのだろうか。しかし、そのこととは別に天皇はみずから『源氏物語』を耽読したにちがいない。『紫式部日記』によって、道長も公任も『源氏』に関心を寄せていたことが知られるが、それはともかくとして、醍醐天皇・村上天皇にも比肩しうる好文の帝である一条天皇が、『源氏』の作者について前記のような感想をもらされたことはただごとではない。そこにいう「日本紀」とは、『日本書紀』以下、六国史の総称とみる説に従っておけばよいだろう。それは中国の三史や春秋が尊重される通念のうえに、やはりおのずと権威づけられたわが国の正史であった。天皇は紫式部がその「日本紀」の知識の所有者であることを嘉賞したのだが、そのことよりも天皇が『源氏物語』をどう受容したのかということがここでは問題である。
いったい、物語は当時の通念としては婦女子の心やりの具であり、それの創作がその本命からすれば逸脱した余技というほかない男性作者の手から、女性自身のわが身の上の自覚に基づく営為に転じていく経過においても、それは変らなかったといえよう。男子の表向きがかかわるべきものではなかった。『源氏物語』の出現によっても、物語についてのそうした伝統的通念は何ほども変改を蒙らなかっただろう。ただ『源氏物語』だけは「日本紀」を連想させるほどの特異な述作である、というのが、一条天皇の認識であったと考えられる。やがて時代が降って、『源氏物語』が過去の貴族文化の黄金時代の輝かしい記念碑として研究の対象となったとき、物語のなかの人物や事件、行事、場所や建物に至るまで拠りどころとなったであろう史実や典故や伝承などが詮索されることになったが、そうしたいわゆる「準拠」の研究と、この知識人一条天皇の『源氏』の読みは一連なりであるというべきだろう。
いかにも『源氏物語』の世界は、そこに導入されている史実や典故によってその現実感の保証されている点に大きな特色が見出されるといえようが、作者紫式部は一条天皇の発言をどう受けとめたのだろうか。それはそれとして大いに面目をほどこす思いではあっただろうが、しかしながら『源氏物語』の蛍巻において、光源氏をして「日本紀などはただかたそばぞかし」と道破させていることは、はたして天皇の発言と無関係だったのだろうか。
光源氏のその言葉は玉鬘との対話のなかで発せられている。長雨のころ、物語などの慰みごとにつれづれの時を費やしていた六条院の女性たちの、玉鬘はその一人であったが、彼女は物語の世界のなかのヒロインたちの身の上とわが尋常ならざる境涯をひきくらべて嘆かずにはいられなかったという。そうした彼女の部屋に訪れた光源氏が、物語にはほとんどありえぬことしか書かれていなかろうに、それを真にうけるとは女はなんと浅はかなことか、と揶揄するものの、それが多少言い過ぎと思ってか、しかしつれづれを紛らすには物語しかない、物語のたわいもない話のなかに心をひきつけてやまない一節がないではない、などと論をひるがえし、それに対する玉鬘の応答に触発され、やがて、「(物語は)神代より世にある事を記おきけるななり。日本紀などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」と言い出すことになるのだが、さらに、「(物語は)その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶしを、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。よきさまに言ふとては、よき事のかぎり選り出でて、人に従はむとては、またあしきさまのめづらしき事をとり集めたる、みなかたがたにつけたるこの世の外の事ならずかし」と、語り進めたのである。その前後関係の呼吸は十分に考慮すべきではあるにしても、ここに『源氏物語』の創作についての自注を読んでしかるべきだろう。そしてまた、前記の一条天皇の発言にみられるような『源氏』の受容態度への反論であるともそれは理解されよう。光源氏の絶対的王者性を隠れ蓑とすることによって、紫式部はこのような物語作者としての自負を披瀝したのではなかったか。
紫式部にとっては、史実のそこに読まれるのが物語ではなかった。物語に導入される史実は、そこから離陸しようとする虚構の現実を強固に達成するための拠りどころにほかならなかったのである。史実の記述、特定の誰彼の事績の記録にすぎない「日本紀」などは一面的であるにすぎないとし、物語においてこそ道理の筋が明らかにされ、人間の全円的な追究がなされるというのだが、そこではただ見聞きするだけではすまされぬ、どうしても伝え残しておかずにはいられない感動が因であり、そのために善悪ともに例外的あるいは極限的な事件や状況が選ばれ設定されるという論理であるが、現実にいかに近いか、いかに似ているかではなく、現実としては普通にありえぬような虚構の現実を造成することの意義の主張は、まさに『源氏物語』の作者の創作体験と不可分の思想の表白であったといえよう。
一条天皇の発言にみられるような知識人男性の理解もさりながら、『源氏物語』は同時代からさまざまの形で広汎に受容された。一に、その世界が構造的連関の相において推移展開する壮麗な虚構の現実の迫真力が人人の心をとらえたからである。そこに生動する人間群像との共感によって己れの人生の在り様を自覚させられた読者が、新たなる創作行為を誘発されるのは当然であった。鎌倉初期に書かれた評論書『無名草子』には、『源氏物語』の出現は人間わざとは考えられぬ奇蹟であったという認識が語られ、これを参考にし、工夫を凝らすなら、さらにすぐれた物語を作り出す人があるかもしれないと述べていたが、そうした文言は、『源氏物語』を凌駕しようとする意欲のもとに、さまざまの新趣向・方法を発案して後期物語の書かれた事情が踏まえられているのであろう。わが実人生が『源氏物語』の世界と同一であることを願った『更級日記』の作者が、伝承によれば『夜の寝覚』『浜松中納言物語』のごとき秀作の作者でもあったということは象徴的である。しかしながら、同じく『源氏物語』の享受圏にありながら、後期物語の作者たちとはっきり袂を分かち、虚構の物語ならぬ「歴史物語」の世界の造立へと、『栄花物語』の作者は独往の境地を拓いたのであった。
『栄花物語』の作者が『日本三代実録』をもって断絶した官撰の国史を仮名文の物語という形で受け継ぎ、宇多朝から起筆したということは、並なみならぬ自負のこもる新機軸のまさに驚嘆すべき創出であったといえよう。「日本紀などはただかたそばぞかし」と判じ、物語にこそ「道々しく詳しきことはあらめ」と、その作者をして言わしめた『源氏物語』の磁力は、『栄花物語』の作者をしてそうした方向に突き出すほど強力であったのだといえよう。『栄花物語』の作者は、「日本紀」と「物語」と、『源氏』の作者にとっては同一の座標のうえには到底据えられるべくもない両者を統一するという荒わざを試みたということになろうか。
『栄花物語』に何が語られているのかは各巻の冒頭に付した梗概を読んでいただきたいが、総じていえば、藤原道長が権勢の座につくまでの経過と極められた栄華の実態が描き語られ、その間に浮沈する人々の悲喜哀歓が克明に織り紡がれている。『源氏物語』の主人公光源氏のまたとなく輝かしい人生が範型となって、『栄花物語』の作者をして藤原道長の人間像と事績へと向わしめたのであったが、その光源氏像は、彼がいかに虚構の世界に生きる主人公であるとはいえ、作者が目の当りに接した道長の権勢のやはり磁場の上でこそ思い描かれえたのだから、『栄花』の作者は、いわば物語的世界、物語的人生を事実の次元に引き戻そうとする作業を野心的に敢行したことになる。そのための基礎作業として膨大な資料蒐集がなされたはずであり、作者はそうした便宜の得られる立場に恵まれた者でなければなるまいが、最初に触れたようにその修史事業についての所伝は見出しがたいのである。それが仮名文の物語ゆえであっただろうことも前記したが、そのことと『栄花物語』に叙述される内容が厳密な史料批判を経たものでないこととはまさに照応するといえよう。例の巻八「はつはな」の寛弘五年の記が『紫式部日記』に依拠していることからも類推されるように、『栄花』は宮廷事情や道長の周辺に詳しい見聞実録にもとづいて編集されたものと解されているが、事件事件の時序、人物関係や状況が客観的な事実に著しく違背する記載に応接のいとまがない。これが作者の所為によるのか、依拠史料における誤伝によるのか、その判断は容易ではないが、第一史料に照らして、その錯誤が指摘されることと、この歴史物語の価値評価の問題とはかかわりないこととすべきだろう。『栄花物語』の作者によって蒐集された史料は、作者もその一員である貴族社会の女性中心の志向・感受性によって見聞きされ伝承された事実であり、客観性の如何とは別の位相においてその真実性を評価すべきである。それらが誰にも属し、誰にも属さぬ外的時間枠というべき編年体の枠組みに配分されるとき、統一的な歴史像の造立がおぼつかなくなるのは当然だとしても、しかしながら、そこに織りなされる「さまざまのめでたき事、をかしき事、あはれに悲しき事」(巻一「月の宴」)の数々には、『栄花物語』のみが伝える感動的な話柄に事欠かないのである。そこには、やはり王朝の宮廷貴族社会の「見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世に言ひ伝へさせまほしき節ぶし」が語り綴られているのであった。